成功 《Ⅳ》
「皐……ですか?」
この突然の言葉に桃秦が思いもよらないという不思議そうな顔をした。黄函先生はすっと嘴のような高い鼻で息を吸い込みながら、奥の整頓された書物の積まれた棚や、木窓の外、自分の足元などを見渡し、そしてふむと、向き直って子琳と瓊凜を見比べた。と言っても、この黄函先生と呼ばれる人に辺りが見えているようには思えなかった。両目を覆うように朱の帯を巻いているからだ。しかし、視点は二人を指している。
「君達、皐士かね?」
黄函先生は、いきなりそのようなことを二人に聞いた。
「皐士?皐士ってあの?」
「うむ。君達が来てから……何か懐かしい匂いがしてね」
瓊凜には別段変わった香りなど感じていない。変わったというなら、この屋内に染み渡る香草の匂いで、先程から他の匂いなどわからない状態だ。しかし、それはこの中に入ってからであるし、第一“皐”の匂いがすると言われてもよくわからない。瓊凜と子琳は自分の衣服の袖の匂いをお互いに嗅いでみたが、そんな懐かしいような匂いはしない。
すると黄函先生は少し黙ってから瓊凜ではなく子琳の方を見た。
「どうやら君から皐の香りがしているようだ」
子琳は咄嗟にまずいと思った。龍は皐術を行使する。その雛龍である自分から皐の匂いがするというのは不思議でもなんでもない。しかし、子琳は皐の匂いなどというものなど特に意識した事がなく、今まで“人”から言われた記憶もあまりない。どうやらこの人はそういった通常では感じ得ないような匂いを嗅ぎ分ける嗅覚をもっているらしい。もし、追究されでもすれば雛龍だとばれてしまうかもしれない。
「ど、どういうことですか?」
とにかく惚けてこの場をやり過ごそうと思った。その返答に黄函先生はというと含んだような表情をし、こっくり頷いた。
「そうか、君には自覚がないのか。……失礼した、近頃このような廬で晴耕雨読をしておると皐士と見えることがあまりなくてね」
と言うと、何かを思い出したのか改まって袖を揃えて深々と頭を下げた。
「これは申し訳ない、ご紹介が遅れました。最近、既知の客ばかり相手にしておるものでつい忘れていました。拙者、呂崔というしがない隠者でございます。過ぎた号ですが周りからは黄函先生と呼ばれております。そして是は桃秦といいまして、傍目には粗末ですが、なかなかの才があると見込んで私が面倒を見ております。どうぞお見知り置きを、小さな客人さん」
いやに丁寧な挨拶に二人はなんだか悪い気持になり少し身嗜みを整え、そして瓊凜が改まって自分と子琳を紹介した。さすがは商家の娘である。こちらも非常に丁寧な紹介であった。
「ところで、子琳といったかね。君からの皐の匂いは、非常に澄んだ、麗しい香りだ。一瞬で私が望郷の念に駆られてしまうような」
「子琳が、皐士……?でも、私そんな香りを感じた事ないんですけど」
瓊凜が子琳に顔を近づけて匂いを嗅ぐ。むしろ瓊凜の方がいい香りがした。
「皐の香りは皐を扱う皐士にしかわからないんだ。しかも先生はその中でもずば抜けて長けてる」
桃秦が得意気な顔で言う。
「つまりだなぁ、先生も皐士なんだよ。しかも、皐を嗅ぎ分ける力がそんじょそこらの皐士とはわけが違う。んで、学も教養もあってだな、数えるほどしかいないというあの龍陽宮をその目で見てこられた、どうしてこんな辺鄙なところにいるのかよくわからないぐらい素晴らしい皐士なんだぜ」
畿禁宮と聞いた途端に、色が変わったかのように瓊凜が瞬時に目を輝かせた。
「龍陽宮ってあの……嵩邦の姑射山にあるといわれている、あのですか?」
「ほう、仙に興味がおありかな?」
「は、はい。昔から一度でいいからこの目で嵩邦の仙郷を見たいと思ってたんです」
「ならば今度時間がある時に来るといい、よければその時のお話しをしてあげよう。今は……どうやらお急ぎのようですからね」
急いでなど――と言いかけて瓊凜は口をつぐんだ。ここにあまり長居はできなかった。彼はそれを察していたようだ。
「ほ、ほんとうですか?是非!」
瓊凜はわかりやすいぐらいの喜びの表情で、これに頷いた。心から仙郷に憧れているのだろう。家族を亡くし、それが一層強まったのかもしれない。
一方の子琳は傍でそれを見て、またもどかしい気持ちを覚えてしまった。子琳はそこで雛龍として生きてきたから、問われればいくらでもその話をすることができる。でも、今は話すことはできない。瓊凜が悲しそうな顔をしないのなら、好きなだけ話してあげたかった。
下界にはない、四色の花弁をもち、甘蜜のようなよい香りのする花木。紫雲を割るほどの高さの大樹である扶桑に造られた銀朱の瓦の金殿玉楼、駆け回る金色の鬣を持つ駿馬、数多の極彩色の鳥が水浴びする山庭。山紫水明、花鳥風月……。
だが、子琳はその“美しい場所”から初めて降りてきた時、それよりもむしろ下界の風景に心奪われた。確かに仙の居た所は美しかった。しかし子琳にはこちらの方が遥かに美しいと思ったのである。その理由が自分でもまだわからない。わからないから、降りてきて考えていた。でも瓊凜は、この下界よりも仙郷の方が美しいと思っているのだろう。そこがまた子琳には不思議であった。
「それから……」
と、黄函先生は桃秦の肩に手を置いて言う。
「急ぎのところ申し訳ないのだが、少し彼と話をしたいんだ。悪いが席を外してくれないか、あぁ瓊凜も。すぐに終わりますから」
桃秦は何かを悟ったのか、こくりと頷いて、瓊凜の手をひいた。しかし、瓊凜は子琳に何か言いたげであった。
「でも子琳……あなたが皐士だなんて」
「瓊凜、とりあえず外に出てこれからの方策を決めよう。あんまし時間がねぇんだ」
「……」
ふたりが出て行くのを何かで確認してから、黄函先生はどすんと子琳の真ん前に座った。対面状態である。目が見えていないとは思えない素振りであった。
子琳は正直動揺していた。一対一で自分に話す事とはなんだろうか。自分の正体だろうか、はたまた……。子琳が少し俯いて身構えていると、すぐに先生が話し出した。
「そんなに緊張しなくてもいい、別に君に何かをするというわけではない。ただ、話しておきたくてね」
そう言うと、なんだかふっと緊張が解れてきた気がした。彼の口調なのか作りだす空気なのか、それとも作術だろうか。
「まずどうして私の目がこうなったか、話しておこう」
そう言うと、目に被さっていた帯を解いた。窪んだ目は完全に潰れていた。
「先程も言っていた通り、私は皐士だ。十年ほど前まで、北中の魯という国で王に仕えていた」
北中とは、戴邦の中央にある嵩邦から北の武邦に跨る平原地帯のことである。そこに魯という国はあった。
「だが、魯は滅んでしまった。王の臣下の弑逆によってね。私は何とか命からがら脱出したが、その一件で現世に嫌気がさしてしまって、遂には政争も戦争もない仙の居る憧苑と呼ばれる所に憧れるようになった。私はどうやってその場所に行けるかを仙に詳しい人に聞いたり纏わる書を読んで調べてみたが、結局とても難しいことだと分かった。畿禁へ繋がる関門は仙を守る禁軍が固く守っていて、別の行路から迂回しなければならず、その行路が非常に危険で徼恍にやられた人を食う怪物が蔓延っているという、とても身一つで辿りつけるような場所じゃなかったわけだ」
黄函先生は、一息おくとまた目に帯を巻く。
「だが、どうしてもひと目見たかった。そして、その衝動が抑えきれなくなって、大金をはたいて護衛を雇い龍陽宮を目指すことにした。苦難の道だったよ。護衛は一人二人と死に、逃げ出す者も現れた。それでも、何とか幾重もの山を越え、龍陽宮のある場所まで来た頃には一人になっていた……。しかし、そこは廃墟だった。寂れて、朽ちて、壊れていた。扶桑も楼閣も何もない。幻滅した瞬間だったよ。所詮、そんな場所などなかった、徒労だったとね」
子琳は黙った聞いていたが、どうしても頭の中にあの目の窪みが甦る。
「そんな時、突然天から徼恍が落ちた。今になって思えば、もしかしたら私が呼び寄せたのかもしれないな。徼恍を浴び、私は気が狂いそうなほどの郷愁に襲われた。自分の中で凍りついていた何かが崩れそうなほど温かいものだった。そんな最中、私の目の前には素晴らしい景色が広がっていた。今でもありありと思い出せるよ。草木の色、楼閣の並び、絢爛な衣装を身に纏い街路を歩く人々。あれは恐らく私が憧れ続けた龍陽宮だろう。どれくらいの時間が経ったか、自分の中で何かが失われつつあるのを感じた。感情、記憶、情熱。私はこのままでは堕ちてしまうと、咄嗟に目に匕首を押しあて潰した。何故自分がそうしたのかよくわからない、そのまま幻想の中に生きてもよかったはずなのに。だが、今はその行為が正しかったと思っている」
それで……、と子琳は俯いていた顔を少し上げた。
「あぁ、申し訳ない。長話は私の癖でね。それで、気付いた時には、真っ暗な世界が広がっていて、ただ非常に強い皐の香りだけが周囲に漂っていた。しかも以前より強く感じられるようになっていたんだ、皐の香りをね」
「えと、どうやって帰って来れたんですか?目が見えないのに」
当然の疑問であろうことを子琳はそのままにしておけない。
「……うむ。目は見えないが、見えるんだ。頭の中に目で見るよりもさらに鮮やかに景色が現れるようになったというべきか。全てを見通せるようになったんだ。この力は仙から賜ったものだと思っている。……では本題に入ろう」




