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戴邦物語  作者: 龍本 明
氷の壁
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瑕疵  《Ⅴ》


玄順(げんじゅん)は思った。


――こやつは瀑鈳(ばくあ)の心が透けてみえておるのやもしれん、と。


魏素(ぎそ)陸炎(りくえん)(瀑鈳)に対する憧憬は並大抵のものではない。成にいるときも、大枚を(はた)いて間者を放ち、陸炎の戦況を逐一事細かに報せた。行軍速度、兵の統御方法、部将の器量、輜重(しちょう)管理、政治的立場、あらゆることを仕入れた。そして取り込もうとした、と同時に瀑鈳という人間を自身に会得しようとしたのだった。やがて部屋の中で収集した瀑鈳の戦場での思考を反復するうちに自分に瀑鈳が宿る気がした。


 それが自らの憧れの完成であり、体現であると思った。だが、憧憬に抱かれている心地よさは、母の腕の中でうたた寝するかの如く安らかであった。それを乗り越えられない魏素は、建恭で瀑鈳不在を聞いて安著したことだろう。臆病というのとは違った引けがあった。


 魏素も内心驚いただろう。確たる根拠もないのに、彼の考えていることがわかるのである。戦争といういわば極限的な状況が魏素にある種の能力をもたらしたというのなら、それはあまりに瀑鈳にとって不運ということになるであろう。だが、玄順にとっては必ずしも芳しいことではなかった。


「主君を討つというのか」

その言葉には、翳りが含まれていた。魏素は濡れた布で顔をごしごしと拭いてから、目を一点において言った。

「近年の彰の政治は目に余るものと聞いております。丞相が実権を握り王は傀儡、しかもその王はその専横を見て見ぬふりをし、毎晩酒色に更けていると。あの剛直な陸将軍がそれを許しておられるはずがない。建恭の任を急に解かれたのも王や近臣と確執があるからと考えるのが自然。だが、彰の功臣の家系である陸将軍が彰そのものの簒奪など考えづらい。そもそも、あの方に限ってあり得ない。ならば龍を旗頭に――」


「根拠は、あるのか?」

突然言葉を遮った。

「お前は、陸炎を知りすぎて、勝手に奴と自分を重ね合わせているのではないのか」

玄順の問いに魏素は口を開けたまま次の言葉が出ずに黙り込んだ。

「仮に。仮に奴がその企てを目論んでいたとして、この戦にどう結び付く。結局奴はこの戦いに勝たねば謀反すら出来ずに斃れるだろう。ならば、その前に我々が勝てばいいだけのこと。雛龍など関係ない。今、こうやっているときも、如何に我が軍の損害を少なくしてあの砦を落とすかを考えねばならぬのではないのか」


「だからこそです」

魏素の瞳に何か熱いものが宿る。

「あの方の守備に疵などほとんどありません。編みこまれた鎖帷子に指を差し込むが如きです。私の概算ではあの砦を落とすのに千から二千の死傷者を出し、千ほどの武器を損失するでしょう。しかし、もし雛龍がいたとしたら、もっと容易くかの城は落とせる」


 玄順は、なおも信用していなかった。いや、信じたくはなかった。それには理由があった。

魏素は最初であり最後の弟子である。その人間性は会った時からとても気に入っていた。必ずやこの芽生えたばかりの才能の塊を世に知らしめ、優秀な帷幄の臣として天下に埋没しかけた我が名を轟かせようと、この老人は決意していた。しかし、玄順に残された時間は少ない。


 魏素の陸炎への昏倒ぶりは最近過剰になっていた。自らが陸炎にでもなったかのように振舞い始めた。崇拝と憧憬の狭間、模倣と言っていい。だが、陸炎の跡をなぞろうというのは、出世への道を閉ざすだろう。あの国士は、自らが王になり変わろうなど考えようともしない。永遠に王佐で満足するだろう。魏素にそうなってもらっては困るのである。


 玄順が欲しいのは躍進、栄達、権力、を導いた賢臣の地位。あの老いた成王が死んだとき、必ず内紛が起きる。いや起こす。その為に策謀を巡らしてきた。その政争に参戦する地位、政治的発言力を得る為にこの戦いに勝つ必要がある。国の為の謀反などではなく、私欲の為の謀反、簒奪。しかし、このままでは下らない義憤に駆られ魏素はそれを渋る可能性があり、機を逃しかねない。残された時間は僅かである。


「ではどうする、その可能性に賭ける価値ありか」

魏素は卓上の駒を一つぱっと掴んで握った。


「その子供を捕らえ、質子(ちし)にします。例え雛龍でないにしても、将二人を犠牲にして守った子供、交渉の種ぐらいにはなりましょう」

「それで相手から何を引き出す?」

「そうですね……」

そっと(くう)を見た。



「大司皐を殺してもらいましょうか」


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