綺麗。 《Ⅲ》
全身を使って呼吸をし、空気を吸おうとするが上手く吸えない。しかも腰が抜けて膝を立たせようにもうまくいかず、まだ感覚の確かでない腕で地面を這って逃げようとした。
彼等の仲間を間接的にも殺したのだから、どんな仕打ちが待っているのかは想像に難くない。
――殺される。
逃げなければ殺されてしまう。どうにか、どうにかして。
一方、瀑鈳は血の滴る剣を持ったまま立ち尽くし、痙攣した残骸を見るわけでも頸から血を流して事切れている者を見るわけでもなく、ただ視点が定かでない目で俯いていた。
匡鉄はそんな瀑鈳を後目に剣を勢いよく引き抜き、怒髪天の形相を露わにして叫ぶ。
「小童、よくも黄起と孔淵を!八つ裂きにしてくれるわ!」
匡鉄がたじろぐ子琳に向かって飛びかかろうとした矢先、またしても瀑鈳がそれを制した。今度はより恐ろしく冷たい眼で。
匡鉄はその威圧に気圧され、やがて深い溜息を吐くと空に浮いてやり場のない剣を遣る瀬無くおろした。
子琳はその間にも血で濡れた髪をかき上げ、肩まで肌蹴た装束もそのままに必死に這ってどうにか子供一人通れそうな岩窟に身体を放り込もうとする。
しかし、――瀑鈳の血に塗れた剣先がその眼前を遮った。血の滴る間の刃に自分の恐怖でひきつった顔が映る。今まで見たこともないような強張った表情をしていた。
瀑鈳は怯えて前方の一点を見たまま硬直する子供の目線まで腰を落とした。否応なく目が合う。瀑鈳の顔は怒りを必死に押さえているようであった。眉間に寄った皺がさっきよりも深くなり増えている。
「子琳……非は我々にあるとはいえ、再びこのような行いをすれば神祖の御子でも私は斬らねばならぬ。そのような事を私にさせないでいただきたい」
子琳は頷くしかなかった。心臓の鼓動は嗚咽のような呼吸と同調し、今までにないくらい早く打っている。どうすることもできなくなった時、人――いや、言葉をもつ生き物ならば、ただ情に訴え謝ることをする。彼はそうだった。
「ごめんなさい……!ごめんなさいっ!」
子琳は謝った。謝って済むものならと、瀑鈳の顔を直視せずひたすら助命を請うた。涙と鼻水と血でべとべとになった顔を動かし、泣きじゃくって言葉の体を成していないような声で謝った。だが最期まで頭を下げなかったのは雛龍としての残された僅かな自尊心によるものだろう。
瀑鈳はその様子を見て少し困ったような顔をし、小さな溜息を一つ吐くと血濡れていないほうの手を子琳の頭に優しく乗せた。
「我々が手荒過ぎた。こちらこそすまない。だが今の我々にはこのような手段しかなかったのだ、申し訳ない」
謝罪の言葉を聞き、自分を殺すことはしないということがわかった瞬間、ふっと緊張が解け、安堵からさっきより増してぽろぽろと涙が止めどなく溢れた。そして、必死にしゃっくりみたいな呼吸を平常に戻そうとして鼻水を拭い、瀑鈳の顔を涙で霞む目で一瞥した。涙で朧げた顔には、さっきまでの威圧感はなかった。だがまだ何か厳しいものを感じさせる。
「ぼっ……僕を……どう、どうするんですか……」
やっと呼吸を整えて喋れたのがそれだけだった。そう、まだ聞いていなかった。これから何をさせられるのか、なぜ雛龍を使うのか、と。
「瀑鈳!来るぞ!」
匡鉄が急かすように岩山の下を見て叫ぶ。松明の群は今にも三豊山の麓に迫りそうな勢いでゆらゆらと近づいている。もう一刻の猶予も許されない状況、取り囲まれれば脱出は非常に困難になるだろうことは明白である。
「すぐに終わる。韓泰は黄起と孔淵の屍をその岩陰に隠し血痕には砂をかけろ。匡鉄は先に降りて馬を整えてくれ」
匡鉄が渋く頷き縄梯子を勢いよく降りてゆくのを確認すると、瀑鈳は向き直り息を正して、建恭の街を目を細めて見やって言った。
「……見ての通り、彰はこの体たらくだ。他国の侵入を許すほどに国の威信は衰え、度重なる戦による徴兵と輜重の徴発で彰の民は疲れ果てている。徴発で冬の食糧すら満足に賄えない者がほとんどだ。政に絶望し、堕ちる者も日に日に増えていると聞く。戸籍を捨て他国に逃亡する者も多い。だが今の彰王、顕竜王は登極間もないのだが国も民も顧みず、毎晩後宮に入り浸り酒色に更け登庁もほとんどしていない」
子琳は、とりあえず頷く。瀑鈳は少し急ぐように続ける。
「挙句に、王に寵愛を受ける奸臣が王宮にのさばり、自らの私腹を肥えさせるためだけの専横を行っている。要するに、彰はこのままではこの建恭のような惨劇が国中に広がることになりかねんのだ。かつて天下を手中におさめたこの国がそうなるのはあまりに不憫で耐えがたい。だから私は決意した。宮中に跋扈する魑魅魍魎と諸悪の根源を取り除き、新たな王を据え再びこの東璃に彰の名を轟かせると」
よくはわからないが、自分を使って彰をよくしようと思っていることがなんとなくわかった。だが、龍を人間の揉め事に利用するなどあまり聞いたことがない。
「しかし、今の我々では反乱を起こしたところで鎮圧されるだけだろう。……悔しいが我々は非力なのだ、だからどうか――」
そなたの力を貸してほしい――と瀑鈳が頭を垂れようとした時、
突然地上を青い閃光が一瞬照らし、巨大な轟音と共に天空から青い円筒状の光が麓の森に落ちた。
青天の霹靂、一瞬の稲光。光は地上にぶつかると四方八方に拡散し、森の四半を呑んだ。その間も青い円筒はその円周を維持したまま天空から伸びている。
瀑鈳と側にいた男は唖然としてその異常な光景を見ていた。そして側の男が、空へ問うように叫ぶ。
「こんな場所に徼恍が落ちるとは……!建恭の民の願望が招いたか……!」
紫色の雲の割れ目から青白い光が地上に降り注いでいる光景は、男達だけではなく子琳の心すら奪った。
――民の願望が招いた、確かにそれもあるかもしれない。しかし、子琳の見解は違った。
予兆――そう、これから起こるであろうことを暗示しているのだと思えてならない。誰が?いや、誰でもない。しかし、示している。この場所から何かが、光の幕を開けて始まろうとしているのだと思った。いや、むしろ信じ込もうとした。
――綺麗。
何の省みもなくするりと言葉が口を出る。涙で濡れた眼はひたすらその情景を取り込もうとし、彼の意識に反して瞼を開け続けた。感情は昂り、喜びで心は満ち溢れ、枯渇を知らない涙腺からは涙が湯水の如く湧き上がる。瀑鈳らも同じであった。悦びで胸が張り裂けそうになりながら涙が無意識に溢れる。
「美しい……」
瀑鈳は呟く。さきほどまでの憎悪の中にまだこんな感動を起こせる感情が残っているとは思ってもみなかった。
森からは悲鳴と歓喜の雄叫びが合唱し、共鳴し、交響した。阿鼻叫喚は光に包まれ、遂にはピタリと失せる。
子琳は次第に消失してゆく意識にすら気付かず、目を見開いたまま座し、そのままぐらりと頭を揺らすと前のめりに倒れ気を失った。最後に眼に映ったものは、光から飛び立つ数匹の羽の生えた生き物――。
そして、子琳は微かに笑んだ。




