瑕疵 《Ⅱ》
子琳と瓊凜の二人は周囲にばれない様に、ひっそりと兵舎を抜けだした。外敵への見張りに人員が多く割かれ、みな大司皐を見に行っている為か、小さい子供の二人は案外誰にも見つからずにすんなりと抜け出すことができた。
廉毅の言いつけをこんなに簡単に破ってしまって大丈夫なのだろうかと一瞬思ったが、ふしぎといつの間にかどうでもよくなってしまった。
「子琳も興味あるでしょ、私間近で妖獣なんて見たことないの。いつも危ないからって近づかせてもらえないのよ」
瓊凜の目はいつにも増して眩しくきらめいていた。櫓から見えないよう、崖の影になる道を跳ねるようにして歩く彼女についてゆくのは、疲労の取れない子琳には辛いものだが、何故かそこまで嫌だとは感じない。
実のところ、あの妖獣についてはずっと気になっていた。人が儚獣を飼い馴らすというのはどこかでちらりと聞いた事があるが、実際に見たことはない。だが、少し市中を探せば妖獣の売買を生業にしている輩なんていうのは巷にごろごろいる。稀有な妖獣は高値で売り買いされ、騎乗用、嗜好用となるとその値は一気に高くなる。堕ちた人間の売り買いもしているのだから、言い換えれば人身売買と言うに近い。敗戦国の人民を奴隷として売り買いしていた国など珍しくないこの時代であれば、その辺の倫理観はあまりないと言っていいだろう。人身売買など日常茶飯事であるということだ。しかし、奴隷という制度は人の自立性を失う野蛮な習俗であると唱える一派もおり、最近は奴隷階級を設けていない国もちらほら現れている。
正直なところ、子琳にとって妖獣・儚獣などなんの珍しさもないのだが、あの堅物そうな瀑鈳が獣などを手懐けているというのは、興味の琴線に触れるに十分であった。
肩幅ほどの崖沿いの小道を抜け、なんとか妖獣が居ると言っていた高台にある厩舎の裏手に辿り着いた。崖からは砦の裏手にある高鮮の街巷を綺麗に俯瞰することができる。至る所で炊煙が立ち上り、慌ただしく人々が城の中心である街衝(街の中心街)を往来しており、戦中であるのを一瞬忘れさせた。
よくこんな裏道を知っているなと感心していると、突然瓊凜が振り返って子琳の口を小さな手で押さえた。
「あれね」
瓊凜が静かに指さす方向を見ると、厩舎の中の暗がりに何か馬ではない大きな緑色の影がいる。しかも二頭だ。
「入って近くで見てみない」
奥の小屋に厩丁(厩の世話係)が入って行くのを見計らって、二人はその大きな緑色の影に近づいた。
厩舎の中には馬はいなかった。さすがに妖獣と一緒にするとよくないのか、それか連れて行かれたのだろうか。物陰に隠れて覗くと、積まれた秣をはみ出して何かがもぞもぞ動いている。
「まぁ!!」
その妖獣を目の当たりにして瓊凜の眼はその輝きをさらに増した。
そこにいたのは、馬と虎を足したような形態をし、子琳の身長の三倍ぐらいの高さで、体中にびっしりと生え揃う緑と黒の美しい毛並み、そして背には光の当たり具合によってきらめく潤美な翼を持つ凛々しい獣だった。
片方は紅の鬣を、もう片方は緑の鬣をもっており、鋭い曲剣のような牙が口元から見え隠れする。
「す、すごいわ……一体なんて言うのかしら」
瓊凜は導かれるようにこの妖獣の前に出た。二頭の妖獣はこの突然の来客など意に介さぬような落ちついた様子で、格子の外を眺めたり、お互いの毛繕いをしている。お互い仲が良いようだ。
「確か、翼翠――」
子琳の記憶のどこかにこの妖獣の名前があった。非常に美しい妖獣で、子琳も一度見たきりだった。これが元、人である儚獣ならばとても稀なことであり、地方によっては逆にめでたいとまで言われるほどである。なぜ翼翠になるのかはよくわかっていない。
「へぇー翼翠っていうんだ、よく知っているわね」
「い、いや……画書でちょっと見たことがあるだけで……」
「へぇ……」
瓊凜の興味はすでにこの妖獣にしかなかった。翼翠の些細な動きも、まるで猿の芸でも見ているように手を叩いてはしゃいでいる。恐れなど微塵も感じていないようだ。
「私、こんな綺麗な生き物初めて見たわ。すごい、すごい、こんな生き物を手に入れるなんてやっぱり瀑鈳様はすごい人なのよ。廉毅って奴は嘘つきね、こんなにおとなしいじゃない、喰われるなんて言いすぎよね」
興奮で火照った頬が赤く染まる瓊凜を横目に子琳は少し浮かない表情をした。子琳には触れるよりも容易にわかった、この翼翠は人であったということが。
しかも二頭ともである。素人目に人だったか元からの獣かなど見分けはつかない。専門的な知識さえあれば外部の差異などで判別はある程度可能であるが龍には直感的にわかるのである。一説には心を失った痕跡が見えるからだという。
「瓊凜、この翼翠は……人だ」
瓊凜はきょとんとして、子琳の顔を見つめた。
「どうしてそんなことがわかるの」
「……それは」
また余計なことを言ってしまったとやや後悔した。思ったことをすぐ口に出してしまう悪い癖だ。
「なんとなく……そう、なんとなく」
「ふーん、でも人がこんな美しい生き物になれるのなら、それもいいかもしれないわね。なんだか憧れちゃうわ」
そう言って微笑む瓊凜の目は妙な寂しさを秘めていた。それを見てふっと、この醜い現実からの逃避を望んでいるのだろうか、そう心のどこかで思った子琳は、この活発な少女の身上を思って同情を感じざるを負えなかった。そして、瓊凜はしゃがみ込んで地面の土を指で遊び始める。
「翼翠もいいけど、私龍になりたい。雛龍に」
「ど、どうして……?」
子琳は少しどきりとした。地面に龍と描いて瓊凜は溜息を吐く。
「だって、自由じゃない。美しい龍宮で何不自由なく過ごして、皐術を使えて、飛んでいろんなところへ行けるし、綺麗な絹の衣を着れるし王族が身につけるような宝飾ももってるし、何よりすっごく楽しそう。そう思わない?」
子琳はとりあえず頷くしかなかった。確かに、雛龍は下界の人々の大半が持っていないものを持っているし、龍宮では非常に丁重に扱われ護られている。人々が憧れて止まない生活を過ごしているわけであるが、その大半の人にあるものがない上、制約、そして責任も多い。今もこうして拘束状態にあるのだから、正直心から楽しいとは言えない。子琳にはむしろ下界の人々の生活のほうもいいと思っている節があった。
「でも、無理……。私みたいな醜い心を持った子供なんて仙帝から召されるはずないもの。雛龍は純粋で無垢、私は親の仇に凶悪な復讐心を燃やしてる。ほんっと……どうして……」
瓊凜はぼろぼろと涙を零していた。鼻水をすすっては腕で拭い嗚咽のような声をあげて泣き声を我慢している。子琳にはどうしていいかわからなかった。どうすることもできない。この哀れな少女を救う手立ては今の子琳になどなかった。雛龍である自分は純粋で無垢などとは思ったことはないから、そこまで気落ちすることもないとも言えないし、仙帝に瓊凜を召すよう奏上することもできるわけがない。またいつの間にか複雑な心境の狭間で板挟みになっていた。案外龍は無力なのである。
すると、突然二頭の翼翠がいきなり唸り声をあげて厩舎の外に威嚇している。みると、外に幌をつけた車馬が止まっていた。幌とは乗用車につける日よけの幕のことである。この時代、車は身分のあるものしか乗ることを許されなかった。御者が御す二頭から四頭の馬に車体の部分曳かせ、乗る人がその車体に立ったり座ったりして乗るのである。位のある人物を乗せる御者には官位が与えられたというから、その時代の車の重要性がうかがえる。
「誰か来た」
慌てて俯く瓊凜の濡れた腕を掴んで、物陰になる秣の裏へ隠れた。馬に乗る武装した男が二人降り大きく何かを呼ぶように声を上げ、次いで車に乗っていた男が下車すると厩丁が転がる様に小屋から出てきて平服した。そしてその水色の深衣を纏う高貴そうな男は厩丁に何かを告げると、二人の男を引き連れ厩舎に向かってきた。
(大変だ……)
厩舎の入り口は一つしかない。そこから出れば見つかってしまう。廉毅を怒らせたくなかった子琳はどうやってこの状況を脱しようか慌てて考えた。
「見つかったら、さすがに叱られるだけじゃ済まないわね」
瓊凜もなんとか落ちついて、辺りを見回し逃げれないかと考えるが、格子にはすべて木棒がはめられ、子供といえども抜け出せる大きさではない。
そうこう思案している内に、三人組の男が厩舎の中に足を踏み入れた。中に入るなり脇の武装した男二人が声を上げて驚く。
「これは……!!翼翠」
「子堯様、この妖獣は」
(子堯様……?確かこの国の大司皐の名じゃない。どうしてこんなところに)
瓊凜は訝しそうに隙間からこの男達を観察した。子堯は不敵な笑みを浮かべると、木簡と筆を取り出し、さらさらと何かを書いた。
「この翼翠はおそらく儚獣、元人です。私の推測が正しければの話ですけどね。ですが、正しければ瀑鈳殿はとんでもない隠し玉を持っているということになります……。しかし二頭とは、少々推測とずれが生じますね」
「どういうことです……子堯様」
「あなた方の俸禄には見合わないことです。知れば身を滅ぼしますよ」
子堯の声はとても冷たい。声色なのか口調なのかわからないが、ひどく冷徹なものを感じる。子琳は廉毅の言っていたことを照らし合わせながらこの男を見た。人の激情と凶暴さの上に胡坐をかいて坐る人物、その割にはとても品のある清廉な顔をしている。だが、子琳には彼から感情とは程遠いものしか感じなかった。温もりなどなく、ただ氷のように冷たい。それだけで子琳には彼に対し畏怖を持たざるを得なかった。
「構いませぬ」
二人はそう言い切った。子堯はふうと息を吐きだし二人に目も合わせず、木簡に筆を滑らせている。
「この翼翠は襄王(先代の王)の太子です」




