瑕疵 《Ⅰ》
茫洋とした人の海原をふわふわと漂っているような不思議な感覚をずっと覚えていた。相いれないものの上で、静かに漂う。いつも天から見下ろしていたその蠢く人間達の海原は、今、蒸気を噴き出すかのような熱を帯び、渦を作って、世外の生き物である雛龍を大きな口をあけ呑み込もうとしている。
子琳にとってそれは、自分の好きな綺麗なものでもなんでもない、慾望と激情に満ちた禍々しい世界であった。だが、一瞬の刹那の中に時折儚いまでの美しさを、この下界の人々は演出する。その魅力にこの幼い龍は、ひどく心を惹かれた。と、同時に知りたがった。
今こうして、ふわふわと漂っているのもある意味いいかもしれない。なにか素敵なものが見られるかもしれない。いつも、噺の中にしか覗けなかったこの宇内に……。
子琳は人々の歓声でその目を覚ました。
昨日と同じで、眠ったはずなのにどこか疲れが取れない身体を、寝心地の悪い筵からいやいや起こし、寝起きでぼやけた視界を手の甲で擦って木窓から外の様子を眺めた。龍の力の源である腕輪がない為かどうも疲労の回復が遅い。
見ると、人だかりが高台の方にできている。何事かと、寝床横にある木窓から首を出して覗こうとしたところで、入口の木戸が鈍く軋んだ音を立てて開いた。
「起きたか」
陽気な声で飯の入った碗を二つ両手に持ちながら入ってきたのは廉毅だった。
「まったく、あんなとこで寝てたら風邪ひいちまうぞ。瀑鈳様が見つけてわざわざここまで運んで下さったんだ。後で会ったら礼ぐらい言っておけよ」
はっと頭を掻きながら辺りを見回した。昨夜はあの景色を見ながら堂の上階で疲れて寝てしまった……ようだ。眠ったかどうかの記憶がほとんどない。あの男がわざわざここまで運んでくれたのか、と一瞬信じようか考えた。
「で、昨日のはなんの話だったんだ?」
素手で飯をつまみながら言う廉毅の表情は疲れているのか少し曇っている。曇っているのに声が陽気調なのは廉毅の人物を表しているように思えた。どういえばいいのか戸惑っていると、
「やっぱり俺なんかが聞いちゃいけない話だよなぁ。わかってるわかってる、言わなくてもいいさ」
そういうわけじゃ、と小声で否定する。やはり他言はしてはいけないことなのだろう。でも、なぜ巻き込まれた自分がそんな遠慮をしなくちゃいけないのかと、内心反問した。廉毅はいい人だと思う。昨日会ったばかりではあるが、それは子琳の感性がそう言っているのと、なんでも聞けば機密じゃない限り気さくに答えてくれる素直さからだった。でも、子琳の心のうちには薄い境界線が未だ引かれたままであり、なんとなく龍として踏み込んではいけない気がした。
すると、また外で歓声が沸き起こった。歓呼三声、三回ほど大きな声が上がった。がしゃがしゃと金属音もする。
「廉毅さん、外が騒がしいんですけど何かあったんですか?」
「あぁ、援軍に大司皐が来なさったらしい」
「大司皐?」
子琳は首を小さく傾げた。
「国の一番偉い司皐だ。本当なら前線なんかに顔出すような人じゃないんだが、国の大事と私兵を率いて援けにきたらしい。今その前を通って行ってるんで、みんな集まって歓迎してるってわけさ。おかげで今の士気はあちらさんと変わらんぐらいに盛り上がってるよ」
「じゃあ、勝てるんですか?」
子琳には軍事のことはよくわからない。司皐というものは皐士と同じものだというのは知っていたが、大司皐という役職があるということまでは知らなかった。でも、今までの話を聞いているとこちらの状況が芳しくないことはわかる。
「勝てるかって言われると、正直微妙だな。これで五分くらいだろう」
廉毅は喋りながらばくばくと口へ飯を運ぶ。
「敵は精強、兵力もあっちが勝ってるし、なにより要衝を落としたばっかりってのが大きい。勢いに乗ってる。対してこっちは負けたばっかで、徼恍に結果的に助けられたとはいえ、援軍もこれ以上は期待できないし不利な状況は変わっていないな。まぁ、俺にも知らん複雑な状況が絡み合ってるみたいだから、これからどうなるかは俺には想像がつかないな」
寝惚けた頭を動かす為に、子琳は瞬きを多くして、廉毅の言ってることを理解しようとした。
「難しいか?」
少し考え、細い首を左右に揺らした。
「でも、そんな不利な戦況なのに、その大司皐さんが来たら一気に五分になるってすごいですね」
廉毅は、あぁと飯の手を止めると、確かにそうだな、と飯粒のついた手を衣服にのじって子琳と同じように首を傾げた。
「お前も彰人ならわかると思うが、あの方は別格なんだよ。氷越っていうんだが、出た戦のほとんどに勝ってる。言うなれば常勝司皐だな。対成戦なら数年前に――、うん、まぁいいか。氷越が司皐として従軍した成との戦で大勝してな、だいたい二万くらいの成兵を討ち取ったんだ。成は未だにその戦の傷を抱えたままで、国内の奴のほとんどが氷越を恐れてるんだよ。憎んでる奴もいるがそれ以上に恐れてる奴が多い。俺は瀑鈳様に就いてたから見てないが、そりゃあ凄惨だったらしい。だから建恭で憂さ晴らしに彰人が虐殺されたんだろう。国境近辺だから他国や自国民も混ざってたろうに」
司皐も龍も皐術を行使する。もし、皐術で二万もの人間を殺められるならば、龍もそれができてしまうということだろう。一体どんな術を使ったのだろうか、と子琳は無垢な好奇心を抱いた。
「その氷越って司皐は、何をしたんですか?」
廉毅の手が再び動く。
「司皐の術ってのは戦に深く関わるから対外的に秘匿扱いを受けててな、詳細はよく知らんが術を受けた奴に話を聞いたことがある」
子琳は藁をどかして聞く姿勢をとった。
「ま、言っても大丈夫か。どうやら、良心を打ち消す術らしい」
「良心を……打ち消す?」
「うーん、なんというか、人を冷酷にするんだそうだ。血を見ても、仲間が倒れても動じず、ただ前の敵を冷徹に殺したくなるんだってよ。そいつ自身、我に帰った後で心を病んで里に帰っちまったけどな」
廉毅は柄杓を使って碗をじゃぶじゃぶ洗いながら、空に放り投げるように呟く。
「大抵――俺もそうだが、敵と言えどもたまに情が移ることがある。性善説を唱えてるやつがいるが、そういうものなんだろう。まだ戦場を経験してないからわかんないだろうが、積極的に相手を殺そうなんて思う奴なんてほとんどいない。だいたいは消極的な殺しだ、と俺は思う。幾つかの修羅場は潜ってきたつもりだが、どうもその辺りがまだ割り切れてないんだ。でも、その術にかかっちまうと、単なる野卑な虎狼になっちまって、そこらへんの部分を考えなくなって積極的に殺せるんだろうぜ。その話を聞いて俺はなんだか、氷越って奴が怖くなった」
「どうして?」
子琳の疑問はすぐ言葉に直結する。
「どうしてって……、人を畜生同然に変えちまって好き放題殺させるんだ。たがが外れた人間が一番強くて怖いんだよ。確かに、軍にとってそれは非常に有用な術なんだろうが、そんなものの積み重ねの上に胡坐をかいて座れるなんて、俺には無理だ。単に俺が小心者ってだけなんだがな。ある意味尊敬するよ」
そう言う廉毅の顔は、少し自嘲を込めているのか若干にやついている。洗い終わると、さぁ、と言って立ちあがって子琳に、
「ちょっと喋りすぎちまった。今日は攻撃を恐れて城内が騒がしいからここから出るなよ、いいな。邪魔になるだけだからな。飯はそこに置いとくからちゃんと食って碗も洗っとけよ」
そう言うと、廉毅はもう一度出るなということを念を押して外に出ていった。
子琳は湯気の立っている飯をぼんやりとみたまま、ちいさく俯き加減になった。
ただここで待っているわけにはいかなかった。逃げてしまいたいが、彼等を見届けてみたくもなってきた。気持ちの上では、下界を天上から見ているような感じなのだが、実際はその渦中におり、成り行きによっては被害を受ける。しかし、この渦の中に何か自分のものを見出せそうな気がする。――情が移る、そういうものなのだろうか。
その時、窓枠をコツコツと叩く音がして振り返ると、綺麗な茶の瞳が外から覗いていた。
「ねぇ、子琳。昨日の妖獣見にいってみない?」
瓊凜の喜々とした表情がそこにあった。




