東衛の火焔 西征の虎狼 《Ⅵ》
桂丘の崖岸から、緑の山間に聳える暗灰色の砦を澄んだ目で見つめる男がいた。
太い腕を組み、生やしっぱなしの髭を手に絡ませて何かに耽っている。足元には高の字が書かれた旌旗が踏みつけられて散乱し、燃え残った人体の一部が処理されずに土に埋もれていたが、彼の視界には入っていない。背後には代わりに魏の一字が入った旌旗が林立している。
「李譲、ここにおったか」
杖をついた老人が男の広い背中に呼び掛けた。彫りこまれた皺の一つ一つが伸縮し表情を作っているが、そこからは笑んでいるのかはわからない。
「おい、李譲」
その李譲は背中を杖で突かれてようやく後ろの人物に気付いた。
「また奴のことを考えておったのか」
「いや……それは」
「図星じゃな」
「……」
李譲は何かを言おうとしてやめ、口元から顎を大きく摩った。
「奴はすでに過去の人物じゃ。今はお前の躍進の踏み台に過ぎん」
「……そうかもしれませんが、玄老――」
この70近い割に背の張った老人の名を玄順という。李譲はこの老人に敬意を込めて玄老と呼んでいた。李譲の参謀であり司皐である。
「国から国へ漂っていた無名のお前と出会ってから早五年、ようやくここまで来たのだ。儂の目に狂いはなかった。お前は稀代の才能を持っておる。今更何を躊躇う必要がある」
今にも飛び出しそうな目をさらに大きくして、玄順は勇壮な眉を垂らす男を叱咤した。
「このような私をここまで教え、補佐していただいたことは、非常に感謝しております。ですが……」
何やら引けた様子の李譲を前にし、見よ、と玄順は杖で桂の木を指した。
「彰の国姓は桂、そしてお前が奪い踏みしめておる地の名も桂(丘)じゃ。偶然か?今や彰もこの老いた桂の樹皮のように縦に割け、様々な箇所で皮が剥離しておる。これを切り倒し、新たな大木を植えるのが我々の天命じゃ」
指した桂の樹は初冬の為その葉を黄茶にしており、地面に落葉した葉からは独特の甘い香りがした。
「儂はお前に残りの人生を賭したのだ。初めて会って儂に師事したいと言ったときお前は言うた。あんなみすぼらしい姿で自分に賭けてくれ、と。一笑で付するところであったが、お前の目は誰よりも澄んで野望に盛っていた。もう一度あの目を見せてくれんか。枯れそうになっていた儂にもう一度野心を灯したあの目をな」
李譲は自分を思い出すかのように深く頷いた。
玄順は、縦横家の思想に昏倒したことがあった。自らの弁舌と能力を最大限に駆使して諸国を渡り歩き、天下を大きく動かすのである。小人である自らが人物を補佐して出世させ、自らの理想の世界を実現するために巨大な天下を揺り動かすことに最高の悦楽を感じ、その為なら殉じても構わないという人々である。
司皐でもある玄順はかつて他国に身を置いていたが、司皐としての役目しか与えられず、作戦立案に口出しはさせてもらえなかった。
少ない俸禄で自らの才能を生かしきれない鬱々とした日々を嘆きながら生き、野心に満ち満ちていた若いころに買い込んだ書物を読んでは市井で私塾を開いて軍談や講義を行って年月を過ごした。そして、老いを悟り、もう野心の火種も燃えつきかけていたところへ、見ず知らずの若い男がいきなり転がり込んできたのである。
「玄老、この大役を完遂することは我々の将来の為、推してくださった人の為、通らねばいけない道であることは承知しております。しかし、書生として過ごし将来官吏になるつもりでいた私が、数万の兵士を従え今ここに立っているのは、朗令の頃見た勇壮な陸将軍がいてこそであり、今もあの方に憧れ畏怖し目標としてきたのです。今こうして矛先を向けあっている……、それだけで私の目標の半分は達したようなものですが……」
辺りには山間から吹く風に乗って、微かに旨そうな炊煙の臭いが立ち込めた。
「どうしたのだ」
「ここへ来て思うのです。あの方を超えたときの自分がどうなるか、想像が付かず、たまらなく恐ろしくなります。士気を高めるためとはいえ一時の勝利の愉悦に浸り、建恭の民を鏖(皆殺しに)しました。その時の自分がいずれ全てを支配して歯止めが効かなくなりそうで酷く怖いのです」
玄順は皺苦茶の顔面を強張らせた。臆病者め、と内心罵ったが、それは言わなかった。
「阿呆!畜生に堕ちるとでもいうのか?まだ勝ってもおらんのに、勝った後の心配をしておるなど、愚者のすることじゃ。儂は負けるとは思っておらんがこのままで勝てるなどとも思っておらん。現に、お前に伝えねばならんことがあるから来たのだ」
「……」
李譲は幾重にも折曲がった文書を血管が浮き出た老人の手から受け取りその場で広げた。
「内通者から報告があった。氷越があの砦におる」
玄順は李譲がそれを聞いて驚くかと思ったが、この巨躯の持ち主はそのまま表情も変えず首だけを上げると、ぽつりと玄順に呟いた。
「攻めるのは明日の朝にしましょう」




