綺麗。 《Ⅱ》
瀑鈳はすっくと立ち上がり脇の男に、
「よし、長居は無用だ。発つぞ、雛龍を縛れ」
と、さっきの笑みなどなかったかのように命じ、
そしてそのまま導かれるように突出した崖の先端に向かって、眼下に広がる建恭の惨憺たる光景を見下ろした。
軍声は止み城外には勝利の歓呼がこだましている。
突然、瀑鈳は息を大きく吸い、どこからそんな大声が出せるのかというぐらいの大きな怒声で叫んだ。
「見ていろ!成の畜生ども!建恭の民の無念はこの瀑鈳が必ず晴らす!この屈辱、決して忘れはしないぞ!建恭の民よ、これが誓いの印だ!」
声は憎悪に染まり、暗黒の山間に何度も響く。そして、短刀で髪を切ると、それを紐で括り城邑へ向かって放った。髪は風に乗って森へと落ちてゆく。
あっけにとられた子琳がほかの男達の顔を目をよく凝らして見ると、大人げなく泣きながらこれに頷いていた。
ある者は唇を噛み千切らんばかりに歯を食いしばり口元から涙と血を垂らしている。
その時、子琳はその泣いている男達を見て、心にふっと判別し難い感情が沸き起こった。状況はよくは呑み込めないが、彼らは今必死に抗おうとしている。憎しみに燃えている。滅びようとしている。ただそれだけなのに、全く関係のない者たちなのにどうしてこんなに心が揺れ動くのだろう。
だが、腕を後ろに回され縛られそうになって、はっと我に帰った。こんな奴らに関心など寄せていてはいけない、早くなんとかしなければ脱出が困難になってしまう。
その時、崖の近くにいた男達の一人が崖下を指さし声を荒らげて叫んだ。
「成軍が森に入ってきたぞ!」
男達が一斉にその指さす方向を見ると、城から少し離れた場所から、暗黒の森の中に揺らめく松明の群がこの岩山へ蛇のように列をなして向かってきているではないか。おそらく千はくだらない大人数である。予想外のことであったのか男達は見るからに動揺し、慌ただしく立ち上がってこの事態にどう対処するのかを半ば怒声混じりに話し合い、ついには激しい口論となった。
聞くと、こんなに早く敵が動くとは思っていなかったようで、そしてなぜ自分たちの場所が知られたのかわからず、誰かがこの中に内通者がいるのではないかと言った。しかし、瀑鈳がそれはないと叱咤する。
次第に男達の意識はこの小さな子供から岩山の下に迫りくる松明へと移り、子琳に突き付けられていた短刀はすでにその刃先を見失い空を揺らめいていた。
子琳はこの機を見逃さなかった。隙を見計らって縄が縛りかかった腕を振りほどき前に右肩から倒れこむと、感触の薄い左腕を必死に動かし填めた指輪の珠を汗ばんだ額につけた。縛ろうとしていた男を除き、男達は議論に熱中してその動きへの認識が一瞬遅れる。男達の心の中でわずかに子供と油断していたことが災いを招いた。この少年はただの子供ではない、龍なのである。だがその行動を視界の端に捉えた瀑鈳だけが、何が起ころうとしているのかを瞬時に悟る。最悪の事態が起ころうとしていることを。
先に叫んだのは瀑鈳――それは瀑鈳の将帥としての本能が最善の行動を直感的に導き出し、舌を弾いたのだろう。大喝の如き一声。
――目を閉じろ!!
それは命令であった。
そしてほぼ同時に子琳が恐怖でワナワナと震えてうまく出ない声を必死に絞り出して、地面に吐き捨てるように術句を唱える。
「汝、憧苑を求むるか。汝、天啓に応えるか。龍の名の下に於いて其の真理を問わん。
――徼憬招来!」
言い終わるや否や、子琳の周りの地面に青く太い光線が現れ円となり、内側に四字の象形文字が浮かび上がった。そして円を中心に空気が巻き込まれ渦を起こし、円から漏れる青い光線が束となって螺旋状に子琳の身体を柔らかく包みこんでゆく。
まばゆく、かつ温もりに満ちたその光は岩山の頂を青く染め、街の高所で紅く燃え猛る炎と対照的な色合いを醸し出し、光が混じりあう天空に淡い赤紫を浮かび上がらせた。
次の瞬間、子琳の周りにいた男達は温い湯に浸かっているかのような感触を覚える。心地の良い温もりが、甲冑と皮膚を突きぬけ心にまで染み渡るようにじんわりと包み込み、どこからか立ち込めた百花の艶やかな薫りが彼等の心の緊迫を優しく解きほぐす。
瀑鈳の言う通り彼等は目を閉じていた。瀑鈳の日ごろの統率のおかげとも言うべきか。彼等は周囲を視認できないものの、自分達の周りが一瞬にして今までとは違う空間に変わったということはなんとなくわかった。いや、変わったというより自分の精神がその空間を五感ではないもので知覚しているような感覚に陥り始めたというべきだろう。
青白いような光が辺りを取り巻いている。次第に互いの声は遠くなり、個々人の気配すらついにはなくなった。まるで一人がぽつんと知らない場所で無防備に立っているような感覚だ。聞こえるのは小川のせせらぎと、聞いたこともないような美声で鳴く歌鳥の囀り。
孤独感、焦燥感は微塵も感じない、むしろ充足感で心身ともに高揚していた。
何度も目を開けて眼前に広がる情景を見たい衝動に駆られはしたものの、武人である彼等は必死に歯を食い縛って耐えた。見れば、取り返しのつかないことになりそうな気がした。
数十秒の永遠とも思える誘惑の時が過ぎ、周りの音が段々と青い光に混じって離れてゆく。そして離れゆく音に反して近づいてくる雑音、最初はなんなのか瀑鈳を含め誰も分からなかったが、次第に雑音が人間の唸り声のようなものに変わった時、瀑鈳は軽く舌打ちをする。その奇声はさっきまで隣にいた仲間の悲鳴にも似た絶叫だった。
立ち込める花の香りが風に掻き消されて、皆が恐る恐る目を開けると、さっきまでそこにいた仲間の一人が屈みこんで身体を震わせ悲鳴をあげていた。
「黄起!」
「待て!」
近寄ろうとする他の者を瀑鈳は制す。そして、
「孔淵、早く雛龍の身動きを封じろ!雛龍は堕とした人間を操ることができる!」
その言葉は、子琳に短刀を突き付けていた男に向けられていた。孔淵と呼ばれるその者は即座に事態を把握し子琳の結った黒髪を掴んで無理やり引き起こした。
――僕を……助けてっ!
うずくまる男の絶叫はうなり声へと変わり、頭部からは黒い角が頭皮を突き破ってその尖端を露わにしていた。この時点で、黄起と呼ばれていた男は四肢で地面に立ち、一本の角と五つの尾を生やして、破り捨てた服の隙間から赤黒い体毛が皮膚を覆っていた。耳まで裂けた口元からは血で赤濡れた牙がはみ出している。最早この生き物を人間というには些か無理があった。
「猙だ!」
と、誰かが叫ぶ。猙とは豹に似た、一角と五本の尾もつ獣である。かつて人間だったものは雄叫びをあげると、筋肉が委縮し限界まで膨らんだ後ろ脚で芝の地面を蹴りあげ、甲冑をつけたまま一直線に子琳を押さえようとする男の方へと突進し、その頸に鋭い牙をたてて食らいついた。
抗う術なく、孔淵は口と頸から血を噴き出し声にもならぬ声をあげて、どうと後ろに押し倒される。
鮮やかに噴出した血液は側にいた子琳の白い肌と装束を真っ赤に染め、黒髪を濡らした。初めて見る他人の血に子琳は酷く狼狽える。が、悲鳴をあげようにも声は喉もとで停止し言葉にならなかった。そして血独特の鉄のような臭いが彼の思考と理性を減摩し、すぐさま孔淵の頸を齧る獣に他の男達を襲うよう心の中で命じた。
もう自分の助かることしか考えることができず、息を乱し結われた髪を振りほどいてただこの惨劇が早々に終わることを切に願った。元はと言えば彼等が無理やり自分を捕えようとしたからこうなったのだ、非は相手にある。自分は間違っていない。そうだ彼等が悪いんだ。そう心に言い聞かせるのに精いっぱいで、瀑鈳がすでに脇から剣を抜いていることなど見えていなかった。
そして猙が腰を抜かして動けない男に飛びかかろうとした瞬間――
横から飛び出した瀑鈳の剣が一閃の半円を宙に描く。その一閃でかつての人間は空中で頭から真っ二つになり、残骸が地面に散乱した。ついに子琳の脱出の手段はここに断たれた。




