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戴邦物語  作者: 龍本 明
彰を慮るは
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飛龍乗雲  《Ⅱ》

 瀑鈳(ばくあ)は幾人かの従者を戸口に控えてこの狭い部屋の中に入ってきた。片手に剣を持ち、いつでも危急に対応できるような武装をしている。廉毅(れんき)はと言えば、緊張した面持ちで慌てて戸棚からできるだけ綺麗な碗を選び、水を汲んで瀑鈳の前の卓子(つくえ)にそっと置いた。

「要らん、すぐに出る」

「は、はい、すいません」


 廉毅は裏返った声で平謝りし、瀑鈳の視線を遮ってるとわかるとそそくさと脇に()けた。一方、瀑鈳は立ったまま、(とこ)に座って俯く子琳を見据え、一呼吸置くと不似合いな微笑を浮かべた。そして子琳に向かって言う。

「無事で何よりだ。日が落ちたら私の幕営(ばくえい)に来い、話がある」

そう言うと、さっさと羽織った朱の裼衣(せきい)を翻し部屋から出て行ってしまった。

子琳はぽかんと口を開けて瀑鈳の背を見送り、そのまま視線を廉毅に向けた。廉毅はふうと溜息をついて汗を拭っている。よほど恐縮していたようだ。

「あの威圧感には毎度肝を冷やされるよ」

そう言いながら碗の水をぐびっと飲み干した。


 頃合いを見計らって廉毅に砦の中を見せてもらうことになった。先ほどまで降っていた雨は止み、雲の隙間からは陽の白光が差し込んで緑と褐色の大地を温かく照らしている。地面は水で濡れ、建物の軒先からは溜まった雨水が滴っていた。子琳は雨後(うご)のひんやりした空気と景色が好きだった。


 外に出て初めて土間の外観がわかった。さっきまでいた廉毅の部屋は兵舎の一部分で、外から見ると兵舎は土造の長屋が湾曲(わんきょく)したような形をしており、それと同じものがもう一つ正面に立ち並んで間に広場を形成していた。広場には井戸と薄汚れた白い天幕が張ってあって、その中で幾人かの人が盤を囲み真剣な顔をして碁をしている。

 

 廉毅曰く自分の部屋を持てるのは一定以上の位をもつ人間か、将を守る衛士くらいだと言う。確かに、普通ならば何人もの人が狭い宿舎、悪ければ天幕に鮨詰め状態で雑魚寝だろう。自分だけのものが与えられるというのはかなり贅沢なことなのだ。子琳もそれはなんとなくわかっていた。

 砦内を順繰りして見回っていると、やけに子琳達に視線が突き刺さる。(こども)が宿営地にいるのは珍しいことではない。子琳ぐらいの年格好の者でも戦地に赴く輩もいる。ほとんどは後方など本戦に関わらない場所に回されるか、士官の雑事の世話。もしくは周辺の村から物売りに来たりして営内を徘徊している童もいる。


 だが、兵士達は子琳と廉毅を見るなりひそひそと囁いていた。兵舎に溜まっていた中の一人がこちらに向かって嘲笑めいた声をあげた。

「おーい、廉毅。お前瀑鈳様に童子(がき)のお守を任されたんだって?大変だな、はっは」

「嫁さんもまだだってのに気の毒なこった」

廉毅はこれらの冷やかしに対して苦虫を噛み潰したような渋面で、軽く手で払った。すると違う方からも、

「あの瀑鈳様がまさか童子(こども)を連れてくるなんてなぁ、なんかの前触れじゃねぇのか」

「いやいや、あの(がき)は瀑鈳様の遠戚らしいぜ」

「違うな、娼婦との間にできた隠し子(これ)じゃねぇのか」

「ほんとかよ」


 勝手な噂が着々と出来上がっているらしい。廉毅は渋面ながらも子琳に教えるように言う。

「気にするな。みんな戦まで誰かの噂でもしてなきゃ暇で仕方ないんだ。いずれ俺からみんなに言っとくからさ」

子琳は複雑な気分で廉毅の後をついていった。


 子琳は初めて砦というものの内部を見た。人が命を懸けてこの砦に籠り、外部からの敵に抗う、壁。だが子琳はあまり美しいものだとは思わなかった。見回ってみてわかったのだが、冗談を言うほどの余裕のあるものは全体の極一部なのだ。ほとんどの者は建恭(けんきょう)陥落の報を受け、修羅のような形相、または怯え緊張している様子だった。


 砦は堅牢と呼ぶに相応しい。牢斉山(ろうせいざん)から連なる山々の谷間の斜面に築かれた高鮮砦は、彰の平原へと繋がる谷間の道路のほとんどを塞いでいた。背後に絶壁の断崖を構え、前方は川が横断する台地を望む。地の利によって川を越え斜面を登ってきた敵に対して有利に戦えるのである。砦は建恭までとはいかないが大体3丈(この時代では約5メートル40センチ)ほどの高さの城墻に囲まれ、何重にも木の柵がその周りを囲む。そして砦の櫓からは(せい)の広大な領土を眺めることができた。そして山の麓には味方と思われる軍団が彰旗を掲げ陣を張っている。


 子琳はとりあえず、瀑鈳の意に従う事にした。目を盗んで逃げ出そうとしたところで今の子琳の足で逃げられる距離などたかが知れているし、指輪を返して貰わなければ人を堕とすことも皐術も使えない。不服ではあるがどちらにしろ従うしかないのだ。そのうち隙を見て指輪を奪うか、他の龍が助けてくれるだろうとたかをくくっており、子琳の中では徐々に楽観的な部分が多数を占めてきていた。


 廉毅は見せられないという場所を除いてお願いすれば大抵の場所は見せてくれた。その一つ、練兵場に差し掛かろうとしたところ、そこから喝采が起こった。何事かと廉毅と顔を見合わせ覗いてみたところ、人の群がりの中に大弓(だいきゅう)より少し小さい小型の弓を引き絞る少女の姿があった。子琳よりも少し年上というくらいか。少女が見つめる先は遠く離れた射侯(まと)

ぴりりとした緊張が辺りに張り詰め、少女が弦を離した瞬間、矢はふわりと宙で弧を描き射侯にぶすりと刺さった。そしてまた喝采が起きる。

「嬢ちゃん、すごいな」

少女は無邪気に喜ぶ表情など見せず、まるで当たり前かのような顔をして結った髪をかき上げた。

「私、もっと練習して成のやつらをみんなやっつけてやるの」

「その意気だ、感心だねぇ」

兵士達は少女を煽ててやまない。三つ並んだ射侯には全部矢が刺さっている。


 少女は呆然と立っている子琳の方をちらりと見ると、弓を置いて子琳の方へ近づいてきた。まだ幼さの残る顔には小さな傷が幾つかあるが、子琳から見ても比較的可愛らしい出で立ちをしている。

廉毅はそっと子琳に耳打ちした。

「あの子がさっき言ってた、子琳と一緒に瀑鈳様がここに来る道中で助けた女の子だ。えっと……」

瓊凜(けいりん)よ、よろしくね」

瓊凜は透き通るような瞳で子琳を観察するように見下げた。子琳は少したじろいで、廉毅の衣服の裾を掴む。子琳は少し人見知りの気があり、どうにもずいずい迫られるのに慣れてはいない。

すると、瓊凜は目立つような声で子琳に言った。


「あなたのお父様も建恭で塩商と蚕績を営んでいたらしいわね。奇遇ね私もなの」


子琳はもっとたじろいだ。

裼衣:衣服などの上にはおり、肩にかけて首で結ぶマントのようなもの。


※上官に水を出すのは中国の文化的に考えて少々おかしいかもしれない。作者の力量不足で真偽はわからないが、陣中であるという状況と、趙駿の性格ということも考えてあえてこのままにする。もし違う事が判明次第差し替える。

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