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戴邦物語  作者: 龍本 明
薫り混じりし、風
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空谷足音

「残念ですが、もうお子さんは自分の足で歩けないかもしれません」


 そう医者に宣告されて2カ月が過ぎた。その時隣にいた母は泣き崩れたが、自分はあまりに突然な現実に直面したためか、ただ呆然と泣き崩れる母を不思議そうに眺めていた。

 今日も慣れつつある車椅子に乗って施設内を移動する。そんな自らの意思で動けない自分がひどく惨め。そう、毎日が苦痛だ。リハビリによる回復という希望にすがりついて、一か月血反吐を吐くような思いで訓練したが、どうしようもないじれったさに気が狂いそうなほど嫌になって結局あきらめた。それからは全ての未来が真っ暗になった。慾を満たすにもこの不自由な脚が邪魔をする。他のみんなが楽しそうに日常生活を謳歌するのを見て尋常ならざる嫉妬を抱いた。劣等感でおかしくなりそうだ。そして心のほとんどが深淵な闇に溶けていった。


 二か月前、僕は理不尽な交通事故に遭った。相手が飲酒していたことによる飲酒運転の事故。轢いた相手は僕を轢いたあとにそのまま電柱にぶつかって、死んだ。僕は背骨を損傷し、昏睡状態から気付いた時には足に感覚がなかった。しばらくして怒りが込みあがっても、責める相手はもうこの世にはいない。怒りの矛先がすでにないときほど苦しいものはない。怒りは内向きになり、やがてどろどろとした憎悪の坩堝に溶解してゆく。やがてそれは嫉妬という刃に鍛錬され、無関係な他人へと向けられる。みな哀れな目で見てくる、とても不快だ。高校の同級生も一カ月ほどは同情してか病室に見舞いにきたがそれ以降は音沙汰もない。僕は無気力になった。全てに、現実に絶望した。まさかこんなことが自らに起こるなどと、考えることもなかったのに。そして、いつしか空想の世界へと精神(じぶん)をもっていくことが多くなった。こんな苦痛に満ちた世界など、滅びてしまえばいいと何度も呪いのごとく願った。

 

 そんなある日、病室の窓を開けて月夜を眺めて軽く現実逃避をしていた。涼しい風が室内に入り込み、薄い水色のカーテンが揺らめき頬に掠る。そしていつも考えるのだ。今一度、この自らの脚で歩けるならば…と。思う存分――。

その時、半開きの窓がカラカラと開いた。カーテンの影から一人の子供が顔を覗かせる。ここは五階である、人が簡単に登ってこれる場所ではない。あまりのことに驚いて、声を出そうとするが、闇に沈んだ精神(こころ)はそんなことではすでに微動だにしないほど浮世めいていたためか、すぐに冷静さを取り戻した。そして、これはチャンスだと思った。


 少年は、見たことのない衣装を纏い、髪を綺麗な(かんざし)で結っていた。腕輪をし指輪を填めていた。少年がベッドの側に寄ると、頭の中に声が響いた。

「あなたから強い憧れを感じました」

「なっ…!?」

この子供が言っているのか。だが、口は(つぐ)んだままである。テレパシーだろうか。すると少年は申し訳なさそうに軽く(こうべ)を垂れた。

「ごめんなさい…僕にはこうするしかないんです」

と、声がし、少年が頭をあげると手の甲を額に当てるような動作をした。その瞬間、目の前が蒼い光に覆われ、何か温かいものに包まれるような感触が体中を覆った。


 しばらくして、ゆっくり目を開けた。少年はすでにいなかった。そして月光に照らされる自分の腕を見て驚愕する。白と黒が入り混じった毛が腕にびっしり生え揃っているではないか。しかも、今まで感覚がなかった脚に感覚が戻っている。そこで歓喜する。心躍り、急いで自らの脚で地面に立った。だが、微妙な体の不均衡に違和感を覚えた。

そうか、前脚で支えればいいのか。

四つの脚で体を支えると、なるほど、とても安定する。そこでさらに全身の毛が喜びに逆立つ。こんなに自分の脚で歩けることが気持ちのいいことだなんて、思いもしなかった。

やがて、とてつもない空腹と慾が空っぽの頭を支配する。そのあとの記憶はない。


ただ――久しぶりに楽しかったような気はする。


空谷足音クウコクのソクオン


人気のない谷に響く足音。転じて非常に珍しいこと。また予期しない喜び


「荘子 徐無鬼編より」

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