始憧 《Ⅴ》
千里が境内にいた警官二人に付き添われて石段を降りると、鳥居の前の道路には3台ほどのパトカーと白いワンボックスカーが電灯の少なく薄暗い道を封鎖していた。赤いランプの点滅が辺りを煌々と照らし、近所の人が怪訝そうに窓や軒先から顔を覗かせている。恐る恐る警官の一人に何事か聞くと、猟友会と警察が深手を負ったあの猛獣をこの辺りまで追い詰めたのだという。それで神社の境内を探していたところ隠れている千里を見つけたのだとか。境内に残る血の跡を見た警官は、すぐに肩の無線でどこかへ連絡し千里を保護した。
「本当にいたのかね、一体やつは何だったんだ?犬か、虎か?」
猟銃を背負った初老の人達が経緯の話を聞くなり千里に詰め寄って尋ねた。みなどこか青ざめたような表情をしている。
それは――。千里は言葉に詰まる。本当のことを言っても果たして信じるだろうか。いや、というより、この人達の表情はそうであって欲しくないというような顔だ。知っている、何だったのかを。
「暗くて…よく見えなかったんです。でも、あれは多分…犬でした、おっきな」
あえて嘘をついた。それを聞いて猟友会の人達は安堵したように顔を綻ばせた。
「そうだよなぁ。おらぁてっきり神様を撃っちまったんじゃないかってひやひやしてんたんだ」
「…神様?」
「そうよ。こいつ、どてっ腹に弾撃ち込んだときに人の声あげたって言うもんでよ。しかも人のつらだったってさ。おれも…なんとなくそんな気がしてびびってたが、どうやら違うらしいな。ま、あの怪我じゃ長くはねぇだろ。すぐにこの騒動も静まるさ」
「死体はどうします?いちおう上に報告せにゃならんのですが」
後ろから背広を着た警官が無線機片手に尋ねた。
「この神社の真裏は全部山だで。山の所有者も何人かおるしな。もう暗いし死体探しは明日にしよや。それになぁ…」
「…何かあるんですか?」
会の長と思われるその人は、帽子をあげて白髪混じりの頭を撫でた。
「何人も消えとるんじゃ、この山は」
断ったのだが警察車両で家まで送ってもらうことになり、事情聴取をうけ家に着いたときにはすでに11時をまわっていた。閑静な住宅街の一角に立つ家の門前には朝に見たシャツを着たままの父が待っていた。そして、へこへこ頭を下げて送ってくれた警察の人を遠くまで見送ると、父はがっくり肩を落とし、何も言わず家の中へ入ってゆく。千里もあえて何も言わず家の中へと入っていった。
しかしなぜか、そのときは怒りの対象である父の自分に対する失望が怖かった。無言の父がひどく恐ろしいものに見えた。その畏怖を必死に怒りで掻き消すのにそのときは必死だった。罪悪感を消そうとしていたのだろう。
急いで部屋へともどった千里は、ドアの前でぐったりとへたり込んだ。そうして何分かじっとしていると今までの事が一枚絵のようになって眼前に写しだされた。眼を瞑って深呼吸をし興奮する心を落ち着かせると、握りっぱなしで汗ばんだ拳を開いて中を見た。
――確かに、ある。
決してまやかしではなかった。非現実の端緒がこの手の中に実在する。それだけで千里の胸は躍った。それと同時に、翔の安否がとてつもなく心配になった。
まじまじとこの小さな金の印を見つめる。持ち手の象形は小さな龍であった。精巧に形作られた金の龍がとぐろを巻き天に向かって紅い珠を咥え、印判の面には何かの文字が彫られている。印の側面には何かの紋様が刻まれ、龍の体の隙間の穴には紫の組紐が通されており、いかにも値打ちがしそうな一品である。
だが、これがなぜあの指輪から印になったのか全くわからないし、使い方もよくわからなかった。そうして印を手で弄りながら時が過ぎる。すると、階下から玄関のドアが空く音が聞こえ、聞き知らぬ女性の声が漏れ聞こえた。すでに時計は12時を指している。
「……」
千里は起き上がると、何かを遮断するかのように部屋の鍵を閉め、そのまま耳を塞ぐようにベッドに飛び込んだ。手にはひっしと印を握りながら。
人は夢を見る。夢は人を魅せる。現実と非現実のおぼろげな狭間の一瞬。無意識に記憶から掘り起こされた深層の願望。それが睡眠という生命活動の中で光を当てられ、その閃光のような瞬きで願望というものの影を落とし夢として映し出す。だが、夢は知らないものを時として映す。古来より人は、それで吉凶を占ったり、はたまた未来、もしくは別の世界を見せている――など様々に夢を現実の指針とした。それは、夢が苦痛に満ちた現実とは違い儚くとても美しいものであるから、なのかもしれない。人は夢と書いて願望とした。人は夢に憧れた――。
匂いがする。甘く切ない香り。微風が肌に当たる。強くなく包み込むように。霧が晴れる。白い幕が左右に開けるかのように。
気がつくと花畑の中に顔を埋めうつ伏せになって横たわっていた。
「……また」
ざわざわと木々が空でざわめく。葉の隙間からの日が丁度頬に当たりじんわり温かい。体躯を起こし、霞んだ目をこしこしと擦る。やはり同じ庭園――でもどこか様子が違う。
いつも花々の上で優雅に舞っていた蝶がおらず、響く鳥の囀りもない。遠目にいつもあった東屋を見ると、やはり彼女はそこにいた。しかし東屋の向こうには、以前にはなかった立派な堂が建ち、その朱色の柱の隙間からはその堂の庭院がぼんやりと見えた。そしてそこには幾人かの子供が毬で楽しそうに遊んでいる。
千里はふらふらと起き上がり、導かれるように東屋へ向かった。彼女は千里が近づくのをチラリと見ると、僅かに微笑し、東屋に渡された別の橋から堂の方へ歩いて行った。何がなんだかわからず、導かれるままに朱の橋を渡り彼女についてゆくと、彼女は堂の真下で膝を軽く折って子供たちとなにやら話している。それを聞いてこくこくと頷く子供の姿はみな、翔の着ていたような山吹の深衣を纏って髪を一つに結っていた。
彼女はふいにこちらを向くと、純白の袍と艶やかな黒髪を蕙風にひらめかせながら千里のほうにゆらゆらと微笑を浮かべながら歩いてくる。その後ろで子供たちはまた堂の中へ入って毬で遊びだした。
千里は緊張と驚きでその場を動けなくなってしまう。鼓動がだんだんと早くなり、目が泳ぐ。彼女は千里の前で足を止めると子供たちに接した時のように膝を軽く曲げて――千里の頭を優しく撫でた。一瞬何が起こったかわからなかったが、すぐに悟る。千里の姿態は獣のものであった。だが、撫でられたことが千里の緊張を一気にとき解し彼女の眼を直視することができた。そして、彼女はその丹唇を開き千里に言う。
「もうすぐ、お会いできます」
そこで千里の視界は白い靄に覆われ意識はまた遠のいた。意識が遠のいたあとも頭には優しい手の感触が残っていた。




