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戴邦物語  作者: 龍本 明
薫り混じりし、風
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始憧  《Ⅳ》

 神社の周りからはパトカーのサイレンが鳴り響き、静寂の(やしろ)に喧騒を(もたら)している中、千里の荒かった呼吸が一瞬にして止まった。

薄暗い参道の中にぽつりと横たわる物体。淡い月の光がその姿態を照らした。豚のような黄色い体に赤い尾を生やし、顔は赤黒く人間の男性に極めて近い輪郭をしており、腹から血を流して苦しそうに横たわっていた。呼吸はしているようで身体が小刻みに震えている。


「だれか……そこに、いるのか」

千里は咄嗟に辺りを見回した。だが、声を発するようなものは目の前のものしかない。恐る恐る近づき、そのおぞましい姿をした生き物を間近で見た。見ると、痛々しい弾痕のようなものが腹に二つあり、誰かに撃たれたようである。そして内臓を撃たれたらしく酷い臭いが辺りにたちこめており、千里は思わず鼻を押さえた。

あの人を食い殺した獣かもしれないと、直感的に思った。こんな人の顔をした動物がいるはずがないのだ、おそらく間違いないだろう。ならば撃たれて血を流しながらここまできたのだろうか。

「いるんだな……そこに」

人のような血だらけの口が動いている。この豚に似た生き物が言葉を発しているので間違いはなかった。


「俺は……何に見える」


 擦れてしまいそうな青年の声が立ち尽くす千里に問いかける。千里は言葉を探した。見たことがない生き物だ、あえて言うなれば豚だが、豚が言葉を発するはずがない。この一体何かわからない生き物が自らが何に見えるかと問うている。これほど奇妙なことはなかった。千里は言葉に詰まったが、震える声で言った。

「人の顔をした……豚……」

一瞬食い殺されるかと思ったが、この獣はそうか、と一言言うと何かをあきらめるかのように首を落とした。そしてすすり泣く様に呟く。

「俺はこんなものを望んじゃいなかった……、俺はもっと、もっといいものを望んでいた……。憧れていた、無性に。これはきっと、夢なんだ……そうだ……そうに違いないんだ。俺が豚だなんて、そんなことありっこない、俺はもっと、もっと、そう……見えたはずなのに……、手に入れたと思ったのに……。望んじゃいけなかったのかよ……」


 この生き物は酷く錯乱しながら、どこかに向かって話していた。その話しぶりを見て千里の頭にあの馬腹(ばふく)のことが蘇った。人が堕ちて獣になる、確か翔がそう話していた。

「お前……もしかかして人間だったのか?」

千里が問うと、豚のような獣は横たえた顔そのままに静かに目だけを動かし、千里を流し目で睨んだ。

「多分そうだった……気がついたときにはこんな姿をしていた……はずだ。変な格好をしたこどもが現れたとこまでは覚えてるんだが、もう……よく思い出せない」

――こども?

千里は少し引っかかるものを覚えた。

「……ははっ、でもなんだか自分がもとから化け物だったような気もしてきたんだ……。なんの(しがらみ)も……苦しみもない……自尊心も傷つかない……俺は、最初からそうだったのかもしれない……。俺をバカにしたやつを食い殺したときは……とても、とても爽快だった。狂気と憎悪と本能のままに、やつらを食い殺した。酔っていた、なんの責任もない快楽に……本能のままに生きることに」

そう言うと、口から大量の血を吐いた。そして、目を細めて言う。

「……罰……かな。でも見てしまったんだ。あんな綺麗な場所……望むものが全部あったんだ。お前も気をつけろ、あれを見れば生きるのがばからしくなってしまう」

「……綺麗な場所?」

人語を喋る獣は、問いに答える前に豚の鳴き声のような咳きを三度して再び血を吐いた。もう長くは持たないだろうと素人目にもわかる。

すると光を失いかけていた目を突然カッと見開き力強く千里に向かって言った。

「……きたぞ……逃げろ……!」

――何が?と、聞く前に入口から参道へと続く石段にゆらゆらとこちらへ向かってくる人影があるのがすぐに目に入った。

「……わかるんだ……臭いがするんだ」


 千里はその獣の言う事に何か嫌な予感がして、慌てて虫の息の獣をそのままに手水舎(ちょうずや)の裏に隠れて様子を窺った。

すると月光が及ばない闇の中から二人の人間が現れた。やがて、横たわる獣の側まで来るとほのかな月光に照らされその姿が露わになった。一人は長身の立派な髭を蓄えた男性で、髪を結い纏め何枚かの衣服を重ね着し、腰を締める帯には剣が携えられている。対して、もう一人は翔とよく似た山吹色の衣を着ており、同じぐらいの年若の少年であった。明らかに日本人ではない風貌をしているし、だが現代の中国人でもなさそうだ。そう、あの世界の人間のような……。


 一気に噴き出した汗で衣服が絡みつくように身体を包み、鼓動が段々と早くなる。そして恐る恐る苔生した水盤と柄杓の間から見つからないようにことの次第を見守った。

 長身の男は片膝をつくと、この死にそうな獣を助けるわけでも憐れむわけではなく侮蔑を込めた眼で見下ろしていた。一方脇では少年が顔を背けて、袖で鼻を覆っている。

何かを話しているようだが日本語ではないので千里には全く聞き取れず、しばらくやきもきしていると、突然ぎゃっという悲鳴が境内に響き渡った。男が脇から剣を抜きあの獣の喉を掻っ切ったのだった。鮮血が飛び散る間も少年はずっと鼻を押さえ目を背けたままであった。それが対照的であり、違和感を覚える。

 千里はその光景を見て狼狽し、汗腺が全開になったかのように身体中から汗水が垂れた。

見てはいけない何かを見てしまった。そう思わずにいられない一部始終が目の前で繰り広げられたのである。


「誰かいるのか!?」

いきなり本殿の裏から声がし、そこから懐中電灯を持った警官二人が出てきて千里の背後を訝しそうに照らした。千里は声をあげて驚いたが、すぐに知っている制服を着た警官だとわかったので胸を撫で下ろし、警官に獣がいた場所をわなわなと震える手で指差した。

「あそこに、人を襲った動物が倒れて……!」

警官はそれを聞いて驚きながらも、わかったと頷き、警棒片手に参道の辺りを懐中電灯で照らした。

「どこだ、何もいないぞ」

「……そ、そんな」

確かに、目を離した一瞬の隙にさっきまでいた人や獣はすでに影も形もなく消え失せていた。


残っていたのは、ふわりと降り注ぐ月光の照明と赤黒い血の跡だけであった。

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