始憧 《Ⅲ》
千里は父が持ってきてくれた上下が合わない服に渋々着替え、近くの神社にあったのを拾ってくれたという学校指定の茶色い鞄を肩にかけてそそくさと病院を出た。すでに父が諸治療費を払っていてくれたようで、そこは父に僅かながらの感謝をしておいた。
外に出ると、病院の門の前には報道関係者と思われる人々が熱心にカメラを撮っているのが見えた。その獣に襲われたという人はこの病院に入院している、とさっきの待合室で誰かが言っているのを思いだす。警察車両も病院の前に何台か止まっているのがその証拠だろう。小高い丘の上にある病院からは、街に高いビルがそれほどないため街の全貌が一望できる。空は先ほど窓からみた快晴からは若干移ろい、細々とした綿雲が西の蒼天に幾重もの白波をつくりだしていた。家屋が立ち並ぶ街の向こうには大型船が停泊している港、そして広大な海、地平線を挟んだその先は青々とした空。
千里は向かって右手のほうをまじまじと見た。眼の前に立ち塞がる灰色の病院の向こうには自分が倒れていた――翔と出会った山があるはずだ。でも、そんなことよりも、今の千里には別のことで心と頭がいっぱいだった。さっきから頭から焼きついて離れない、あの後ろ姿。果たして偶然なのか、錯覚なのか、今は確かめる術はない。あの子の後を追えばよかったと今更ながらに深く後悔する。やがて、そんなもやもやした蟠りを残しながらも、千里は丘の下の街へと続くなだらかな坂道を何かを振り切るかのように足早に下っていった。
神社のある場所はすぐに分かるだろうと勇み足で古民家通りを歩いていたが、思ったよりも複雑な街路と根っからの方向音痴でなかなか見つからず、ほうほうの体で目当ての神社の前に辿り着いた時には、すでに日は山の稜線の上にまで落ちていた。やはりこの辺りは黄昏時ともなると人の往来が全くなくなる。まだ完全に日は落ちていないにも関わらず、うっすらとした闇が辺りを支配していた。千里は空を仰ぐ。社叢は以前訪れた昼間の時とは打って変わって、来るものを拒むかのように石段から広い参道までをどんよりと覆っていた。一応確かめるが翔の血の跡はどこにもない。意を決して鳥居をくぐり、翔が入っていった林道を目指した。他にもあそこ――自分が倒れていた場所――までに至る道があるとは心のどこかで思ってはいたが、このときはただこの道を通ることしか考えられなかった。
翔を追いかけた道なき道をなんとか思い出しつつ、山の雑木林の中へと分け入ってゆく。お墓、沼、畑、と目印となるような目標を辿りながら山を登ってゆく千里の心境はどこか複雑だった。やがて水が弾ける音がし、やっと開けた場所に着いた。今改めて見ると、この場所も誰かの所有物のようで、一段降りた場所には畝と粗末な農具小屋があり、人の来る場所ではあるらしい。見つけてくれた人に感謝しつつ、辺りに目を凝らした。確かその場所の小さな滝壺の周りには鮮やかな色を帯びた桃の花が咲いていたはずだが、ただ夕焼け色に染まる深緑の木々が立ち並ぶだけで、辺りには桃色などはどこにも見当たらなかった。しかも、前にあったはずのあちらへ繋がる穴も一切合切跡形もなく消えてしまっており、ますます千里の心は複雑混迷してゆく。
日の円底は街を挟んだ向こうの山の稜線に接し、朱色の空を背景にカラスの群が忙しない鳴き声をあげながらどこかへと飛んでゆく。眼下に広がる家屋の灯がぽつぽつとつき始め、帰宅を促す赤とんぼの曲が千里の耳も入った。ちらりと時計を見るとすでに六時を回っていた。
「暗くなる前に見つけないと。でも……」
跡形もない穴を見て、千里の心は再び不安に苛まれた。あれは夢、あれは幻。別の自分がそう囁く。でも、翔の声が頭にこびり付いて離れない。
――ここは千ちゃんの来るような世界じゃないんだ。
いや、行ってみなければわからない。どんな世界だろうと構わない。この世界じゃないのであるならば。
そう、もしここであきらめたら、また同じ苦い日々が続くのかもしれないのだ。
それだけは嫌だと、心を奮い立たせ、千里は弱まる日の光を頼りに草叢を掻き分けあの指輪を探した。見つけなければ何も始まらないような気がした。見つけなければ何かが終わってしまうような気がした。
「あった!!」
泥だらけの手をあげ千里が腰をあげたとき、すでに辺りは闇に包まれつつあった。
だが、指輪かと思われていたそれは、別の形をしていた。前に握った指輪よりちょっとばかしでかいぐらいの大きさでまぎれもなくあの紅い珠をつけているが、元の形とは程遠い。言うなれば偉い人が使う判子のような四角い形をし、持ち手には薄暗くてよく見えないが何かの象形が形作られている。その象形が天に向かって珠を咥えている。宵の中におぼろげに浮かぶ満月にそれを翳すと、よく真紅を発した。
不思議に思いながらも、これで間違いないと感じた。直感的というより既知からくる確信に近い。あったのだ、間違いない。自分はあの世界に行っていたのだ――この世界とは異なる世界に。嬉しさに表情を綻ばせながら、泥のついた手で汗に塗れた顔を拭い、目の前に広がる見知った街の夜景をぼんやりと見た。夕と闇が混じり合い紫の空を描き出すその月下、様々な光の点が天空の星のように眩く輝く。赤であったり、白であったり青であったり様々だ。あの一つ一つに人が生活を営んでいる。当たり前だと思っていたこの光景、千里はとても感動を覚えた。興奮からか、目に映る全てが美しく、輝いているように見えた。
「綺麗……」
そして、千里はものをしっかりと握りしめ、山を後にした。
山を降りる最中もパトカーのサイレンが街のそこら中から聞こえた。まだ、あの謎の動物とやらは捕まっていないのだろうか。身を守るものを持たない千里は、恐々とほの暗く細い道をひたすら歩んでいた。やがて神社の本殿の屋根が見える位置まできて一安心し、参道を通って早く帰ろうと足早に坂道を駆け下りる。しかし、千里の足はある物を見てピタリと止まった。
何かが、参道の石畳の上で横たわっている。木々の隙間から差す月光が僅かに照らすその物体を背筋が凍る思いで見た。渇いた喉が大きく鳴る。どうやら大きな犬か豚のようであるが、どこかがおかしい。そして、そのことに気付くのに時間はかからなかった。
その動物の頭は人の顔をしていた。




