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戴邦物語  作者: 龍本 明
薫り混じりし、風
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始憧  《Ⅱ》

 千里は目を瞑りながらずっと夢のことと、あの不思議な世界のことを考えていた。果たして、あの世界は本当に現実のものだったのだろうかと頬を白くて硬い枕に擦りながら思う。何年も前に行方不明になった友達が、当時の姿そのままで魔法のようなものを使い、朽ち果てた城で、馬に跨り鎧を着込んだ人達と人面の化け物に出会ったなどと他の人は信じてくれるのだろうか。おそらく真剣に取り合ってはくれないだろう。

 そして、懐かしいようなおかしな興奮が身体をやんわりと包み込んでいる。そういえばこんな気持ちは何年も前から感じていなかった。新しいものを見て好奇心と冒険心に溢れるような、そんな――。

 だが、そんな中でも(まぶた)の裏には翔の苦しそうな表情が見える。血を流し、必死にこちらに叫んでいた。夢でないとしたら、翔は何者かに襲われ死にそうになっているのか。助けなくちゃ、でも――。夢であってほしいような、夢であってほしくないようなそんな複雑な気持ちが心を淀ませる。そこではっと思い出して、手の辺りを(まさぐ)った。

「……指輪が」

翔が落とした指輪。あれが、夢かどうかの証明になる。しかし――、探してもどこにもなかった。はねるように起きてベッドの側にある小さな棚も見たが、なかった。だとしたら、あの山に転がっているのかもしれない。

千里は何かを確かめるかのように窓の外を眺めた。三階の窓のすぐ前には青々とした葉を繁らす(けやき)の梢が陽の光を調節するかのように立ちふさがり、病院特有の真っ白な部屋の中を優しく照らす。今日は快晴だ。



 結局貧血で突然気を失ったということで一通りの検査は終了し、看護師さんから待合室で少し待つように言われた。こじゃれた洋風テラスのように壁一面がガラス張りの待合室では、病院の敷地内にある手入れされた小坪の庭の景色が一望でき、午後の陽光が室内全体に差し込んでいる。五列ほどに並べられた長椅子にはちらほらと患者であったり見舞いに来ているような人が座って、壁に掛けられた大きな薄型テレビを見たり、紙コップのコーヒーを片手に文庫本を熱心に読んでいた。千里も他の人と距離を置いて長椅子に腰かけ、テレビを眺めた。ほんとうはこんなにゆっくりしたい気分ではないのだが、ほんの数分だろうと逸る気持ちを押さえて仕方なく正午のニュースを見た。

どうやら、何か大きな事件があったらしく、ヘリで空から中継している。その街並みを見て、千里の顔が一瞬強張った。なんと、自分の住んでいる街ではないか。


「事件の状況を説明してください」

女性のアナウンサーがレポーターに事件の詳細を尋ねる。レポーターが立っているのは、見知っている街の商店街の前だ。千里が周りを見ると待合室の人はみんな顔をあげ、廊下にいる人も足を止めてテレビを訝しそうに見ていた。画面右上のテロップには「真海市(しんかいし)で男女四人が正体不明の動物に襲われ死傷」とある。

「はい、今日の午前一時頃、真海市中心部の繁華街で男女四人が謎の動物に襲われ三人が死亡、一人が意識不明の重体です。現在、保健所と県警が合同でこの動物の行方を捜索中ですが、まだ見つかっておりません。また保健所からはなるべく外出は控えるよう市民に呼び掛けています」

レポーターの後ろにはブルーシートで塞がれた路地が見え、辺りの壁には血の跡がある。何やら背筋が寒々とするようなものを感じた。そして、一瞬あのときの凄惨な光景が脳裏に鮮明に蘇る。男が獣に食い殺されるあの光景を。

「どのような動物か判明しているのでしょうか」

「いえ、生存している被害者が意識不明でその正体はまだわかっていませんが、ある目撃者によると人面の豚という証言もあり、その真偽については現在も調査中です」


――人面の……豚?


千里の頭にもっと嫌なものが現れた。あの不気味な笑みを浮かべた化け物の顔だ。まさか、そんなはずはないと、焦る気持ちをなんとかなだめようとするも、どうにもあの表情を掻き消すことができない。その中にふと、そこに翔の顔が浮かぶ。


――千ちゃんの街、いやそれだけじゃないいろんな場所で、もしかしたら大変なことが起こるかもしれない。


翔が言っていたこと、もしかしたら……。いや、どちらにしろ、まずは現実か幻かを確かめなければならない。そのためにも――。

「番号札、108番の方、108番の方、検査が終わりましたので受付までお越しください」

千里は急いで札を見返すと、すっくと立ち上がってテレビを後目に待合室を出た。とりあえず、確かめるのが先決だ。

だが、受付の数歩前で千里の急ぎ足は止まった。何が起こったのか一瞬千里にもわからなかった。千里の立つ場所から見える病院のガラス張りになった正面玄関から、足早に出ていく女の子に目がかちりと固定されてしまったのだ。


「あ……あれ?」


 休日で混んだ病院内は人の往来が激しく、すぐに女の子は雑踏の中に紛れた。一人時間が止まったかのように停止した千里の(まなこ)にはしっかりとその女の子の陰影が焼きつけられた。白い薄手のワンピースを着て、片手に小さな鞄を持ったその女の子の顔、忘れるはずがない、夢で見たあの儚そうな表情を浮かべた女の子だ。寸分違わぬその顔、だが髪は肩までではなく、前髪をピンで止め夢よりも少し短かった。千里の心臓は急激に鼓動を加速させた。気持ち悪くなるほどに、全身に血液が巡り始める。数十秒間固まったままの千里に看護師さんが声をかけた。

「瀧本千里君ね、異常がなかったからもう退院してもいいわよ。部屋で着替えたらもう一度ここに来てね」


千里は心ここにあらずな顔で頷いた。

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