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戴邦物語  作者: 龍本 明
薫り混じりし、風
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始憧  《Ⅰ》

 視界に広がるは濃霧、取り巻くは香り混じりし風。

千里は、どこかに立っていた。この甘い香りは嗅いだ事がある。やがて眼前から濃霧が晴れ、風景が鮮明になった。聞いたことのある甲高い野鳥の囀り、瓊草(けいそう)繁る蒼莽(そうもう)が広がる場所。もちろん千里には見た覚えがある――夢で見た場所。芳園(ほうえん)の周りには朱色の(いらか)がふかれた(へい)が、先がかすれて見えないほどに遥か向こうへと続き、その中央には綺麗に澄んだ溜池と金銀細工が施された(あずまや)が庭の風景を損なわない適切な位置に建てられている。

 千里はじっと目を凝らした。亭にはやはり誰かがいる。赤黒い手摺にか細い手を置き、どこか遠くをおぼろげな表情で見つめる少女。


――また同じだ。


千里は少女が一番よく見える池の(ほとり)までいき、今度こそはと大きく声をあげて呼ぼうとする。だが、声は言葉ではなかった。

唸るような重苦しい声が喉から発せられる。どうしたことか、言葉が出ない。意識では言葉はわかるのに発した途端言葉ではないものに変わるのである。そして気付いてしまう――自分が四足で地面に立っていることに。千里は驚いて、急いで水面に映る自分を見た。


――これは!?


 紅い毛並みの狼のような獣が水面をじっと睨んでいる。そんなばかな、と面をあげ亭を見た。少女はこちらを見て愛おしそうな微笑を浮かべている。そこで初めて少女の顔を見た。肩まで伸びた黒髪は陽の光を浴びて光沢を発し、穏やかな微風に(なび)いている。懐かしいような、嬉しいようないろんな感情が心に沸き躍る。やがて、少女はまた曇った顔をして別の方向を向いてしまった。すると、水面が急激に靄に覆われ辺りは真っ白になる。千里は声をあげて少女を呼ぶが、その声はただの遠吠えにしかならなかった。




 長い夢を見たかのような徒労感を抱えながら千里は目を覚ました。体中の所々が動かして伸縮する度に痛む。眠くてしばしばする目を重々しく開けると、まず自分が寝ているベッドが知っているものではないことに気付いた。そして、部屋の内装が知っているものと違う事にも気づく。白いカーテンがベッドの周りを取り囲み、独特な薬品の臭いが鼻をついた。すぐに病院のベッドだとわかった。


「目が覚めたようですよ」

若い女の人の声がすぐ側で聞こえ、次いで、そうですかと言う男の声がした。すぐに父親の声だと理解する。カーテンが開くと、やや疲れたような顔の父と白衣を着た若い看護師の顔が見えた。父はスーツを脱いで脇に持ちこちらをちらちら見ながら看護師さんの話を聞いている。やがて、父が頭を下げて看護師を見送ると、顔色を変えてベッドの脇の丸椅子に腰かけた。そして、部屋に響き渡るような声で、

「何をしていたんだ、心配したんだぞ!」

と、まだ意識がぼんやりしている千里を叱りつけた。しかし何と弁解すればいいのかわからず、とりあえずしゅんとして父の次の言葉を待った。

「今朝街の裏山で倒れていたと聞いて驚いたぞ。あそこで何をやってたんだ、言ってみなさい。悪いことをしていたのか?」

果たして、何があったかを言ってこの父は信じるだろうか。そもそも千里自身もあれが本当にあったのか怪しいぐらいの気持ちである。しかし、悪いことをしていたのかという言葉が千里の心を締め付ける。一体誰のせいでこんなことになっていると思っているのだろうか。


「……父さんのしていることは悪い事じゃないの」

「なに?」

咄嗟にもやもやしていたものと一緒にずっと(わだかま)っていた感情を父にぶつけた。

「母さんや沙希や僕のことを無視して勝手に女を連れてきて、子供も作るのが悪い事じゃないの?」

同じ部屋にいる人がこちらを訝しそうに覗いている。父は唖然として千里を凝視していたが、やがて肩を落とし言う。

「千里、前にも言ったが母さんも沙希ももうこの世にはいないんだぞ。いない人の気持ちをいつまでも引きずっているわけにもいかないだろう」

小さな怒り混じりに千里を諭した。

「……僕はどうなるんだよ」

「だから、お前は父さんの列記とした息子だ。お前はちゃんとした家族の一員なんだ、これからも。何も心配することはない」

「……どこにそんな保障があるんだ!」

今度は千里の声が部屋を越え、廊下にまで響いた。これに対し父の顔は次第に紅潮するが、やがて深い溜息を吐くと、上着を持って席を立った。

「父さんはこれから仕事だ。午後から検査をして大丈夫だったら退院してもいいそうだ。着替えはそこにある」

そう言うと、千里に一瞥もせず部屋を出て行ってしまった。


千里も溜息を吐くと、あの夢の続きを見ようと布団に潜り込む。でも結局寝付くことはできなかった。

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