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戴邦物語  作者: 龍本 明
青靄の誘惑
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堕落  《Ⅱ》

 理想はあった。

自分の理想像は確かにあった。解れてしまいそうなほどに脆かったが、存在していた。

しかし、今の自分にそれを照らし合わそうとしても、どうしても重なり合わない。こんな自分を過去の自分は想像していただろうか。いや、むしろ蔑んでいただろう。理想の自分の一片でも手に入れることすら叶わない現実。今まで見ていた将来像とのあまりの格差。その格差の尺度のぶんだけ募る嫉妬。


 男の心にはさっきまで情熱で煮えたぎっていたが、今ぽっかりと喪失してしまったその場所には憎悪という感情がだんだんと埋め合わされていた。それは女に対する嫉妬と、女を手に入れるだけのものを持つものに対する嫉妬。そいつは自分にはないものを持っている。何故だ。どうして自分じゃないんだ。なぜ、あいつがもって自分はもっていないんだ。


 どうしようもない現実は男を酷く無力感に苛ませる。そして次第に、現実と向き合うことに消極的になり始めていた。向き合ったところで、格差を見せられる。それは男を失望させる。向き合うことは男の自尊心を傷つける。

ならば――、男は甘美で都合のよい空想を見始めるしかない。

理想の、なんの(しがらみ)もない、きれいな、傷つかない……。


 男は足取りも覚束ないようにふらふらと倉庫街を宛てもなく彷徨い、そして摩耗で明りが点滅する自動販売機の脇にある、社名の入ったベンチに崩れるように腰掛けた。

ぐったりと項垂(うなだ)れ、ほくそ笑み、空を見上げる。街の明るさで星すら見えない。月だけが煌々と月下を照らす。目が熱くなり、頬を一筋の涙が伝った。


「いったい……なんなんだろうな。俺……」


 そして、ごしごしと目を拭い目を下に戻すと、ほの暗い電燈の下に人影があるのに気付いた。男は音もなく現れた物体に驚き、あっと声をあげた。それは、ぺたぺたとこちらへ近づいてくる。小柄の少年のようだが、こんな時間にこんな場所で子供がいるはずがない。男は背筋が急に寒くなり、恐怖のあまり言葉を失った。すると少年は、あと数歩というところでぴたりと止まり、拳の甲の辺りを額につけた。山吹の衣を纏い、髪はきちんと束ねられ後ろでに金細工で結われているようだ。男は仰天し、ただただこの不思議な少年を凝視する。


「ごめんなさい」


と、男の耳の中に声が響いた。少年の口は開かれていない。

「な、なんだ、お前は」

問うが応答はない。少年は見るからに辛そうな表情をしている。そして――、少年は何かの呪文を唱えた。一つの音楽のような呪文。すると、少年の額の辺りから青白い光が噴出し一気に周辺を呑むと、男の視界から少年が消え、次いで辺りの風景が光に消えた。

青を含んだ風が吹き荒れる。でも、肌に当たるような感触を覚えるだけで服はゆらめなかった。皮膚にだけ風が当たっているような。


「あ……あぁ……」

 風が止み、周囲の靄が開けると、なんと男は地平線まで延々と広がる花畑の真ん中にぽつんと立っていた。甘く切ない香りが辺りに立ち込めている。そして理由のわからない充足が憎悪と嫉妬に支配されていた心を満たしてゆくのを感じた。

そして、男は見た。いや体感した。全てを。考えうる全てを。

男は、身体が蕩けていくような感触を覚える。精神が昂り、感情が高揚する。男が望むものがそこにはあった。理想の全てがそこにはあった。

 そこで、男の心の中の何かがガクンと外れた。生への執着か、はたまた壮絶な虚無か。

精神から理性が溶け出し、別の所有物になったかのような身体が歯止めの効かない変化をし始めている。

やがて、青白い光が周囲から消失すると、男はいつの間にか走り始めていた。

点滅する電燈が猛然と駆けるそれを閃きのように照らす。黄色い体に赤い尾を持ち四つの脚で駆けるそれは、すでに人の形をしていなかった。



「あれはなんだ」

肩を落とし、荒い呼吸をする少年の脇で、深衣(しんい)を纏いやや目のつりあがった男が言う。

「……合寙(ごうゆ)です」

「ほぉ、やはり畜生に堕ちたか。だが合寙(ごうゆ)の血では不老不死は得られんな。しかし、何故(なにゆえ)奴を支配せぬ。方へ行ってしまったではないか」

男は細い目を更に細めて問うた。

「僕は瀛州の民には知られていません。彼等の心に僕ら、龍はいないからです。それでは堕としても支配することはできません」

少年は肩を落として深い溜息をついた。

「そうか、まぁよい。しかし……」

男は天を振り仰いだ。未だ星は見えず、天は淀んで明るい。

「星も見ずしてここの者はいかに吉凶を天に請うのであろうな」

少年は黙ったまま俯いていた。男はそれを気にもせず、黒い笑みを含みながら歩を進ませる。


「戦もせずに理想だけ一人前とは、瀛州の民はよい獣畜(じゅうちく)となることであろう。のお――子琳よ」





「ねぇ、さっきのはやりすぎだったんじゃないのぉ?」

「はぁ?むしろ殴らなかっただけ俺は優しかったぜ」

「きゃはは、言えてる」

「あんな気持ち悪いの見てると腹立ってくんだよ。なーんか負のオーラっていうの、まわりに迷惑だから排除してやったんだよ、俺いいことしちゃった」

「さっすが正義の味方。……待って、なにあれ?」

「ん、犬か?いや……違う、豚か?」

「こっちくる!逃げよう、ねぇ、逃げようよ!」

「うわっ、顔だ!顔がっ……ぎゃあああああ」

「きゃああああああああ、あっあっ……」


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