堕落 《Ⅰ》
不純物が鬱積している。心、身体、頭にどよどよと溜まってゆく。鬱憤の晴らし所がなく、さらに不純物が降り積もってゆく。やがてそれは、掻き取りにくいところで沈着し、固まって底にこびりついてゆく。
その男は喧騒に溢れた街の中心地から、少し離れたところにある深夜のネオン街を、やや俯きながら足早に歩いていた。手には小さな紙袋をもち、よれよれのスーツは畳んで脇にもって、新調したネクタイは首元で不格好に緩んでいた。手元には大学の入学祝いに買ってもらった腕時計の指針が0時を示している。
「くそ……どうして」
男はぶつぶつと文句を口にしながら、涙と鼻汁を顎からぽろぽろと滴らせていた。雲がかった暗鬱とした空は街が発する膨大な光に照らされ、澱んで赤黒く、今の男の心情をそのまま現わしているかのようである。深夜のネオン街は意外と人の往来は激しく、人々は欲望の赴くままにネオンに染まった店々へと入ってゆく。男は、それを横目で見て深く溜息を吐いた。そして、この世界に深く、深く失望した。
三時間前、男は好意を抱いていた女性にふられてしまった。二四年生きてきて初めて好きになった女性。男はそれまで空想に浸る生活ばかりをしていたが、彼女を知ったことで初めて今まで無味だった人生がとても楽しくなったような気がした。毎日彼女と一緒にいられたらと考えるようになった。時には、理想の自分を照らし合わせた。しかし、現実はそう彼に甘くはなかった。三時間前、女性に直接会って、生まれて初めて自分の心の内を伝えた。誰にも話したことのない恥の部分を初めて人に打ち明けたのである。だが女性は、他に好意を抱いてる男がいたのだ。男はその女性が好意を抱いている男性を知っていた。とてもその男には及ばない、顔も、容姿も、経済力も。そして自分のつまらなさを改めて思い知らされたのである。そのことは男を深い深い嫉妬と、失望へと誘ってゆく。
ふと男は店先のショーケースに映る自分を見た。冴えない、地味――。
そう彼女に言われた。言われてみれば確かにそうだ。今までそんなことは自分の矮小な自尊心のために考えないようにしていたのだが、人に言われたことで消そうにも頭の中で反響して掻き消すことはできなかった。認めざる負えない自分自身がそこにはあった。大きくプライドを抉られた男は、自失した状態で店の前に佇んでいた。
「邪魔なんだけど、どいてくんない」
化粧の濃い華奢な装飾品で身を固めた女が、男の後ろから毒づいた。いかにもなチンピラ風の若い男を連れて。店の入り口の前に立つ男が邪魔で気に入らないらしい。
「どけよ、気色わりーんだよ」
チンピラ風の男は、気力なさそうに俯く男を強引に突き飛ばした。男は脚に力が入っていないこともあり、そのまま右肩から倒れこんでしまった。それを見て指差し笑う、通りがかりの男女。
男は肩を押さえ落ちた眼鏡を手探りで拾い急いで手元を見ると、男の腰の下には紙袋が無残にも潰れていた。彼女にプレゼントしようとした、駅前の有名菓子店のロールケーキ。しかしすでにその精巧に装飾されたそれはもとの形をなしていない。
その滑稽な光景を見て、おもむろに携帯を取り出し、男に向けて写真を撮り始める群衆。
「あーあ、もったいねー」
げらげら笑うチンピラ風の男は侮蔑の笑みを浮かべながらそのまま女の肩を抱いて店へと入っていった。
「なーんだ、喧嘩じゃねーのか。つまんねぇな」
群衆から声があがる。なんならお望み通りしてやろうか、と男の無気力な心に殺意めいた憎悪が一瞬沸き起こると、わなわなと震える手で側にあった工事用のコーンを掴もうとする。しかしそれは瞬時にあきらめへと変わってしまった。それで自覚する。自分は非力で、自分の尊厳を守る勇気すら持ち合わせていない。
そしてそんな自分がすごく惨めで、とてつもなく虚しかった。
一人残された男は群衆を一睨みすると、そのまま立ちあがって紙袋をそのままにネオン街の暗い路地裏へと逃げるように走っていった。
ネオン街の裏は戦後からの古い工場地帯で、錆着いた倉庫がそこら中に立ち並び工業廃水を流すためのコンクリートで固められた河川が縦横無尽に一帯を流れている。街灯は少なく民家もないため、ほとんど人気はない。夜ともなれば、誰も買わない自動販売機だけが煌々とひびいった道路を照らすだけで、辺りは真っ暗闇である。ふと、暗雲に隠れて朧になった月光が廃工場の屋根の上に佇む二人の人影を浮かび上がらせた。
「あの男はどうだ」
低い声の男が言う。
「……」
「よもや、約束を忘れたわけではあるまいな」
男は、やや高圧めいた口調でもう一人のほうを見る。
「徼憬を見せれば堕ちると思います。でも……」
「なんだ」
月光が姿態をほのかに照らす。片方は子供であった。
「あの男の人は酷く心を喪失しています。あれではお望みの儚獣になるとは思えません」
少年のほうは何やら不安そうな面持ちをしている。低い声の男は、少年の小さな顎を掴んで言う。
「やってみなければわからぬ。そもそも助けを求めてきたのはお主ではないのか」
「……」
少年は目を伏せた。
「それとも……彰国がどうなってもよいと申すのか。我々は一向に構わんが」
「いや……そんな」
「ならばやれ。大王陛下も待っておられる」
少年は静かに目を閉じ、頷いた。




