兌を抜けて 《Ⅹ》
謎の娘の指差す方に従い、崩れて坂になった城墻を降りると、なだらかな斜面に木々が群生する森が壁に迫る勢いで広がっていた。城の真裏のようである。辺りは、さっきの陽当たる場所とは打って変わって暗澹とし、森全体に薄い靄がかかっているようであった。
「こっちだ」
翔は急くように、千里の人差し指と中指を掴んで森の奥へと入ってゆこうとする。背には痛々しい引掻き傷が滲んだ赤い線を呈していた。千里はそれを見て心に同じような傷がふっと浮かぶ。どうしてこんなになっても顔色一つ変えず、ひたすらこの手を引こうとするのか。
「翔」
千里は堪え切れなかった。
「何?」
ほんとうに素っ気ない。
「傷」
翔は頸を回し袍を引っ張って背中を見た。
「あぁ、大丈夫だよ。少し痛むけど」
少しどころの傷ではないことは素人の千里でもわかる。血が袍を伝って背から滴っているのだ。
「腕も」
すると翔は左腕も見る。が、今度は微かに笑ってみせた。
「大丈夫だって、どうしたんだよ」
千里は汗でひっついたポケットから指輪を出して翔に示した。
「これ、翔のだよね」
それを見せると翔は、みるみる顔を変え歓喜の声をあげて喜び、指輪をとって元あった指に填めた。わずかに指との間に隙間があり、すっぽりと填まる。
「よかった!これがなかったら大変なことになってたよ。まさか千ちゃんが持ってたなんて」
翔は指輪を夕陽にかざしてうれしそうに眺める。陽光を浴びて、真紅のような色を放つ指輪。翔はまるで、買ってもらった玩具を手に入れたみたいにはにかんでいる。
「……」
「どうしたの?千ちゃん」
いつの間にか腕が震えていた。鼻が次第にツンとし始め、目に水が溜まる。
「どうして……どうしてそんなに強いんだよ……どうして子供でいられるんだよ……」
「……」
「自分も……戻りたいよ。あの頃に――」
「……」
今の現実に絶望していた。優しい母さんも兄思いの妹もいない。たった一人残った家族である父さんは違う女と新たな家族になろうとしている。子供の頃の自分はまさかこんな未来がすぐ近くに迫っているなど考えもしなかった。当時は早く大人になりたいと思っていたが、こんな苦痛を背負っていかなければならないのなら子供のままのほうがいい。戻りたい。そう、無垢な、幸福なあの頃に――。
「駄目だ!」
翔は声変わりもしていない小高い声で一喝した。
「憧れは敵に心に付け入る隙を与えてしまう」
そのとき千里の何かがぷつんと切れた。拳を振るい、声を荒らげる。
「敵ってなんだよ!?龍ってなんだよ!?天命ってなんだよ!?さっきから何を言っているかわからないよ!昔からそうだ!大事なことをいつも言わない!全然何が起こっているのかわからないよ!」
張り上げた声は、声変わりしたてで若干かすれ、静寂の森林に吸い込まれていった。しばらく閑寂が辺りを支配し、やがて翔が頭を掻いて俯くと呟くように言った。
「ごめん」
翔は、畝って突出した木の根に腰かけて静かに喋り出した。陽は着実に傾いている。翔の袍は陽で紅色に染まっていた。
「深く知らないほうが千ちゃんの為だと思ったんだけど……」
と、前置きし、
「……さっき人が獣になったと言ったよね。実はそれが千ちゃんの世界で起ころうとしているらしい」
と、目を落として言った。
「……」
千里の顰めた表情は少し緩む。
「人は畜生になる。逆に言えば畜生は人だ。天が定め、それが理になっている。そして龍は天から与えられた力で人を畜生へ堕とすことができるようにされた。何故かはわからない。そして、先日その力を使って今千ちゃんの世界で人を畜生へと堕とそうとしている奴がいることが僕らは知った。何の目的かは不明だけど。でも、それが本当に起こればあちらの世界は大変なことになる。だから僕はそれを知って千ちゃんの世界、東瀛に行って事の真否を確かめに行ったんだけど、そこで敵に先手を打たれてこのザマだよ」
「もしかして……」
翔は小さく頷く。
「そう、どうやら僕とは別の龍がこの件に一枚噛んでいるらしい。偶然何人かの龍が行方不明になっているし、どうやら人間の揉め事に使われているみたいなんだ」
翔は脚を組んで頬杖をした。
「龍ってのは、簡単に言えば人々の偶像物さ。故に、理想であり完全であり象徴である。だから龍は人の心に干渉することが可能なんだ」
千里は湿った鼻を拭い、少し首を傾げた。なんとなくはわかるが、話が急に難しくなった。
「だから、戻ったら気をつけて欲しいんだ。憧れは人の心に隙間を作り、そこに付け込む奴にそいつが望む理想を見せられれば、大抵の人間はそれに屈して獣になってしまう。僕はこれから宮に戻ってことの次第を姉上に奏上しなくちゃならない――」
「姉上?」
翔の頬杖がずり落ち、あたふた慌てだした。
「い、いや、今のは言っちゃダメなんだった。ごめん忘れて」
千里は深く追求しようとはしなかった。翔は目を細めて天を見上げると、すっくと立ち上がり辺りを見回す。
「時間がない、歩きながら話そう」
山の中腹辺りになると、人が通るような道も失せ、獣道のような細い道しかなくなってしまった。千里は後ろを振り返った。眼下には夕陽によって巨大な影を帯びる建造物群が、空虚な闇を纏って広大な盆地に畝だけが残る田園地帯に静かに佇んでいる。この都市は滅びたのだ。何千といたであろう都市の発展に勤しんできた城内の人間は殺され焼かれた。そう思うと、これは巨大な棺桶に見えないこともない。寂しさが千里のこころに影を残した。
翔は歩きながら話そうといいながら、足場に注意するよう言う以外何も言葉を発しなかった。なので千里もそれに従った。そして歩きながら千里は翔の背中を見ながら思う。
――この幼い子供に一体どんな大きなものが背負わされているのだろう。
話を聞くところ、龍というものはこちらで言うところの仙人ではないだろうか。どういう仕組みでそんなものが決められているのか知らないが、改めて意識すると、様々な点において元いた世界とこちらは絶対的な隔絶が存在している。
――異世界。
そう、自分は異世界に来てしまったのだ。そんなもの、存在するはずがないと思っていた。単なる空想だと思っていた。しかし、現に今、あちらには存在しない場所の土を踏みしめ、ありえない獣に命を狙われ、行方不明になったはずの親友が、いなくなった時のままの姿で前を走っている。
それで、十分だった。あちらにないものがこっちにある。もしかしたら自分の本当の居場所もこちらにあるのではないだろうか。苦痛しかないあちらに自分の居場所などあるのだろうか。どちらが夢で、どちらが現なのだろうか。
――そういえば、今朝の夢
ふっと今朝見た夢の一部分が頭を過る。
「ここだ」
激しい水流の川の岸辺に差し掛かったとき、翔が向こうを指差した。
細い指が差す先には桃の花が咲く木々の間に木造の祠のようなものがぽつんと置かれており、どこかで見たような青い蝶が何匹かひらひらと祠の周辺で舞っていた。
丸太を二本倒しただけの粗末な橋を渡り、翔の背丈ほどの祠の前に二人は並んだ。祠は誰かが手入れしているのか、きちんとお供え物があり、楕円形の石段の上に小さな皿があって褐色の木の実が盛ってあった。翔は千里の顔をちらりと仰ぐと、祠に指輪を翳し、目を瞑り深く息を吐く。するとさっきまであたりをひらひら舞っていた蝶が、翔のまわりに集まりだして、ついに背中の傷に群がりだした。千里は驚きながらも、その光景に見とれた。青い蝶は紅い夕陽を浴び、翅をあおぐ度に色が混ざって青紫や赤紫に体色を変える。一時の淡い神々しさ。千里は無意識にその光景を頭に焼き付けていた。
やがて、背中の傷はいつのまに癒え、血も止まると蝶はまた辺りをふわふわと飛び始めた。
翔は何かを唱えると、祠の格子を開いて中を覗き、手を入れ中から蓋のようなものを取り出した。脇から見ると人一人が入れるような小さな穴が祠の中にぽかりと空いている。
「ここでおわかれだ、千ちゃん」
翔は千里の紅くなった顔を笑顔で仰いだ。だが、見せかけの笑みであることは千里には痛いほどわかる。自分も少し笑んだが、果たして笑っていたかはわからない。また鼻が湿りだしてきて、溢れそうだ。
「……戻らなきゃならないのかな」
「でも、千ちゃんのいなくちゃいけない世界は向こうだ。ここじゃない。待っている人がいるはずだよ」
待っている人と聞いて小さくうつむく。
「実は母さんも、妹ももういないんだ」
翔はそれを聞いて眉を落とし困った顔をした。
「ごめん……、知らなかった。でもお父さんがいるんでしょ、なら帰らなきゃ」
「……でも父さんは、別の女を家に連れてきて、新しい家族を作ろうとしてる。女の人は父さんの子供も身籠っているんだ。だからこれから一緒にいたって除け者にされるだけだよ。だからもう僕の帰る場所なんか……」
そうだ、もう自分の居場所なんてあそこに存在しないんだ。煙たがれる生活しか待っていないんだ。それなら、いっそ――。
そんな千里を見かねてか、翔は空をぼんやり見つめて、呟く。
「……あちらに行ったとき、本当はいけないんだけど自分の家を見たんだ」
「……」
翔は紅が青に染み渡りつつある空を仰いだ。そして鼻をすする。
「家、なかったんだ」
――そうだった。翔が行方不明になってから二年ぐらいしたあと、翔の親は離婚したと風の噂で聞いた。そのあと、父だけがあの家に住んでいたが、いつのまにか蒸発してしまい、家は取り壊され今あの場所は駐車場だ。翔がそれを見た時何を思ったのかは、想像に難くない。
「帰れる場所があるだけ千ちゃんが羨ましいよ」
「でもっ……!」
出そうとした言葉が喉の奥でつっかえた。
「なんだか最近だんだんあちらの世界での生活が夢だったんじゃないかって思うようになってきてね、家族の記憶もさ、なくなってきてるんだ。自分の家を探すのにも手間取っちゃった」
「……」
微かに笑う翔の顔は影を帯び、とても寂しそうだった。どちらの苦労が大きいかなんてこの際比べたってしょうがないことは千里でもなんとなくわかっていた。でも、翔はどこか一歩先に行っている。自分とはかけ離れた境遇で、強くなっている。千里にはそれが非常に羨ましく、妬ましかった。彼は確固とした居場所があるのだ。
「……また、会えるかな」
千里は尋ねる。翔はこっくりと頷く。
「天がそう望むのなら」
千里は体を曲げて穴に入った。石で固められた穴の奥の方は緩い傾斜の階段になっている。
とても眉間が熱い。翔は穴に入る千里を心配そうにのぞきながら声をかける。
「くれぐれもさっき言ったことを忘れないで。あちらの世界でのことは必ず僕らがなんとかするから」
「……わかった」
光が次第に届かなくなり途方もない闇が辺りを染め、土の湿った臭いが充満している。
「鬼ごっこ、今度こそ決着つけよう」
「……うん」
名残惜しみながら手を振る翔に手を振り返しながら、ふと眼前を見た。まるでこれからのことを暗示するかのように、闇が先を塞いでいる。深淵と呼ぶに相応しい。本当に帰れるのか、帰っていいのか、両挟みの不安に苛まれる。残ればよかったのではないか、という自問が千里の歩を遅くした。
階段を十段ほど降りたところで、千里の耳にどこかで聞いたことのある空を切ったような音が届いた。
「千ちゃん!いそい――」
突然、翔の叫び声が空洞の洞内に木霊する。そして、何故か翔に渡した指輪が音を立てて千里の足もとまで転がってきた。暗闇の中でも薄暗い真紅の光を放っている。
それを見た途端千里の頭に嫌なものが過った。指輪を拾い上げ、恐々と後ろを振り返る。
刹那、千里の思考が停止し、一気に激情が頭の中を席巻した。
穴の入口で頸に矢が刺さった翔が穴の縁にもたれて動かなくなっている。手をだらんと落とし、穴の中に血を滴らせていた。
その異常な事態に言葉を失い狼狽する千里。だが、翔はまだ息があった。翔は小さな首をもたげ出せない声を必死に絞り出して穴に向かって叫ぶ。
「走るんだ!!」
言葉になっていなかったが、千里には確かにそう聞こえた。途端、無意識のままに千里は泣きながら闇の方へとつっ走る。振り返らないように、ただ、走るんだという翔の声のままに。
気がつくと、辺りは真っ暗闇であった。目をあけ、小さく咳きこみ、辺りを見回す。繁った木の葉の間から見慣れた街の夜景が見えた。
手には、真紅の珠が埋め込まれた指輪がしっかりと握られていた。
これで「兌を抜けて」は終わりです。




