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戴邦物語  作者: 龍本 明
夐遠の友
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兌を抜けて  《Ⅸ》

 翔はいきなり脇にある手頃な瓦礫をむんずと掴むと、こちらを仰ぐ馬腹めがけて思い切り投げた。弧を描いたそれは、もちろん馬腹に当たることなくかわされて地面に当たって砕け散る。

「翔、なにをっ……!?」

翔の腕からはまだ血が出ているようだが、痛みを堪えるような表情もせずどんどん投げている。

「挑発だよ。さ、千ちゃんも投げて」

「なんでわざわざ挑発なんかするんだよ!?まだ見つかったわけじゃなかったのにどうして相手に気付かれるようなことなんか!?」

「いや、もう僕達は奴の獲物と認識されたよ。僕達が降りるまで奴はずっと待ち続ける。獲物が自分にとって捕え易くなるまで執念深く待つんだ。馬腹はそういう習性なんだよ」

「そんな……」


 確かに、下にいる馬腹は、すでに今まで貪っていた獲物などなかったかのように無視し、ただこちらの方を見つめて、不気味な笑みを浮かべている。

「そうなったら僕らが不利だ。奴を挑発してここまで登らせて、そこで返り討ちにする」

千里は石を投げる翔の腕を掴んだ。細い腕は弱く脈打っている。

「龍だかなんだか知らないけれど、こんな怪我をしていてどうやってあんな化け物と戦うんだ!ここにいれば少なくとも襲われないなら、もう少し落ちついて作戦を考えるべきだよ!」

翔は、また困ったように頭を掻いて千里の顔をじっと見た。

「千ちゃん……、実は君が帰れるのは日が昇っているうちなんだ」

「……!?」

 昔からそうだ。翔は大切なことを後で言うことが多かった。昔、千里が学校を欠席している時に宿題が出ていたのだが、翔はそれを締め切り当日に思い出したように言う。おかげで、千里が知っていたものだと思っている先生に怒られるということがしばしばあった。あのときから言っていたのに全然治っていないみたいだ。

「それを逃せば半月後になる。僕は奴の領域にわざわざ飛び込んで逃げ切るほどの力はもちあわせてないよ。千ちゃんがこちらに来てしまったのは僕のせいだから、責任をとってなんとか千ちゃんを元の世界に帰さなきゃならない。のんびり奴がどっかへ行くのを待っている暇はないんだ」

千里は酷く狼狽える。半月もこんな恐ろしい場所にいられるわけがない。今日だけで何回死にそうになったか、片手が埋まりそうだ。

 狼狽える千里の一方で翔は楽しそうに瓦礫を投げている。それをうまいこと避ける馬腹はだんだんと笑い声が薄れてきた。笑んだように見える顔の皺は段々と眉間とおでこに寄り始めている。

「それにね、奴は怒りっぽいんだ。一発当てればたちまち――」

「……さ、作戦はあるの?」

わたわた震える声で千里は問うた。酷く自分が矮小に感じたが、何とかそれを考えないようにした。翔は脇を指さす。

「あっちのほうに箭楼(こや)があるでしょ。その手前に大きな溝があるんだ」

確かに、崩れた壁の隙間から城墻の途中に大きな崩れた部分があるのが見える。その溝には、誰が架けたか細い木板が架けられていた。

「あそこまで走って溝を飛び越えて、僕がうまいことあの溝に奴を落とすよ」

なるほど、だから鬼ごっこか。しかし、その溝までここからだいたい200mほどある。追いつかれたらどうするのだろうか。

「魔法でも使うのか……?」

“龍”なのだから、何かしら特殊能力でもあるのだろう。だが翔は笑って、

「龍っていってもそんなだいそれたものは使えないよ。さ、投げて」

と、一瞥を返す。不安を感じながらも仕方がないので、恐る恐る剣の破片のようなものを掴んで思い切り投げた。もちろん当たるわけないのだが、なんだか二人でいたずらをしているような気持ちになった。

さすがの馬腹も二方向から来る攻撃にだんだんやきもきしてきたのか、明らかに表情が変わってくる。

二人は片っ端から手当たり次第にものを投げつけた。翔は楽しそうだ。千里もなんだか可笑しくなって、口元が緩む。


 そしてついに、千里の投げた錆びた銅片が馬腹の骨張った頭に直撃した。

「やった」

当ててないのに翔がガッツポーズをきめる。そしていつの間にか自分も拳を高くあげて喜んでいた。

しかし、眼下ではあの化け物が子供が怒り狂って叫ぶような雄叫びをあげてこちらを怨恨の目で睨んでいる。顔はみるみる紅潮し、ぼさぼさの毛は思い切り逆立っている。

突然、それを腰を引いて覗く千里の腕を翔は思い切りひいた。

「馬腹がくるよ!!」

途端、馬腹は身を起こすと甲高い奇声をあげながら城壁の角にある小さな階段に向かって飛ぶように駆けて行く。それを後目に千里と翔は箭楼から出て思い切り駆け出した。


 城墻(じょうしょう)の上からはすでに遠くの山の稜線に触れそうな位置に日が降り始めているのが見えた。城下に広がる鬱蒼とした森には三つ、切り立った山が聳え、紅緑の木々の梢に細長い影を落としている。その森を小さな川が二本横断し、山の麓の田畑に注いでいた。走りながら千里はそれを見て思う。

――綺麗、と。

絶妙な配置でここから森の全体が隈なく見渡せ、微妙に濃さの違う葉の緑が濃淡によって別の風景を地上に描き出しているかのように千里には見えた。千里は反対の方を見た。燃えたと言っても、城の中はまだ建物なら多少残っている。豪華な装飾が施された屋根、色とりどりの邸宅、雑草が伸びきった庭園。この辺りはまだ朽ちたといっても比較的綺麗に残っているようだ。

 自分のいた世界とは異なる世界、異なる風景、異なる風俗。人はそういうものに触れたとき強く心を揺り動かされる。それは何故?憧れだろうか、それとも見たこともないものに対する好奇心か。前後左右下に注意を向けて全力で走る千里に、そんな哲学めいたことを考える余裕はなかったが、どこかで頭を過っていた。

そして、目の前を走るこの小さな少年にどこか憧れを感じている自分がいるような気がした。


「もっと早く!!」

翔が手招きながら叫ぶ。予想外に馬腹の走行は速く、すでに先ほどまで二人がいた箭楼(せんろう)に辿り着いていた。さすが四本足で走る獣、崩れかけた足場など意に介さぬような足運びである。

二人は後ろ振り向く暇もなく必死で走り、なんとか溝のある場所まで到着した。溝の幅はだいたい5m、溝の底はそのまま山の側面に切りたつ急な崖となっているため、落ちれば一溜まりもない。木板を渡ると、翔はすぐに足蹴で板を外し、簡単には渡れないようにした。

「千ちゃんはそこで伏せてて!!」


馬腹はあっという間に溝の対岸に至った。紅潮した顔の皺をくしゃくしゃ動かしながら、対岸でどうしてやろうかという風に左右に行ったり来たりしている。

どんな作戦があるのかと息を切らして見守っていると、どうも翔の様子がおかしい。慌てたように装束をぱたぱたと叩き、大きく余った袖を一生懸命探っている。

「千ちゃんまずい!!」

「ど、どうしたんだよ!?」

翔は両手で頭を掻きながら慌てふためいて、

皐珠(こうしゅ)がない!!」

「こうしゅ……?」

「指輪だよ!!どこかに落としたんだ……どうしよう。あれがないと、また怒られちゃうよ。どうしよう」

あっけらかんとしていた翔の顔がみるみる青ざめていった。

指輪と聞いて千里はとっさにズボンのポケットを押さえた。まだ異物感が残っている。

「翔!!指輪ってもしかして――」

とっさにポケットから指輪を出して翔に示そうとしたとき――翔が千里のほうを振り向いたとき、馬腹は見計らったように前屈の姿勢から体躯を曲げ、瞬時に跳躍をしてあの幅広い溝を飛び越えた。


――危ない!!


 千里が叫ぶ間もなく馬腹は翔の背中に飛びかかり、鋭い爪を立てた。

「翔!!!」

だが翔は、僅かな苦痛の色を見せただけで、千里に向かって叫ぶ。

「千ちゃん!!逃げろ!!」

そして、けたけたと笑うこの異形の化け物が血で黒ずんだ牙を出し翔の頸に噛みつこうとした。

――もう駄目だっ

千里は腰を抜かして立てず、思わず目を瞑った。もう終わりだ、こんな場所で死ぬなんて……。

だが、その刹那、馬腹の顔が歪み動きが止まった。そして次に何かが(しな)る音とともに、馬腹の顔を矢が貫通した。その隙をつき翔は思い切り馬腹の腹を蹴り上げる。子供の泣き叫ぶような声をあげながら、馬腹は体勢を崩して溝から転落していった。


翔はがくりと崩れ落ちた。千里は何が起こったのかよくわからずただ呆然自失し、ふらふらとへたり込む。すると、翔は震える腕で肩を掴み、城墻の下を指さした。

「……誰かが馬腹に矢を射ったみたいだ。おかげで助かった……みたい」

千里は女墻から恐る恐る壁下を覗いた。すると影の中に誰かが、一人馬に乗っている。

「さっきの……」


 あの広場で(むくろ)の山を悲しそうに見つめていた女性が、美しい毛並みの白馬に跨って朱色の長弓を脇に抱えながらこちらを窺っている。しかしなんと凛々しい出で立ちだろうか。そして、女性は馬の手綱を握りながら山の方を指差し叫んでいる。だが千里には何を言っているかわからない。

翔はふらふらと立ちあがって、千里の汚れたシャツの裾を軽く摘まんでひく。


「あの娘は逃げ道を教えてくれているみたいだよ……。ありがたく従おう」


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