兌を抜けて 《Ⅷ》
天辺にあった日はすでに西に傾きつつあり、その白光は朱の色を帯び始め丹青の背景を空に描いていた。黄昏とは言わないまでも、地上の影は伸び、濃さを増し始めている。
千里と翔の二人は、敵の矢を掻い潜りなんとか二層構造になっている城の上層まで抜け、破損した武器や破れた旗幟が散乱する城墻の上をひた走っていた。城墻はところどころ女墻が崩れ足場が悪く、少し油断すれば五階建てのビルのような高さから真っ逆さまに落ちる危険があるようなところである。
足場に注意を払いながら二人は見つからないよう半分だけ焦げて瓦解した小さな箭楼の中に逃げ込み、ぺたりと座り込んで何度も大きく呼吸をした。城墻の下からは呼応し合っているさっきの兵士の声が聞こえるが、翔は見つかるわけはないというような涼しい表情をしている。まるで、鬼ごっこで鬼から逃げ切った子供のような達成感に満ちた顔だ。
千里は息をなんとか整え、さっきの話の続きをしようと口を開けた。だが、翔がわずかに早く口を開く。
「千ちゃんが最初に見た白骨は、逃げる途中に殺された官吏や貴族達のものだよ」
さらりと言う翔は、疲労の色など見せずあっけらかんとしていた。
「……翔、いい加減何が起こっているのか説明してくれないか。これは夢なのか?」
翔は壁に空いた大きな穴から外を窺っている。千里は汗が滝の如く肌を濡らしているのに対し翔はというとあれだけ走ったのに汗はひとつもかいてはいない。
「残念だけどこれは夢なんかじゃない、全部現実だよ。戴邦は今戦乱の真っただ中で、こんなことはいろんなところで起こっているんだ。さすがに城邑の人間を城ごと焼くなんてのは稀だけどね」
千里は首をもたげた。
「へぇ……、でも馬にのって弓を使って殺し合いをやってる場所が世界のどこにあるっていうんだ。聞いたことがないよ」
翔は背中で小さく溜息をつく。
「……かつてはここも戦乱を嫌って仙界に憧れ、現実から逃れたものたちの楽園になるはずだったんだ。でも――」
ふと、座り込む千里からは、太陽の眩しい日光が穴の前にたつ翔の輪郭を形作って光っているように見えた。その眩しい背中には寂しさがかすれて見えるような気がする。
「でも……?」
「いや、いいんだ。こんな話を千ちゃんにしてもしょうがないから」
「……」
翔が少し笑った、いや光の輪郭がそう見えさせたのかもしれない。その笑顔は昔の翔そのままだった、変わらず、翔だけの時間が止まっているような――。あれだけ親しかったのに、とても遠い――いや、大きな隔たりを感じざるを負えない。
「……翔、お前は何者なんだ。消えちゃった間に何になっちゃったんだよ!?」
翔はゆっくり振り向き、頭を掻きながら言った。
「僕は天命を受けたんだ」
「てんめい?」
反応はそっけない。
「雛龍になれってね。いわば龍の雛だよ」
「龍……?龍って、ドラゴン?」
千里は、さすがにそんな解答がくるとは思ってもみなかった。
「定義はあちらと異なる。要は高位の獣、神獣さ。人の形を為しているけどね」
さっきから翔の言っていることは突飛なものばかりである。混乱した頭でゆっくりとこの尋常じゃない大きさの疑問をゆっくり噛み砕いて受け入れてゆくが、千里の頭の許容範囲はとうに超えていた。困ったように頭を掻きたいのはむしろこちらだ。だが、この状況を愉しんでいる自分がどこかにいるのであった。それが少し不思議で、気持ちが昂る。
その時、壁の下で声が絶叫にも似た悲鳴があがり、次に馬の嘶く声があがった。悲痛に怯え助けを求める声であることはすぐにわかった。翔はすぐに穴から下を覗く。千里もすぐに横穴から下を見て、息を呑んだ。
なんと人面の頭をもち、虎の身体をもつ獣がどこからかやってきて、子供のような無邪気な笑い声をあげながら、さっきの兵士を貪り食っているではないか。脇には腹を抉られ、肋骨が剥き出しになった馬が虫の息で横たわっている。もう一人いた若い騎兵はそれを見るや否や、金切り声をあげてどこかへ逃げて行った。
「馬腹か」
翔は冷静に言う。
「どうしてこの辺りに人が住んでいないのかわかった。たぶんあれのせいだよ」
千里はあまりのことに声が打ち震えてうまく出せない。
「あ、あ、あれは……何」
この子供の度胸は一体どれほどのものなのだろうか、恐怖にひきつる千里に対し全く怯える様子なく静かに答える。
「馬腹という人食いの獣だ。数年前の戦争中に徼恍がこの辺りに落ちて、その影響を受けた人間のなれの果てだよ。今もこの辺りに巣食って、人間を食らっているみたいだね」
「こ、ここはあんな化け物がいるのか!?どうして顔が人間なんだよ!?」
翔は少し渋ったあと小さな首を横に振った。
「よほど強い憧憬を抱かされたんだろう。人体の一部が残っているということはそういうことさ」
「……?」
なんのことやら全く解することができそうにない。ただ、一つの疑問が過った。それは――、
「あれは……人間なの?」
千里の問いに翔は一瞬なにやら寂しそうな表情を見せた。広い口元がきゅっと締まる。
「……そう、あれはただの人間だった。崇高な理想に溺れた結果、畜生に堕ちたんだ」
「そ、そんな……」
この世界は異常だと声高く叫びたくなった。なんの冗談かと翔を見るが、その顔は真面目そのものである。何の曇りもない澄んだ目は全く泳いではなく、ただ人間を貪る哀れな畜生に向けられていた。ケラケラと無邪気に笑う声の主は、辺りを見回しながら肉塊に顔を突っ込み内臓を喰らっている。
千里は堪え切れず、その場で吐いた。人が人を喰うなんて、それが目の前で起きている。燃やされた屍体、白骨、食われる人――ここは地獄だろうか。
「千ちゃん、まずい……!」
翔がいきなり身を伏せた。馬腹がこちらを見ているようだ。能面のような顔には伸びっぱなしの髭が生えそろい、筆先のような先端から血を滴らせている。
「見つかったかもしれない」
千里はおそるおそる、見つからないよう握り拳のような大きさの穴から下を覗いた。
見た瞬間、背筋に悪寒が走る、見なきゃよかったと後悔した。
馬腹と言われるその異形の動物は、皺を顔全体に作って満面の笑みでこちらのほうを見ながら、幼い子供の笑い声をあげていた。
――ケラケラ、キャッキャ。
「今の僕には手に負えないかもしれない」
だが弱音を吐きながらも、なぜか微笑を浮かべている。これは何かいたずらを考えている時の顔だ。
「千ちゃん、鬼ごっこの続きをしよう。まだ決着ついてなかったよね」
女墻:城墻に取り付けられた凹凸の窪み。間から攻撃する。
箭楼:城壁の上に建てられた建物。武具や弓矢を備蓄する。




