兌を抜けて 《Ⅶ》
「じゃぁ千ちゃんはこっちね、僕はこっちのほうに逃げるから」
これがあの日、翔と最期に交わした会話だった。古民家の路地裏でみんなと鬼ごっこをしていたとき、あのT字路で二人は別々の方向へ逃げることにした。手を振り一目散に走ってゆく二人。そして、翔はそのまま行方不明となり、あの溌剌とした笑顔を見ることはもう叶わないと思っていた。
千里の腰ぐらいの高さの位置にある手を握って、崩れかけた家屋の間をまるで道順を知っているかのように止まることなく抜ける少年は、ただひたすらにぐいぐいと千里の腕を引っ張る。しかし、片方の腕からは鮮血がぽたぽたと滴り、来た路に点々と道標を落としていた。山吹色の衣をはためかせ、簪に施された小鈴が軽快な瓊音を鳴らし少年はこちらを振り向かずに走りながら言う。
「あちらの人間だな。どうしてこちらにきた!?」
そのそっけないような声色もかつての全く翔と同じであった。堪え切れなくなった千里は思わず名を呼ぶ。
「翔、なぁお前翔だよな!?」
その瞬間、少年はピタリと止まってこちらを振り仰いだ。幼げな表情はどこか愛らしく、眼は澄み、透き通るような白い肌をしている。見目形は翔と同じなのだが、不思議と畏怖のような感情が千里の興奮した心にそっと影を落とす。少年はじっと千里の顔を見上げ、やがていつもと同じようなそっけない表情で言う。
「千ちゃん……?」
「そうだよ!どうしたんだよ、その格好!あのときから全然変わってないじゃないか、どうして……」
どうやらこの少年は翔に間違いなさそうである。翔は目を落とし軽く俯くと髪をもしゃもしゃと掻いた。
「もしかして、あの穴を通ってきたのか」
「うん、そしたらこんな場所に出ちゃって。翔、一体ここはどこなの?あの骨は?この焼け焦げた城は?」
わけのわからないことだらけの千里は捲し立てるかのようにいくつかの質問を翔にぶつけた。翔は困ったなという顔で、目を泳がせる。この行動は困ったときにする昔からの翔の癖であった。
「ここは千ちゃんの来るような世界じゃないんだ。僕の手違いで千ちゃんがこちらに来てしまったようだね。すぐに元の世界へ帰れるようあの穴の場所まで送るよ」
全く問いに対しての解になっていない翔の言葉に千里はやきもきし、握った手をぎゅっと握りしめた。翔の掌は温かく、脚の痛みも繋いでいる間はなんだか和らいでいるような気がする。
「何があったのか教えてくれたっていいじゃないか、心配したんだよ!?翔が行方不明になってから、翔のお母さんと一緒に色んな場所探して……」
お母さんという言葉を聞いて翔はさらに目を泳がせて、俯いてしまった。
まだ屋根の残る堂の中で、割れた屋根木の隙間から日の光が差し込んで翔の身体を半分照らしている。馬の蹄の音は遠くでけたたましく響いていた。
「せっかく久しぶりに会えたのに……、何があったかぐらい――」
「……ここは戴邦という寰宇、日本とは違う世界なんだ」
翔は小さく溜息をつき、またそっけない表情で言った。その口ぶりは子供のそれではなく、千里よりも幾つか年を経ているかのような語り口である。
「……たいほう?」
聞いたことがない名だ、どこかの国の名だろうか。
「そしてここが、戴四邦のうち東にある璃邦、その中の彰という国が治めていた建恭という地だよ」
「ま、まって。戴邦ってなに?ここは中国なの?」
翔はまた頭をもしゃもしゃと掻いて、困ったような面持ちで言う。
「どこから言えばいいのかな……。掻い摘んで言うと、ここは仙人の世界さ。かつては蓬莱と呼ばれ今は戴邦と呼ばれている。千ちゃんのいる世界とは一線を画した場所にあるんだ」
「……仙人?じゃ、じゃあどうして翔がここにいるんだよ。こんなところにいる必要はないって、早く一緒に帰ろう」
「どこに?」
「どこって……一緒に住んでた街にさ」
「……」
「帰れない」
「どうして!?」
「僕にはやらなければならないことがたくさんある。使命があるんだ」
「使命って……」
その決意に満ちた喋りは、傍から見て、千里のほうが子供のように映ってしまうほどであった。
「怪我もしているじゃないか、早く手当てをしなきゃ」
「大丈夫……こんなくらいで死にはしないよ。それより……」
翔は手を握り返して、辛そうに千里の目を見つめて言った。
「千ちゃんの街、いやそれだけじゃないいろんな場所で、もしかしたら大変なことが起こるかもしれない。僕があちらへ行ってなんとかやめさせようとしたんだけど、返り討ちに遭っちゃって……」
「……一体誰に?」
翔は寂しそうに目を瞑り、血の染み込んだ衣で汗をぬぐった。
その刹那、翔は何かを察知したかのように瞬時に後ろを振り向くと、千里の腰を掴んでその場に引き倒す。千里は尻からどうと倒れこんだ。
「伏せるんだ!」
途端、千里が立っていた空間に一閃の矢が空を切る音を放ちながら通り抜け、堂の柱に深く突き刺さった。
「まずい、見つかった!」
蹄はまだ遠くで音がする。どうやら敵は馬を降りてこちらまで来たようだ。相手は堂の向こうの崩れかかった楼閣からこちらを狙って射ったらしい。
「姿勢を低くして、あの扉から外へ出るんだ」
小さな指がさす先には、戸板が外れた小さな戸口があった。
「あいつらは一体何なんだよ!?」
恐怖で声が翻る。翔はまた頭を掻いてそっけなく言った。
「……彰国の兵士だよ」




