妻の矜持編-5
「毎日暇ね……」
フローラは病室のベッドの上で呟いた。身体は驚異的な回復力を見せ、すっかり元気になっていたが、医者からは念のために予定日まで入院しろと言われ、退屈な日々を過ごしていた。
ベッドの上でゴシップ誌を読み漁る事が多く、今日もそれを捲っていた。昨日、フィリスやアンジェラが見舞いに来てくれて、ゴシップ誌や冒険小説などを差し入れしてくれたので、完全に暇というわけではないが。
ゴシップ誌にはパティの事件もまだまだ熱いようで、巻頭にはフローラの事を毒妻探偵だと面白おかしく書いてあるものも多く、ため息しか出ない。
「ブリジッドの再起は難しいでしょうね」
女優ブリジッドの記事もあった。娘のアリスが脅迫し、結果的に殺事件の引き金を引いた事は大きなスキャンダルだった。決まっていた仕事もキャンセル賀相次いでいるという。その劇の代役はケイシーがする事にもなり、嬉しい悲鳴をあげていると聞いた。劇場の主のクララからもケイシーが主演する劇のチケットが届いた。チケットは二枚分。夫婦で来て欲しいらしい。
ちょうどゴシップ誌を読み終え、冒険小説でも読もうと手に取った時だった。夫が見舞いにやってきた。
あの事件以来、はじめて夫と会う。原稿が忙しいと、見舞いどころではないとネイトから聞いていたのだが。
「げ、元気かよ?」
夫はバツが悪そうだった。頭をボリボリとかき、目も泳いでいた。なぜか左手の薬指に指輪があり、フローラは息を飲む。
「げ、元気よ。座ったら?」
「う、おお」
一方フローラはいつものように落ち着いたものだった。ベッドの上で上半身だけ起き上がり、夫と向き合った。
「これはお土産。蒸しケーキだよ。フィリスとシスター・マリーから作り方教えてもらった」
「へえ、あなたが作ったの?」
夫はバスケットの中から蒸しケーキを取り出して見せた。チョコレート味の蒸しケーキで、表面はつるりと丸く、ふんわりと甘い匂いもした。
「食べろよ」
「何でそんなに命令口調?」
フローラは苦笑しつつも、蒸しケーキを食べた。自分でも何度も作っている蒸しケーキだったが、なぜか美味しい。とても甘い。健康的な病院食に飽きてしまったからだろう。それに夫が作ってくれたものを食べるのは、初めてだった。
パティはルーナから言葉巧みに騙されて死のクッキーを食べたが、気持ちはわかってしまう。好きだったり、憧れている人が目の前でくれる物が、毒入り等と思いたくない。無邪気に信じたい。
「ところで、あのルーナを捕まえた日。何で、あなたついて来たの? 別れる妻なんてどうなっても良いんじゃない?」
「いや、それはな……」
夫はさらにバツが悪そうに頭をかいていた。フローラに別れを告げた直後、突然後悔の念が遅い、嫌な予感もしてフローラの後をつけたという。偶然、内偵中だった白警団のコンラッドを見つけ、一緒に追ったと話す。
「そう……」
そんな話を聞いても苦笑するしかない。おそらくオモチャを取り上げられた子供のような気持ちになり、フローラに未練を持っただけ。別に好きとか愛情があったとは思えず、素直に笑えない。
それに事件の調査中は、夫の事もすっかり忘れていた。自分でも想像以上に熱中してしまい、結果、胃に穴を開けるハメにもなった。
「あなた、どうしたの?」
しかし、夫は黙りこくってしまった。下を向き、その表情もよく見えない。
「いや、もう事件調査なんて辞めろよ」
「えー?」
まさか止められるとは。フローラは目を見開いてしまう。
「っていうか危険な事は辞めろっていう意味だから! 愛人ノートを盗まれた時点で、俺に言えよ! 頼れよ!」
なぜか夫は顔を真っ赤にして怒っていた。歯を剥き出しにし、ほうれい線も浮いている。そこにはクールで美しい薔薇公爵と言われた存在はなかった。ただの一人の男だった。
「え、ええ……」
思わずフローラは頷く。
「俺たち夫婦だろ。夫に頼るのは妻の役目じゃん。忘れるな!」
「そ、そうね……」
事件に夢中になり、夫についてすっかり忘れていた事は、良くなかったかもしれない。
「そうね。私はあなたの妻よね。妻なんだよね……」
そう言うフローラは、上手く笑えず、崩れた笑顔になってしまった。泣いているようにも見える笑顔だ。
「そうだ、忘れるな。それに一人でも出来ない事も二人だったら、出来るかもしれないじゃないか。結婚式の時に約束しただろ?」
「え? そんな約束した?」
したような気もするが、そんな甘い事は夢だったような?
「したって。忘れるなよー」
夫は呆れていたが、なぜか笑ってしまう。今度は上手く笑えたような気がした。
「ええ。今度はあなたにも相談する」
「おお、そうしろ」
夫も釣られたようの笑う。無機質な病室なのに、空気は温かくなってきた。
そして夫はフローラの左手をとり、結婚指輪をはめた。いや、はめ直したというべきか。
「病める時も、健やかなる時も永遠に愛する事を誓いますか?」
そう誓いの言葉を語る夫の目がすぐ前にある。相変わらず綺麗な青空のような目だったが。
「誓います」
フローラは夫の手を取り、宣言した。その左手の薬指には、約束の証が光っていた。




