妻の矜持編-2
「は?」
ホテルで泣いている夫を見ていたら、冷たい声しか出なかった。
床に原稿用紙が散らばっていた。一枚拾い上げて読んでみるが、どうやら再びミステリーを書いているしい。筆は進まないようで、原稿容姿は黒い墨の跡や落書きの跡も見えた。
フローラの予想通りだった。夫は事情を呟いていたが、恋愛小説はなんとか仕上げ、編集者のネイトに渡した所らしい。一方、ミステリーについては何も書けず、原稿用紙を消したり、落書きしたりの繰り返しだった模様。
一言で表現するなら、スランプに入ってしまったのだろう。夫の髪の毛はぐしゃぐしゃ。ハチミツのように輝いていた髪も油っぽくなっていた。髭も生え、目は窪み、舞台メイクでもしたかのように真っ黒だ。食も進んでいないのか、首も筋ができている。二、三キロ痩せたようだ。
「そ、そう……」
こんな現状の夫を見ながら、フローラの口元はヒクヒクしていた。もはや笑っていいのか、泣いていいのかも不明。
メソメソと仕事が出来ないと泣く夫を見ながら、引いていた。何も言えない。もし何か言ったら罵倒しか出てこないはずだ。
アリスにこの情け無い姿を見せてやりたい。アリスだけでなく、ドロテーア、エリュシュカ、クロエなどの元愛人にも。
それでも一応は目的も果たさなければ。事件やアリスの事も話し、協力してくれるよう頼んだ。
「嫌だ」
「え?」
「そんな事件どころじゃないよ。っていうか、もう恋愛小説も書き上がったし、パティの事は忘れたっていうか。どうでもいいっていうか」
「は?」
仮にも愛人だった女の死について、どうでもいいと言い放った。フローラは我が耳を疑うが、聞き間違いではなさそう。
足元で原稿用紙がカサっと音をたてた。やはりラスボスは小説。今まで夫の愛人に執着していたものだが、たとえ女達がいなくなっても解決しない問題なのか?
そう思うと泣きたくもなるが、フローラは奥歯をグッと噛み締め、どうにか正気を保つ。なぜかここで泣くわけにはいかないと思う。
「あなた、いい加減にしてください。人が殺されているのよ。協力して」
「いいや、俺は事件どころじゃない。作品を書かなきゃ、書かないとダメだ!」
夫は頭をかくと、原稿を書くための机に齧り付く。そうは言ってもアイディアも思いつかないらしく、書けない、困ったとメソメソ泣き始めた。
そんな夫を見下ろしていると、すっかりフローラの頭も冷えてしまった。この男となぜ結婚したのか。数々の裏切りも受けつつ、なぜ一緒に居続けるのか信念も揺らぐ。
チラリと左手の薬指にある指輪を見てみた。毎晩高級ハンドクリームを使いケアしているので、指先はツルツルだが、急にこの指輪にも違和感も持ってしまう。分からない。この指輪がある意味もグラグラと不安定になってくる。
「でも、あなた。もう一回重版かかれば『愛人探偵』はシリーズ化できるでしょ。それまでは我慢して頑張って書いてみない?」
もはや子供をあやす口調で言ってみた。夫の背中もさすり、限りなく優しい声も出してみたが、逆に夫は不機嫌になってしまう。
「そんな重版とか無理だし」
「アーロンという脚本家が舞台化しようっていう話もでてるんだから。あと少しじゃない。一回重版かかったんだから、もう少し」
「いや、やっぱり俺はダメだ……」
グズグズと後ろ向きになる夫に、だんだんと限界になってきた。この分だとアリスを説得させるのも難しそう。
死んだ夫の元愛人・マムは恋愛カウンセラーだった。男は繊細な生き物だから、ナイーブに扱いましょうとマムの恋愛テクニック本に書いていたが、今の夫は繊細すぎないか。
「あなた、本当にいい加減にして貰えない? とにかく、少しはまともになって下さいよ」
フローラはイライラしつつも、冷静に伝えたいつもりだったが。
「うん、わかった」
「は?」
夫は珍しく、素直に頷いていた。
「別れよう。どうせ我々は政略結婚で出会っただけだ。もう俺の両親も引退しているし、君の両親も亡くなった。我々に子供もいない」
「って、いや、どういう事?」
夫はフローラの戸惑いも無視し、左手をそっと掴んだ。
「うん、だから別れよう。俺はフローラを幸せにできる自信を失ったから」
「え、は?」
フローラが戸惑っているうちに、夫は左手の薬指の指輪を抜き取ってしまった。手品のように一瞬の出来事だった。
「思えば、フローラには苦労をかけた。今まで不貞をくり返して悪かった。俺が全部悪かったことは認める」
目的通り夫が頭を下げているのに、少しも嬉しくない。むしろ頭が真っ白になり、一言も何も声が出なかった。喉に石でも詰められているよう。
「フローラ、ありがとう。今まで本当に苦労をかけた。離婚した後は幸せになってくれ。俺もそう願ってるよ」
もう夫が何を言っているのか意味不明だった。確かに夫と離婚する為に愛人調査をしていた部分もあったが、これは何?
もう頭が真っ白になり、何も考えられない。声も出ない。気づくと、ホテルの外で突っ立っていた。
「え、どういう事?」
左手の薬指には、もう結婚指輪などない。何もない薬指を見ながら、何が起こっているのか悟ってしまう。
「ははは、もうどうにでもなればいいわ」
フローラは小さく呟くと、死んだ目をしながら、薄笑いをしていた。
「ははは……」
事件も犯人もどうでもいい。もう死ぬのすら怖く無くなってしまった。頭が真っ白になり、何も考えられなくなってしまった。




