極悪成金お嬢さま編-8
珍しく夫が公爵家に帰ってきた。あの後、夫はずっとパティとイチャイチャし、フローラ達は呆れたものだが、まさか公爵家に帰ってくるとは。
ちょうど夕食前だった。フィリスやアンジェラ達は忙しく、キッチンで仕事をしていた。自ずとダイニングルームで夫と二人きりになり、重たい空気が出来上がっていた。フローラは無表情に紅茶を啜り、ソファに腰掛けていただけだが、夫は、目もトロンとし、どこか遠くを見ていた。
いつもより服装もだらしない。上の白シャツは第三ボタンまで開き、鎖骨を見えていた。髪がボサボサな為、余計にだらしない。タバコの匂いもした。普段、喫煙はほとんどしない夫だったが、これはパティの悪影響を受けているのに違いない。
「ねえ、あなた。久しぶりに帰って来て何か言う事はない?」
フローラは背筋を伸ばし、目の前にいる夫に向き合ったが、彼は無視。相変わらず遠い目をしていた。
「何しに来たの? つまらない妻に何か?」
これは嫌味のつもりだったが、夫も何か罪悪感は持っていたらしい。今回の恋愛小説は純愛もの。虐げられたタイピストと出版社社長も純愛世界にとことんハマってしまい、作品のインスピレーションをくれるパティと離れられないと告白。パティと会うたびに作品のアイデアが浮かび、わずか一週間で新作も終盤まで出来上がっているという。
「そう」
フローラは眉一つ動かず、夫の告白を聞いていたが、腹の底は煮えくりかえっていた。最近はずっと胃が痛かったが、今は余計にキリキリしてくる。
マムに件で夫婦仲は修復できると思っていたが、そうでもなかったらしい。やはりラスボスは小説だ。夫の愛人などは枝葉みたいなものだったのだろう。
フィリスは愛人を調べ上げ、離婚に有利にすれば良いというが、問題は根が深い。芸の肥やしで不倫される女って何だ? 妻がその土壌にすら立てない事が虚しく、紅茶の味も感じない。一応貴族御用達のメーカーの紅茶を飲んでいるはずだが。
「俺はパティに真剣なのさ。もうあの女しかいない」
「つまり、どういう事?」
「パティと結婚しようと思う」
ついに恐れている事が起きてしまった。今までも夫の愛人は山のようにいたが、略奪成功者はいない。その点はフローラが油断している事だった。
奥歯をギリギリと噛み締めてしまう。まさか、あんな造花のような成金お嬢さまに略奪されるとは、気が遠くなる。例えば女王のような中身も外見も美しい女性だったら、フローラとて諦めるかもしれないが。
「あなた、女の趣味悪いわねぇ」
「何とでも言いたまえ。というか、それ特大ブーメランじゃんか」
「肉体関係も無いのに?」
「無いからこそ、我々の関係は純粋で、美しいものなのだ」
夫はもう自分の恋愛小説と現実の区別がついていないのか。トロンとした目で、痛々しいポエムを口にし始めた。
「ああ、パティ。野に咲く可憐で美しい花のような女。経済感覚も鋭く、何と慎ましやかで素晴らしい女」
「単なるドケチな成金お嬢さまですよ?」
突っ込みを入れる気力も失せてくる。フローラは眉間を押さえながら、目の前にいるお花畑の男を見下ろす。
「薄汚い中年不倫カップルでしょう。どこが純愛なものですか……」
公爵夫人としてはかなり悪い言葉を使っている自覚はあったが、もう何も言えない。呆れてものも言えない。今の夫にどう突っ込みを入れていいのやら。
「何を言ってるんだ。我々は真剣なんだ。俺はパティと一緒になる」
「もう、いい加減にして。公爵家の立場は? あなた、それでも貴族の一員よね?」
「もうずっとつまらない公爵なんて辞めたかったよ。不自由で全く息苦しい。籠の中みたいだ」
ずっと目がトロンとしていた夫だったが、ようやくここで目に光が戻ってきた。
「パティと一緒になったら、あの子の家の養子になろうと思う」
「ちょ、そこまで話が進んでいるの? 勘弁してくださいよ」
これはフローラの予想以上だ。泣きたいが、なぜか頭の中はすっと冷え切り、それも出来ない。
「決めたんだ。俺はパティと一緒になるから。今度パティの親父さんの誕生日パーティーもあるから、そこで発表しよかな、と」
「順番違くないですか?」
「いいや、もう決めたんだよ」
しかも夫はパティ家のパーティーの招待状も突きつけてきた。タバコ臭い招待状で、思わず鼻を摘んでしまう。
月日は一ヶ月後。場所はパティの家だったが、こんなに嬉しくもない招待状は見た事ない。
おそらく夫はフローラとスムーズに離婚できない事は知ってる。だから先にパティの仲を公にし、既成事実を作ってしまおうと画策しているのだろう。分かりやすい画策だったが、フローラはもう何を言っても無駄だと悟る。黙って夫のアホ面を見つめていた。
「う、そんなジッと見るな。俺はもう決めたんだよ。パティに本気なんだ!」
最後にそう言い残し、夫は出て行ってしまった。行き先はおそらく別邸だろう。そこにはパティもいる。
「あははは」
思わずバカ笑いしてしまう。もうこんな風にヤケクソに笑う事しか出来ない。
「お、奥さん!」
「奥さま!」
そこにフィリスやアンジェラも入ってきた。尋常じゃないフローラの様子に、使用人達もどうすれば良いか困惑。
「夫はパティに夢中みたい。本気なんですって。この公爵家の評判も確実に地に落ちたわね!」
「お、奥さん! 大丈夫です。また愛人調査して離婚に有利な情報収集しましょ!」
フィリスは空気が読めず、まだそんな事を言っていた。
「そうね。そうしたいところだけど、私、もう疲れたわ……」
そんなフィリスでも声を振るわせ、泣くのを堪えているフローラの空気を読んだ。もちろん、アンジェラも余計なことは言わない。
「奥さん、少し休んだら? 知り合いのクララさんの所でも行ったら?」
「そうね、アンジェラ。クララにだったら、会いたいかも」
クララは貴族界隈でも唯一フローラを心配してくれる伯爵夫人だった。
「そ、そうだね! 奥さん、休んだ方が良いですよー。パティの噂とかは私が調べておきます!」
「うん、フィリスの言う通りだ。奥さん、しばらく悪い事は忘れよう」
フィリスとアンジェラに励まされ、二人の素朴な笑顔に救われた。夫がパティに本気になり、目に前が真っ暗になったものだが、自分はまだ味方がいる。絶望感ばかりじゃない。
「そうね、みんなありがとう」
フローラは涙を堪えながら礼を言った。この涙は、夫が与えた傷のせいではない。メイド達が味方なのは救われていた。




