幸せな結婚編-1
翌朝、早く起き、フローラは公爵家のキッチンに立っていた。
朝食はパンを焼き、スープも作ってある。昨日、アンジェラが作った残り物にちょっと手を加えただけだが、いい匂いだ。
その後にまたクッキーを焼く事にした。もうエルから証言を引き出す事は不可能だと思うが、美味しいクッキーで買収できないものかと考えていた。
我ながら浅知恵だと思うが、もうそれぐらいしか手段もなかった。犯人と対面し、口を割らせる事も考えたが、マムも殺し、エルに怪我も負わせた人物だ。そう簡単に吐くとは思えない。
犯人の事を考えると憂鬱になりそうだったが、クッキーの生地を作り、型抜きする単純作業をしていると、少しは落ち着いてきた。まだ犯人を捕まえる為の決定的な証拠はなかったが、白警団よりは進んでいるだろう。
今だにエルが呪い殺したと思い込み、呪いの証明をするのに必死になっていたとすれば、こんな滑稽な事も無い。コンラッドはコネで出世したという最初の予測は、案外当たっていたのかもしれない。
そんな事を考えつつ、オーブンに入れたクッキーが焼き上がるのを待つ。
キッチンにあるミニテーブルの椅子に腰掛け、一休み。
オーブンからはふわりと甘い香りも漂い、フローラの表情も柔らかくなっていた。やはり甘いものは人の気持ちを溶かす力があるようだ。果たしてエルにそれが効き、犯人について証言するかは不明だったが。
「フローラ、この良い匂いはなんだ?」
てっきりフィリスかアンジェラが起きて来るかと思ったが、夫がキッチンへ入ってきた。
寝起きのようだ。パジャマ姿で、いつもは美しい髪の毛もボサボサで寝癖付きだった。お陰で夫の姿は、いつもよりも子供っぽい。この姿だけならとても貴族に見えない。まして不貞を繰り返す極悪夫にも見えない。砂場で無邪気に遊び子供に見えてきた。
「クッキーを焼いてるのよ」
「またか?」
ちょうどオーブンの中のクッキーが焼き上がり、フローラは取りに行った。鉄板の上には焼きたてのクッキー。材料もシンプルなもので、新鮮な卵を使い。見た目も綺麗なたまご型だ。焼きたてのクッキーの香りは、天国のよう。
「うまそう!」
「ちょっと、これから熱を取るんだから、つまみ食いしないでよ」
「あっつ、うま!」
テーブルも上のクッキークーラーで冷やす予定だったが、夫は勝手につまみ食いし、うまい、うまいとボリボリ咀嚼していた。
余計に夫の表情は子供っぽい。妻の料理を疑い、毒味しろと言った時の面影は全くない。マムの件のせいか? 今の夫は憑き物が取れたようだった。
「一体どういう風の吹き回し?」
「いや、さ。俺もちょっと自己中心すぎたかなーって。別に反省したわけでも無いけど」
夫はバツが悪そうにしていたが、クッキーをつまみ、再びボリボリ食べていた。
「うまい」
「そう」
夫が自分のクッキーを食べている。その横顔を見ながら、フローラも毒気が抜けるような思いがした。
夫のこれまでの不貞は許せない。それでもずっと責めるのは違う。
「ところで犯人はわかったか?」
「ええ」
「は!?」
フローラがあまりにも素っ気なくいう言うので、夫は目を丸くしていた。まさか、そんなとか呟いていた。全く信じられないようだった。
「まさか本当かよ」
「というか白警団が思ったより無能だった感じね」
フローラはコンラッドの嫌味っぽい目を思い出しながら笑ってしまう。今も呪いの研究をしている姿を想像したら、口元がゆるむ。
「誰だ? 教えろよ」
「はー?」
「誰だよ!」
フローラは犯人の名前は教えるつもりはないが、夫は気に食わないらしい。フローラを壁まで追い詰めて聞いてきた。
至近距離で見る夫は相変わらず顔が良い。髪がボサボサでも、パジャマ姿でも、顔の良さは変わらない。
夫の口元からクッキーの甘い香りもする。なぜかクッキーそのももより甘く感じてしまうのだが。フローラの心臓はドキドキと高鳴っていらが、その理由は全く分からない。
「教えません!」
「なんでだよ」
「まだ証拠もないのよ。証言もエルから引き出せそうにもない」
フローラはなんとか夫の尋問をすり抜け、テーブルの方に逃げた。鉄板の上にあるクッキーは、だいぶ熱が取れてきた。
「けちー!」
「だったらあなたも推理したら良いじゃない? 作品のネタになるかもよ?」
「そうだな!」
夫は何か作品のネタが思いついたようで、クッキーを数枚掴むと、急いで書斎の方へ行ってしまった。
「何なのよ、もう……」
一人残されたフローラの心臓はまだ高鳴っていた。




