サレ公爵夫人編-2
フィリス・ストレイスは、ぽっちゃりとした田舎娘だった。
下っ端のメイドではよくいるタイプ。そばかすが浮いた肌も好ましい。髪も赤毛で綺麗ではないので、夫の好みでもないだろう。夫は美女が好きだ。フローラもその対象ではあったが、今はそんな事は全く嬉しくない。
屋敷の一階にある食堂で、朝食を食べながら、フィリスから自己紹介を受けた。メイド頭のアンジェラもいる。
といっても同席はしない。フローラは座っているが、メイド二人は立ったまま、フローラと自己紹介をした。
「フィリスです。フィリス・ストレイスです」
フィリスは声も低めでハスキー。これは夫の好みから外れて本当に良かった。フローラはニヤりと笑いつつ、朝食のスープやパンを咀嚼し、過去を思い出す。
夫の初めての不倫相手は、メイドだった。当時、新婚三ヶ月目だった。まだ公爵家もメイドや使用人達で溢れ、一般の貴族と全く同じような雰囲気だった。
夫は公爵でもあったが、恋愛小説家としても活躍していた。別名・恋のカミサマとも呼ばれ、多くのファンもいた。夫は出版社も立ち上げていたし、元々作家になる事は夢だったそう。
それに夫は美男子だ。金髪碧眼、男だが花のような派手な雰囲気を持ち、一部では薔薇公爵なんていう二つ名までついていた。夫を慕う令嬢や夫人は多いだろう。名前はブラッドリー・アガター。
フローラとの結婚は家の意向だった。フローラは遠縁ではあるが王族の血筋の公爵令嬢。怖い顔立ちではあるが、美女で健康。公爵家の夫としては、これ上ない良縁と言われていた。結婚式も盛大に行われ、誰からも祝福されたはずだった。
「病める時も健やかなる時も永遠に愛する事を誓います」
教会で語った誓いは、フローラは昨日の事のように思い出す。神に誓ったのだから永遠に果たすべき約束だと考えていた。フローラは行儀見習いとして修道院で生活していた事もあり、普通の令嬢よりは信仰心があったのだろう。
実際、夫との新婚生活は夢のように幸せだった。ああ、この人だったら誓いの言葉も果たせそうと思った。女の扱いの上手で、甘い言葉もくれる。何でも察してくれたし、意思の疎通も滑らかだった。この時までは夫との生活も本当に幸福を感じていたのだ。
しかし、結婚式から三ヶ月後。
夫の不倫が発覚。よりによって公爵家のメイドだった。名前はローズ。その名前の通り、華やかな美人だった。隣国の貴族の娘だったが没落し、メイドをしていると聞いた。フローラはローズに同情心すら持っていたのに、よりによって寝室で二人は裸でいた。どう見ても不貞の現行現場だった。
フローラの頭は真っ白になった。ローズは泣いて謝っていたが、夫は全く悪びらない。むしろ開き直っていた。薔薇公爵と呼ばれる男の本性が顕になった瞬間だった。美しい薔薇にも棘がある事を理解した。
幸せな新婚生活を送るうちに恋愛小説が全く書けなくなった。不倫でもすれば傑作が描けると思い、ローズとそういう関係になったと語る。
「ごめんね? でも俺は悪くないと思ってるね?」
ふざけた謝罪もされた。ローズの方が一瞬可哀想になるぐらいだったが、この日からフローラの心は死んだ。殺された。不倫は心の殺人だった。
夫は作品のネタに詰まる度に不倫を始めた。全く悪びれず、当然の権利のように。
その度にフローラは病み、泣き叫び、メンヘラ化した。
おかげで公爵家のメイド達はアンジェラを除いて全く定着しない。下働き界隈でも「アガター家はヤバい」という噂が流れ、結局家の雑用をフローラがするまで追い込まれていた。
もちろん、フローラにとってはそんな事は些細な事。むしろ夫の愛人調査に熱をあげ、アンジェラには完全に見下されるようになった。フローラの事をよく知っているアンジェラは、彼女の事を「メンヘラ地雷女」と評した。この不名誉な二つ名は今のところアンジェラしか使っていないが。
「ええ、フィリス。よろしくね」
そんな過去を思い出しながらも、フローラはフィリスに挨拶をした。仮面のような嘘くさい笑顔だけは、どうにか作っておいた。本当は笑いたくなんてないが、仕方ない。
「あなた幾つなの?
「二十歳です」
「そう、まだ若いわね」
「田舎者なので、至らない部分も多いと思いますが、よろしくお願いします。都のこんな大きな家で働けるなんて幸せ」
「ありがとう」
しばらくフローラとフィリスは和やかに談笑。フィリスの緊張感もとけ、アンジェラと三人で冗談を言えるほどだった。
「庭も本当に素敵ですね。特に薔薇も綺麗」
フィリスは田舎者らしく、目をキラキラさせながら窓の外の薔薇を見ていた。
「薔薇? ええ、薔薇ね。ローズね……」
フィリスの笑顔とは対照的にフローラの表情は凍りついていた。
アンジェラはフィリスのエプロンを掴み、口を閉じろとジェスチャーを送った。もっとも田舎でのびのびと育ったフィリスは、一体アンジェラが何を伝えたいか察し損ねていた。
「ところで公爵さまってどこに行ったんですか? 一度お会いしたいのです」
「あなたもローズみたいに私の夫を盗むの?」
「は?」
アンジェラは慌てていた。アンジェラはお茶をフローラに振る舞い、菓子でも食べようかと早口で提案していたが、スルー。
「あなたもローズのような泥棒猫メイドなの?」
「ローズって誰ですか? 可愛い名前。きっと美人さんなんでしょう」
このフィリスの言葉は地雷になった。どっかんと地雷は爆破。フローラは泣き叫び、テーブルの皿や花瓶をひっくり返し、大暴れ。
「な、奥様! どうしたんです!? まるでメンヘラ地雷女みたいじゃないですか?」
「そのメンヘラ地雷女なんだよ! さ、フィリス。この状況だと手はつけられない。キッチンの方へ逃げるぞ!」
フィリスはアンジェラに手を取られ、キッチンに避難した。
食堂から離れたキッチンでも皿が割れる音や、フローラの泣き叫び声が響く。まるで嵐のようだ。正直怖い。フィリスはカタカタ震え、耳を塞いでいた。
「アンジェラ、これは一体何なの?」
「最初に言わなかった私が悪い。すまん」
「あんな美人の奥さんがどうして? なんでメンヘラなんですか」
フィリス涙目で訴えていた。
「話すと長い。一つ言える事は、不倫は心の殺人という事だよ」
「心の殺人……」
意味がわからない。公爵がローズとやらと不倫してたってこと?
だとしたらそれは地雷発言だったか。ようやくフィリスは事の重大さを理解した。
「どうしよう……」
確かにメイドの数も極端に少ない。執事もいない。都も貴族の家なんて知らないフィリスはそういうものだと思っていたが、妙な所は数えきれなかった。
「どうしよう……」
とんでもない家に働きに来てしまった。後悔しかなかった。