サレ公爵夫人編-1
公爵夫人フローラ・アガターの朝は早い。まだ薄暗いうちに目が覚める。
豪奢な公爵家だ。都で王宮にも近い。木々も豊かでハーブ類も植えら、庭も決して狭くはない。
メイド達の使用人が暮らす館もあり、部屋数も多い。もっとも今はフローラは一人で暮らしているようなもので、ほとんど持て余していた。寝室もフローラ一人で寝起きする。
「おはよう、あなた」
誰もいない寝室で呟くが、当然夫の返事はない。広い寝室にフローラの声が響くだけ。ベッドや鏡台、絵画、机、カーベット、カーテンも一流のもので揃えているのに、どこか空白が目立つ。本来なら夫婦二人で使う場所だからかもしれない。
もう夫はずっと帰ってこない。何人もの女と不倫中だった。
貴族社会では公然の秘密と化していた夫の不貞だったが、パーティーなどでは仲の良いフリをし、体裁を保つ。それがフローラのメンタルをより一層悪くしていたが、今のところ何の改善もない。不倫は心の殺人というが、本当かもしれない。その証拠にフローラは、心の底から笑う事はやめてしまった。もちろん公爵夫人としての作り笑いはウンザリするぐらいやっていたが。
「最後に笑ったのっていつだっけ?」
寝室を出ると、洗面室の鏡と向かい合い、顔や鏡を整える。
本来ならメイドに髪や化粧をやって貰うが、今はわけあって公爵家の人員は慢性的な人手不足。貴族の常識的には考えられない事だが、身支度、掃除、庭仕事、調理などもフローラがする事になった。
元々見た目はキツい美人。悪役女優風だ。黒髪に深い藍色の目をもったフローラは、誤解を受けることも多く、毒妻とか悪女だとか、不名誉な二つ名がついていた。
鏡の中にいる無表情のフローラは、その言葉とピッタリ。
年齢も二十七歳だが、その歳よりだいぶ大人っぽく見える。それに腐っても公爵夫人だ。身のこなしもスマートで、上品だった。見た目だけは美しい公爵夫人かもしれない。実情は全くそんな事はないが。
次にフローラは衣装部屋へ行き、普段着のドレスに着替えた。レースや飾りも最低限に抑えたドレスだった。公爵家の雑用もしなければならないフローラは、地味なドレスの方が色々都合がいい。
そこにエプロンをつけ、庭に向かった。庭にはハーブ園があり、ミントやローズマリーなどの香りが漂う。
「よし、今日も元気にハーブが育ってるわ」
もう陽も登ってきた。ハーブに水をやると、より生き生きしているようにも見える。
こんなハーブの世話もフローラの仕事だった。普通の公爵夫人では決してしない事だ。フローラの二つ名と相まり、毒草を育てている噂もあったが。ミントは繁殖し過ぎて手に余る時も多い。
「繁殖か……」
増え過ぎたミントの葉を間引きしながら、フローラは思う。スッとした爽やかな匂いは何の慰めにもならず、なぜか夫の不倫と関連づけてしまっていた。
夫の不倫もミントばりに増進してる。一人愛人ができたと思ったら、いつの間にか三人、四人、五人……。今は遊び相手も含めたら、数十人の愛人がいた。
「夫の愛人もミントみたいに引っこ抜けたらいいのに」
そうはいかない。夫の不倫は目に余る。
それでも夫の愛人は全て調査し、一冊のノートにまとめていた。本妻たるもの一番重要な仕事だと思っていた。
万が一子供ができたら……。
万が一それで相手の女が脅しや金銭を要求したら、公爵家の地位と名誉は地の果てまで落ちるだろう。
今は公然の秘密になっている夫の不貞も、似たような事をしている男が多いから問題になっていないだけだ。華やかな貴族社会も男に適した場所だ。逆に女の不貞では一発で犯罪者扱いされ、牢屋に入る。我が国の法律ではそうだった。大陸の西の果てにある国家ゆえ、少しおかしな所もあるのかもしれない。
基本的に女の人権などはない。庶民はともかく、貴族はこの傾向がかなり強い。だから、せめてもの抵抗としても夫の不倫を調べていた。地位や名誉を守る為でもあったが、揃えた証拠はフローラが一番良い時期まで温め、公にしようと考えていた。
冷え切った夫婦だ。度重なる裏切りにフローラは夫への愛情は擦り切れた。心に大きな穴が空いていくよう。せめて子供でもいれば違ったのかもしれないが、そんな兆候は何もない。結婚半年で夫との身体の関係も全部消えた。そんな状態でもう結婚十年目だ。
「奥様! ここにいらしたんですか?」
そこにメイド頭のアンジェラがやってきた。でっぷりと太った年増女だ。フローラと並びと体格差がえぐい。ずっと公爵家で働いているアンジェラだったが、内心はフローラを見下げる時もある。それでもクビにできないのは、夫の愛人の噂もよく知っており、その点はよかった。また、アンジェラも貧困の出身なので、長年積み上げてきたメイドの仕事も手放すわけにいかなかった。
「ええ。ミントの間引きをしていたの」
「そんな事はどうでもいいですよ。今日は新しく雇ったメイド、フィリス・ストイレスの初出勤日です。挨拶するので、早く屋敷へ」
「そんな名前のメイドだったの。今度は長く定着してくれるといいわね」
「奥様が暴れず、普通にしていれば大丈夫でしょう」
その棘のある言い方にカチンとしたが、メイドや執事の定着率の悪さ、人手不足はフローラも問題視していた。今度こそは人が定着してくれれば良いが。この家のメイドはアンジェラのようなベテランで神経が太い者しか務まらない事は薄々感じていた。
「人をメンヘラみたいに言わないでくれる?」
「事実じゃないですか。さ、行きましょう、奥様」
アンジェラと共に屋敷に向かう。手にはまだミントの香りが残っていた。すっと頭は冴えてくるものだ。良い香りだが、フローラは一ミリも笑ってはいなかった。
ただ背筋を伸ばし、前を向いていた。