殺人事件編-6
「これは何ですかね? どういう事だよ、フローラ」
書斎に入ると、夫は愛人ノートと探偵マニュアルをフローラに突きつけた。二つとも夫には知られたくなかったものだ。
「よくやってるな。もちろん、褒めてない。気持ち悪いわ。気色悪いわ」
夫は虫でも見るかのような視線を送っていた。夫の顔は真っ白だ。その上、目は氷のように冷ややかだった。もう呆れてもいない様子。
「マムも怖がっていたんだよ。誰かにつけられてるって。そこまでするか、フツー」
本当だったら、公爵家に送りつけられていた脅迫状も見せつけてやりたかったが、手先が震え、声も出なかった。
夫にこの事がバレる事は想定していた。怒られたり、呆れられるだろうとも想定していたが、こんな反応をされるとは。
「はあ」
ため息が出てしまう。
「どういうため息だよ?」
夫は静かに尋ねた。今の夫は、フローラがどんな態度をとっても、納得はしないだろう。その証拠のように、夫の青い目は凍っている。
「コソコソ悪い事をしているのは、どちらですか? あなた、性別が逆だったら、牢屋行きよ。死刑になるかもしれない」
フローラも静かに言い返す。夫が突きつけていた愛人ノートと探偵マニュアルも奪い返す、書斎の外へ投げた。ばさりと音が響く。嫌な音だ。廊下に待機していたフィリスとアンジェラが慌ててそれらを回収して行ったが、二人の表情は微妙だ。泣いてる小さな子供を見るかのような憐れみを含んでいた。
「た、確かにそうだけどよ」
「これはあなたが悪い。あなたが蒔いた種ではなくて? 私を責めるのは違くないですか?」
そしてフローラが、思い切り微笑んでやった。笑ってやる事で、相手の罪悪感を刺激しようと考えていたのだ。
実に卑屈で哀れな攻撃方法だ。自分でもわかっていたが、止められない。
愛は選択と行動です。
今日、懺悔室で聞いた神父の言葉を思い出してしまう。頭では、こんな事は良くないと思っていたが、夫をより傷つける為の行動を選択してしまった。
こんなのは愛じゃない。愛とはなんだか分からないフローラだったが、それだけは理解していた。理解しているからこそ、できた行動ともいえる。わざとやっていた。
二人は黙っていた。書斎の中はは張り詰めた空気に変わってしまう。
この書斎には、夫の書いた本もたくさんある。どれも陳腐なラブストーリー。困難を乗り越え、結婚して幸せになれる女の話ばかりだった。
本当にこんなものは夢物語。こんな冷え切った夫婦のシーンなど全く書かれていない。
「あなたも、こんな砂糖漬けのラブトーリーだけでなく、不倫や愛人の小説でも書いたらいかが? さぞ、リアリティがあるんでしょうね?」
これも夫への攻撃だった。夫が一番大事にしている仕事を下げれば、傷つくだろうと考えた。
だめだ、本当に。懺悔室で語った事は何一つ守れていない。
いつかマーシアが語っていた。人間の心は天使ではない。魔女が住んでいるかもしれないと全くその通りだろう。
「なるほど」
「は?」
しかし夫がフローラが思ったほどにダメージを受けてはいなった。むしろ「目から鱗が落ちた」と言いたげなスッキリした表情だった。
「そうだ、フローラをネタにしても良いよな」
夫は腕組みし、考え込んでいた。そしてメモと鉛筆を取り上げると、サラサラと何か書いていた。筆記する音が書斎に響く。
さっきまで緊張感が漂っていた書斎の空気は、一気に緩み始めた。窓の外は澄んだ青空。鳥の鳴き声まで響き、呑気さすら含んでいる。
「そうだ。メンヘラな妻が夫の愛人を執着しながら調べる。それで、いつのまにか殺人事件が解決してしまうミステリーだ。タイトルは『愛人探偵』。どうだ? 作品のネタとしては、良くないかね?」
夫はドヤ顔だった。その顔は妻に何を言われても、全てを作品として昇華し、絶対に負けないという強い意志を伝えているようだった。
思わずフローラは後ずさりしていた。
夫の事がわからない。正確に言えば、作家としての夫は意味不明だ。恋愛小説を書くために不倫を繰り返し、挙句、フローラの事もネタにしようとし、全く傷ついている様子がない。むしろ、生き生きとした目を向け、冷たかった青い目は、生命力を取り戻していた。
「創作はいいよな。どんな絶望している人にも残された最後の砦だ。いくら現実がうまくいかなくても、作品の中だけは自由さ」
「ちょ、あなた一体何を語っているの? そんな妻をネタにして許されると思っているの? いいえ、そんなに絶対だめだから」
「うるさいな。出来上がった作品が面白ければ何でもいいんだよ」
例え妻を傷つけても構わない。今の夫は、メモに作品のアイデアを書く事に夢中だった。
「あの新米メイドのフィリスって子にも話を聞くか。探偵業の内側とか、詳しく知りたいもんだな」
もう夫は作品の中へ行ってしまっていた。書斎の机に齧り付き、本の調べ物も初めてしまった。
フローラはもう声も出なかった。きっと本当の敵はマムじゃない。他の愛人でもない。
再び夫の書いた本をチラリと見る。おそらくこれが本当の敵だろう。
「っていうか、ここで仕事できんな。別宅行くか。うん、そうするわ」
夫は本を何冊か抱えると、書斎から出て行ってしまった。
一人残されたフローラは、全ての表情が消えていた。もう夫を傷つけるためだけに笑顔すら浮かべられない。
夫が書いた数々の恋愛小説が頭から浮かんで消えていく。
「作家の妻なんかになるんじゃなかった……」
小さな声で呟くが、その声を聞く者は誰もいない。
そして自分すらもネタとして利用される事に恐怖も覚えた。手も震えて来る。このままあの夫を放置したら、小説に人生を食い散らかされそうだ。
これだけ苦しんでいる不貞も、その枝葉でしかなかったという事実も、虚しい。泣きたいのに涙も出やしない。頬も引き攣り、肩に妙に力も入ってしまう。
「とにかく夫を止めなきゃ」
このまま夫を放置していたら、とんでも無い事になりそう。
フローラも急いで馬車を呼び出し、別宅へ向かっていた。フィリスやアンジェラは止めて来たが、もう理性では動けなかった。一刻も早く夫を止めないと。今のフローラはそれしか考えられなかった。
「あなた、いるの?」
何とかあの庶民の住居地にある別邸に着いた。叫びように、夫の名前を呼びながら、別宅に入るが。
灯りも全て消えていた。
今日は、近くも商業地区ではお祭りがあるようで、そこの多くの人が集まり、住居地はしんと静かではあったが、妙だ。妙な雰囲気が別邸を支配していた。
「え?」
夫は居なかった。いるはずだと思って別邸の書斎に向かったら、目を疑っていた。まるで物語のワンシーンのような光景だったから。
目の前でこの世で一番憎いはずの女が倒れていた。
「え、嘘。どういう事?」
その場でしゃがんでしまう。嘘だと言って欲しい。これも全部夢物語だと思い込みたいが、無理だった。
マムが頭を殴られて、血を流していた。ぴくりとも動かない。死んでいた。いや、殺されていた。




