面白い女編-2
夫が帰ってきた。少し痩せ、目の周りは黒く、充血もしていたが、締切前よりはマシそうだった。
「あなた、おかえりなさい」
玄関先でフローラは呟くように言う。本当は嬉しいが、それを素直に表現するのも癪な気がして、口の中を噛んでしまう。
「あ、いや……」
夫も何も言えないようだ。ボサボサになった髪をかき、妙な間が生まれてしまった。
「公爵さま! お帰りなさい!」
「坊ちゃん! よく帰ってきましたよ!」
そんな間も騒がしいフィリスやアンジェラがやってきて消えてしまった。
「さあ、坊ちゃん。朝ごはんができてますからね!」
「お、おお」
この場ではベテランメイド頭のアンジェラに逆らえる者はなく、一同は公爵家の食堂へ向かった。
食堂のテーブルはいつも通りの朝食だった。焼いたパン、ジャム、バター、サラダ、スープ。それにオレンジジュースと紅茶も。夫が帰って来たからと言っても特別豪華ではないらしい。
いつもの朝食だ。何の変わりもない。それでもマリオンの自殺の知らせを聞いた後では、余計に美味しく感じてしまう。隣には夫もいた。これ以上望む事があるのかよく分からなくなってきた。
夫は無言でパンを食べていた。その表情はいつも以上に何を考えているのか不明で、フローラは首を傾げた。
「あなた、アンジェラが焼いたパンは美味しい?」
少し前はこのパンに文句を言っていた。フローラが作った栗のマフィンにもケチをつけていたが。
「いや、美味いよ……。パンもスープも全部。やっぱりさ、こういう目に遭って分かったよ。当たり前のつまんない日常は、別にそうじゃなかったのかも……」
いつもは塩対応で口も悪かった夫だったが、しゅんと落ち込んでいた。
「あらまあ、坊ちゃん。私のパンが美味しいなんて嬉しい事言ってくれるじゃない」
アンジェラは目を潤ませ夫の肩をバンバンと叩いていた。
「公爵さま! もっと素直になったら、どうですか? ツンデレも行きすぎると全く可愛くないですよ!」
フィリスは紅茶を注ぎながら言う。メイドが主人に指摘するのは、貴族社会ではあり得ない事だが、夫は全く怒ってはいなかった。フィリスが典型的な田舎娘で毒気も抜けたのか。いや、彼女の言っている事が本当だったから、「目から鱗が落ちた」という表情も見せていた。
「フローラ、ごめん」
しかも夫はフローラの目を見て謝ってきた。こんな事は初めてだ。フローラは口をポカンと開けてしまう。悪役女優顔のフローラだったが、今はコメディアンのように間抜け顔だ。
「あ、あなた? どういう風の吹き回し? 頭でも打ちましたか?」
フローラの声は少し震えていた。こんな夫は全く信じられない。
マムの事件の時、フローラも夫に謝った事があった。それ以来、少し夫の態度が軟化した事も思う出すが、今はその時の夫の気持ちを容易く想像できてしまった。普段、塩対応の夫だから余計にこの謝罪が受け入れがたくはあるが……。
「当たり前の日常は当たり前じゃなかったんだな……。俺はフローラが隣にいるだけでも、幸せかもしれん……」
夫の目はまだ充血していたが、単に寝ていないだけが原因にも見えなかった。
フローラは唖然とし、声も出せないがメイド達はニヤニヤと笑っていた。
「奥さん、これはもう事実上、不倫をやめて家に帰って来るって宣言ではないですか? 良かったですね、奥さん。ギャフンとは言ってませんけれど」
夫はなぜかフィリスの言葉に大笑い。アンジェラやフィリスも笑う。フローラもつられて笑ってしまった。みんなの笑い声を聞きながら、夫の言いたい事がよく分かって来た。今はこんな瞬間が何より大切かもしれない。
「だが、フローラ。いつまでも笑っているわけにはいかないぞ。事件の方は進んでいるのか?」
そんな朝食が終わり、食後の紅茶を飲んでいる時、夫が言ってきた。
「いいえ、全く進んでいないわ。手がかりは揃って来ているのに、どうもパズルのピースが揃わないというか……」
和やかな朝食だったが、事件の事を思い出すと、口が重くなって来た。まだまだ事件調査は暗闇の中だった。
「今まで調べた事、全部俺に言ってみ?」
「え?」
「いいから、ノートとか全部見せろ」
夫は悪戯好きの子供みたいな顔をしていた。目の充血も止まって来ているので余計に子供みたい。
「フィリス、書斎から愛人ノートとか全部持ってきて貰える?」
「オッケーです、奥さん!」
フィリスに頼むと、バタバタ音をってながらもうすぐに持って来てくれた。フィリスとアンジェラは朝食の片付けがありキッチンの方へ行ってしまった。残されたフローラ達は二人で愛人ノートを読み返す。
マリオンやモラーナ、ダリアを調べていた事に引かれると思ったが、夫の口元はニヤニヤとし、目も光がさしてきた。
「そうか。モラーナは脅しをしていた可能性があるのか。まずはモラーナの周辺調査、あとはきのキャロルって子の万引きを見つけるのが先だな」
夫はあっという間に捜査の道筋をつけてくれた。今まで悩んでいたのが馬鹿みたいだ。夫に相談すれば良かった。パティの事件の時も、夫に頼れば良かったと後悔した事も思い出す。
「で、この文芸誌はなんだ?」
「これはモラーナ達が学生時代に書いたものよ。何かの手がかりになるかしら」
夫は文芸誌をペラペラ捲ると、目を丸くしていた。
「ダリア、やたらと文章が上手いな」
「そう?」
「っていうか、モラーナも上手いけど、文の癖とかほぼ一緒だよ。もはや同一人物?」
「どっちかが代筆してたって事? あ、そういえばモラーナにはゴーストライターの噂も!」
頭にポンと閃く。モラーナもダリアを脅して、ゴーストライターさせていた可能性がある?
「よし、俺はモラーナの担当編集者に会ってくるよ」
「い、いいの?」
夫がここまで事件調査に協力的とは、フローラは想像できなかったが。
「そうね、お願いします。これが出来るのは作家のあなただけよ」
「おお! だからフローラ、お前も必ず犯人を捕まえろ。大丈夫だ。手がかりは全部あるぞ!」
夫の明るい声を聞きながら、胸がいっぱいになってきた。事件調査も一人では無理だった。
「ええ、捕まえるわ」
フローラはどんと自分の胸を叩く。
「おお、それでこそ面白い女だよ!」
夫の無邪気な笑顔を見ながら、もう事件調査への不安はなかった。とにかく犯人を捕まえる事。今は目的に向かうだけだ。




