②
お父さんが死んだのは、離婚する寸前だったんだって。
事故だった。
……事故、ってことになってる。でも、自殺じゃないか、って思ってる人は多かったみたいだ。
まだ子どもだった俺には、誰も詳しく教えてくれなかったけど、お葬式で耳に挟んだ限りでは。
もちろん大声で不謹慎なこと喚く人なんていなかったよ。葬式だし。
ただ退屈でついうろうろしてた俺が、お父さんの知り合いだか友達だかがひそひそしてるの通りすがりに聞いちゃっただけ。
「離婚決まってたって聞いたよ」
「そうだってね。奥さんもなんで別れないんだろと思ってたんだけど。お子さんのこと考えちゃったのかなぁ」
「いや。あいつ、別れたくない! ってかなりごねてたらしいからな。ゆーせきの癖に。お前といるメリットが奥さんにあんのかよ、って他人でも思うわ」
「……やっぱさ、当て付けなんじゃないの? あの人ならやりそう。奥さん、本当に振り回されてお気の毒よね」
酷い。確かに酷い言い草なんだけど、葬式でさえそんな陰口叩かれる程度の人間だったってことなんだよな。俺もそこは庇えない。
あと、「ゆーせき」が有責のことなのも、だいぶ後になってわかった。
なんか、したんだろう。知りたくもないけど、何聞かされても俺は疑わないだろうな。
──つまりそういう奴だったんだ。俺とよく似た父親は。
「あたし、お父さん大嫌いだったわ」
姉ちゃんが憎々しげに吐き捨てた。珍しく感情的な様子に、心底嫌いなんだろうってすげーあからさまに伝わる。
わざわざ今持ち出すってことは──。
「姉ちゃんは俺も嫌いなんだろうな」
こんなこと言うつもりなかったのに、つるっと口から出た。しまったと思う暇もなかった。
「嫌いだよ」
何の躊躇いもなくズバリ突き付けられて、俺は情けないけど声も出なくなる。身体が固まったみたいに動かない。
「好かれてるとでも思ってたの?」
姉ちゃんはホントに、できる限り俺にダメージ与えたくて言葉選んでるんだ。
──それくらい、俺が嫌いなんだ。
「……へぇ、そっか。じゃあお母さんも俺が嫌いなのかな。お父さんとは別れる筈だったんだし」
勝手に言葉が零れてしまう。
黙ってちゃまずい、ってそれだけしか考えられなかった。
でもお母さんは姉ちゃんとは違うから、ってガキみたいな負け惜しみ。
それだけ姉ちゃんの追い打ちは堪えた。……図星だったから。
フツーに好かれてると思ってた。おめでたいな。
「お母さん、ね」
悔しいからって八つ当たりすんなよ。
口の端上げて皮肉っぽく笑う姉ちゃんに、そんな感情が真っ先に浮かんだ。
俺がお母さんに大事にされてるように見えて、贔屓されてるみたいで、姉ちゃんは気に入らないんじゃないの? 一人暮らしの話にしたってさ。
卒業しても、そのまま家に居る理由は知らないけど。
心のどっかでいい気味だと思ってた、のかもしれない。
俺に嫉妬してんだろ、って。
「ただいま、いづみちゃん」
なんともいえない微妙な空気の中、ドアが開いてお母さんが帰って来た。
よかった。
「おかえりなさい。あたし部屋に居るね」
姉ちゃんはお母さんに断って、俺の前から立ち去る。
「巽、来てたのね」
お母さんは姉ちゃんに笑顔を向けてから、ちらっと俺を見た。
「あの、……お母さん。俺、ちょっと話があるんだけど」
おずおずと切り出した俺に、お母さんは頷いて無言でリビングへ歩き出す。俺はそのあとを着いて行った。
「お母さんは俺が嫌いなの?」
リビングのソファに並んで座る。
俺が唐突にぶつけた言葉に、お母さんは顔色一つ変えなかった。
身体が指先からスーッと冷えてく気がする。
いくら動じない人でも、さすがに反応すると思ってた。すぐに「そんなわけないでしょ」って叱ってくれるって。
否定してくれるって期待して、気を引くような言い方で試した俺はズルい、けど。
……ただ確かめたかっただけ、なのに。
「嫌いじゃないわ」
温度のない声。俺はなんでこんなに不安なんだろ。
お母さんは嘘つく人じゃない。
あんまり喋る方じゃないけど、いざとなるとハッキリしたタイプだ。曖昧に誤魔化したりとかもしない。
……なのに、なんで俺はお母さんを信じられない?
「嘘だ。──ホントのこと言ってよ! 嫌いなら嫌いだってさぁ!」
ハタチ過ぎた男がこんな取り乱してみっともない。わかってる。
でも、俺の中の動揺が声になって溢れた。
「……本当に聞きたいの? 本当に、私の本音が?」
「うん。聞きたい」
真剣にしつこく念を押すお母さんに、俺は心を決めて答える。
一回口に出したらもう引けないんだよ。
お母さんは仕方なさそうに溜め息ついて、無表情で俺の目を見た。そして重い口を開く。
「嫌いじゃない」
「だから、──」
言い掛けた俺を強い眼差しで黙らせて、お母さんが、続けるんだ。
「本当に嫌いじゃない。好き嫌い論じるほどお前に興味なんかないの。どうでもいい」
俺に引導を渡す台詞を。
普段通りの静かな調子で、冷ややかに話す、お母さん。「お前」って、……今まで「巽」か「あなた」だったじゃん。なんで?
さっきの姉ちゃんの言いざまからも、俺はお母さんにも嫌われてるかもしれないとは思ってた。
そんなわけないって信じたかったけど、どっかで覚悟してた。
でも、──その方がまだマシだった、んじゃないか。
「私が愛してるのはいづみちゃんだけよ。お前を愛したことなんかただの一度もないわ。……産んだ責任があるから育てたの。仕方ないから」
凍り付くような冷たい声。
お母さん。お母さん。──くるしい。
「……姉ちゃんも。姉ちゃんだってお母さんのことなんか好きじゃないかもしれないじゃん!」
苦し紛れに叫んだ俺に、お母さんはふっと笑った。優しい、綺麗な顔。
こーいうの、慈愛に満ちた表情って言うのかな?
俺はふわふわ現実逃避するように考えてる。身体と心が分離したみたいな、いったいどこまでが『俺』なんだろ。
「好かれてるかどうかなんて問題じゃないの。見返りなんて最初から求めてないわ。私が愛してるからそれだけでいい。いづみちゃんになら嫌われても、──殺されても本望なのよ」
お前とは違う、というお母さんの声にならない声が頭に響いた気がした。
「巽。心配しなくても、学費も家賃も卒業まではちゃんと払うわ。義務だから」
義務、だから。嫌だけど払う、ってこと?
「さあ帰って。ここは私といづみちゃんの家よ」
呆然としてる俺に、お母さんは相変わらず淡々と告げる。
「お前の居場所なんかない」のだと。
もう反抗する気力もなくて、俺は黙って玄関先に置きっ放しだった鞄を拾って実家を出た。
自分の家、だった、もう俺には縁のなくなった家。
◇ ◇ ◇
一人暮らしの部屋に戻って来て、床に鞄を放り出す。
「……おかあさん」
今になって涙が出て来た。あとから、あとから、止まんない。
何故この部屋を借りてくれたのか。何故姉ちゃんは一人暮らしじゃないのか。
俺の思い込みは、全部事実とは逆だった。
お母さんは、とにかく俺を追い出したかったんだ。一緒に居たくなかったんだ。
だけど。お父さんに似た俺を愛せなかったとしても、お母さんは俺につらく当たったりはしなかった。
姉ちゃんと、悪い意味で差を付けられたとも思ってない。いまも思ってない。それは間違いないんだ。
たとえ『興味がない』からだとしても。
でも俺は、お母さんが好きなんだよ。……愛して欲しかった。俺も。
無理ならせめて、憎んでくれた方がよかった。その方がお母さんの中に俺が居る、から。
お母さんは、俺も、お父さんも、自分の中から消去したんだ。感情ごと全部。
俺の甘かった子ども時代は、今日で終わった。決別。
──これからは、ひとり。
~END~