綾瀬withペトリコール1
目覚まし時計がなる直前の、カチッと鳴る音で目が覚めた。
アラームが騒ぎだす前にと思って時計を叩く、けど間に合わない。
静まり返った家に、チリリリとアラーム音が響き渡る。うるさい。
起きているのにアラームが響き渡るほど無駄なこともない。いつもよりほんの少しだけ力を込めて時計を叩いた。
時刻は七時。学校に行くにしてもサボるにしても余裕のある時間。
机の上をみるとドーナツが置いてある。
昨日、かえでがくれたやつだ。結局食べずに持って帰ってきてしまった。
値段にしてわずか数百円。
菓子パンコーナーに置いてある何の変哲もない、量産されているドーナツ。
そこに友達から貰ったものという価値が与えられると、とても大切でかけがえのないものに思える。
贈り物は値段じゃなくて、そこに込められた気持ちと誰から貰ったかが大事なのだ。
かえでから貰った初めてのもの。記念にいつまでも取っておきたいけれど、賞味期限があるからいつかは食べないといけない。
でも焦ることはない。もう少しだけ置いておこう。
今日も一緒に行けるといいなと思ってカーテンの前に立つ。
寝起きだからか、眩しいことを警戒してか、少し細目になりながらカーテンを開いた。
普段なら太陽の光を眩しく照り返してくる木々や道路が私の部屋からは見える。
けれど、今日はどちらも見えなかった。
私のまぶたもだんだんと開いて、心が目の前の景色と同じ明度になっていく。
窓を開けて少し身を乗り出し、空を見上げた。
雲が空いっぱいに広がっている。とても光は届いてきそうにない。
空を眺めていると頬に冷たいものがぴちょんと当たった。
嫌な予感がして、空に向かって念じる。
そんな祈りは空には届かず、数秒経ったころには雨がぽつぽつと降りだしてきた。
神様は意地悪だ。
「公園、無理そうだなぁ……」
つい一ヶ月くらい前なら、雨が降ったくらいで気分が沈むことはなかったと思う。
前の私はどう感じていただろうか。
そもそも六月は梅雨のせいであまり公園にいけなかったし、七月は暑くなってきたから公園に行くことも少なかった。
公園は好きだけれど、行けないからといって悔しがるというか、寂しがることはなかった。
多少あったとしても今日ほどではない。
夏休みが明けてからはほぼ毎日通ってるから一時的に愛着でも湧いているんだろうか。
前の公園と今の公園の違いってなんだろう?
そう疑問に思ったけど、答えも同時に思い浮かぶ。答えの方が少し早く思いついたかもしれない。
公園では以前と変わらず子供が元気に遊んでいて、私も変わらずにベンチに座っている。
変わったのは、隣を見るとかえでが座っていること。
どうやらかえでと出会う前の公園と、かえでと出会ってからの公園ではそこに含まれる意味が違うらしい。
かえでとベンチに座って何気ない会話を紡ぐ。
その行為が私の心の容量をどんどんと埋め尽くしていることを今になってようやく自覚する。
中学以来初めての友達だからだろうか。
単に私が寂しがり屋なだけかもしれない。
昨日のことを振り返ってみた。
かえでが一緒に学校に行こうといきなり言い出した。昼からだけど。
かえでに誘われなかったら、私は昨日も丸一日サボっていて、かえでだけ午後から登校したんだろうなと思う。
だけど、昨日はかえでに誘われた。
「綾瀬も、一緒に学校行く?」
その声を聞いた時、心臓が止まったかと思った。
ブランコから落ちた痛みなんて一瞬でどこかにいってしまって。
反射的に「行きたい」と私の心が答えようとした。
けれど言葉が口を通るほんの直前で、どこからか待ったがかかる。
もし、かえでが私と一緒に教室に入ったら。
教室に入った時の私に向けられるクラスの刺すような視線がかえでにも向いてしまうんじゃないか、と思った。
それはあまりいい気分がしない。
じゃあ教室の前で時間をずらしてから入る?
いや、そんなことすると、かえってかえでが不思議がって「どうしたの?」とか聞いてきて、余計にクラスの視線を浴びそうだ。
それに私たちが一緒に登校するとすれば、これが私たち二人による初めての登校になる。
今まで学校をサボっていただけの関係だった私たち。
もし登校してしまえば、確実に今までの関係とは違う何かが生まれてしまう。
もしかしたらそれが良いように転んで、次の日もその次の日も一緒に登校できるようになるのかもしれない。
その姿を想像してみた。
話している内容は今までと変わらないだろうけど、女子高生らしいことをしている私たちは少し輝いて見える。
午前中はサボって午後から一緒に登校する。悪くなさそうだ。
でも、物事は必ずしも良いように転ぶとは限らない。
その少し引っかかる悪い予感が私を迷わせる。
具体的に何か悪いことが起きる予想はできないけれど、本当に悪いことは予想できないことにあると思う。
散々迷いながら、振り絞って出した答えはやっとの思いで口から飛んでいった。
だけどその答えにはまだ迷いがあったみたいで、かえでに届く前にどこかに逃げてしまった。
聞き返された時には私は慌ててしまっていて、気が付くと心が先走って答えていた。
二回目の待ったはかからなかったみたいだ。
そうして私はかえでと一緒に登校することになった。
一緒に登校している時間はほんとうに少しだけだったけど、公園にいるのとまた違った楽しさがあった。
公園にいるときは学校をさぼっていて、その少し悪いことを共有している雰囲気が楽しいんだと思う。
一緒に登校することでそのスパイスが無くなってしまったけれど、それでもやっぱり楽しかった。
想像していた私たちとは違って、あまり会話なんて生まれなかったし弾みもしなかったけれど。
それでも学校に向かって一歩ずつ進んでいく私達の姿が少し輝いていたことに、間違いはないんだと思った。
頬に当たる雨粒の感覚が、だんだんと縮まっていくのを感じる。
雨がじわじわと勢いづいているみたいだ。
窓の周りが少し濡れてきたのを見て、慌てて窓を閉めた。
そういえば、かえでと出会ってから雨が降るのは初めてのことだ。
今日も、きてくれるかな。
雨の日の公園は初めてだった。
いつもの私たちは律儀にも一時間目の授業開始時間には公園に来ている。
今日も同じ時間に来てみたけれど、かえでは来ない。少し待ってみることにした。
かといって特にやることもない。
いつもあんな自由に遊んでいる子供たちも今日はいないから、その姿をぼーっと眺めていることもできない。
家を出たときは不規則に傘を鳴らしていた雨も、いつもの間にか傘を叩くように勢いを増している。
ベンチは雨でびしょ濡れになっていた。
ずっと立っているのも疲れるから、ベンチに座ろうか迷ったけれど、かえでに会った時に不審に思われそうだったからやめておいた。
今みたいに公園の入り口で立たずんでいるのも、こと怪しさにおいては変わらない気はするけれど幾分かマシなように思える。
普段は公園の中にいるから、こうして入り口にいるのも新鮮だ。
新鮮ついでに、公園の外に目を向けてみた。
大通りから公園の入り口まで続く一本道。
地面にはアスファルトが敷かれている。
車がせわしなく走っている大通りから私が立っている公園の入り口までの道。そのまっすぐの迷路を視線がたどった。
ゴールを抜けたあとはやっぱり公園の中へと視線が向かう。
公園は土壌で埋め尽くされている。
雨のせいで地面がぬかるんで、ところどころに水溜りが浮かび始めていた。
子供たちにさんざん遊びまわされた遊具も雨に濡れて、汚れが洗い流されているみたいだ。
視線を追いかけるように公園に足を踏み入れる。
土を踏むとぬちゃっとした感触が足の裏に伝わってきて少し気持ちが悪い。
泥が跳ねないように気をつけながら、ゆっくりと公園の中を進んでいく。
ふと、雨の香りを強く感じた。
入り口にいた時とはまた違う、葉っぱや土をぐずぐずに溶かしたような香り。
頭を通り抜けるような爽やかな匂いかと思えば、鼻の奥にツンと残る。そんな匂いだった。
視線を追ってたどり着いた先は滑り台。
汚れを確かめるように、側面を人差し指でなぞってみた。
ざらざらとした感触が指先に伝わってくる。
その指先を見てみると泥か砂かよく分からないもので汚れていた。
これだけ雨が降って、一見綺麗になったように見えた滑り台。
それでも汚れは簡単には落ちてくれない。
一度汚れてしまえば元に戻るのは難しいのだろう。
そもそも遊具は造られた瞬間から綺麗だったかどうか怪しいけれど。
指先がいつまでも汚れたままなのは嫌だから、水飲み場で指先を洗おうと蛇口に手をかけた。
傘からはみ出た腕が雨にあたって、指先の汚れが雨とともに落ちていく。
それでも蛇口をひねって両手を使って念入りに指を洗い流した。
昨日の傷はかさぶたになっていたけれど、幸い小さな傷で済んでいた。
あと数日経てば綺麗に治っていそうだ。
手を洗い終えて、ハンカチをポケットから取り出す。
どうせ雨でまた濡れるかもしれないけれど、一応手を拭いておいた。
鞄から携帯を取り出して時間を確認する。
九時二十分。ちょうど二時間目が始まる時間。
このままここにいてもかえでは来なさそうだ。
あるはずがないのに、携帯を開いてみた。そこにかえでの名前はもちろんない。
私達は互いのことを知らなすぎるかもしれない。
公園にいるときの姿しか、お互いに知らないのねはないだろうか。
初めて会った時、かえでは私の名前を知っていたようたけれど、やっぱり私のことはあまり知らなかったと思う。
今知ってもらってるかも正直分からないけれど、少しは知ってくれてたら嬉しい。
それに、私のほうがかえでについて知らなすぎる。
そもそも、かえでに出会ってからはまともに学校に行っていないし、行ったとしても会話は生まれない。
しかも、出会う前はクラスに「かえで」という女の子がいたことは知らなかった。
小学校の時クラスメイトだった久岐と小峰が、仲良くしてる女の子がいるなとは思ってた。その子がかえでだった。
だから、度々目撃してはいたけれど、それだけ。
その姿を見ているからといって、その人のことを知っているかと言われれば、それはまた違う話だ。
じゃあ今ならクラスでかえでに話しかけれるだろうか?
少し考えて、むずかしい……と思う。
かえでがクラスで誰とも話していないなら話しかけに行けた……のかもしれない。
私としても久岐や小峰と話しているかえでのところに割り込んでいくのは気が引ける。
しかも二人とは小学校で一緒のクラスだったのだ。
その時の私は、今と違って学校に真面目に通っていた。
だから今の私を見た二人は、私のことを不良とでも思っているんだろう。
余計に話しかけにくい。
かえでがその事を知ってるかどうかは分からないけれど、そんな私の空気を察してか、気を使って話しかけないでいてくれているのだと思う。
それに公園では話をするのに、学校だと全く話さないこの変な状況を楽しんでいるところもある気がする。
秘密の時間を共有している友達がクラスにいる。
それだけでも学校に行くのがどこか面白い。
でも昨日。私の心が少し暴走したことをきっかけに、もう少しかえでに踏み込んでみたい、踏み込まれてみたいと感じてしまうようになった。
だけどそれは、私が勝手にそう思っているだけ。かえでがどう思ってるかは分からない。
昨日かえでが私を学校に誘ってくれたのも、決して私に踏み込んでくれたわけではないのだろうから。
かえでは私と出会った時も、今もあんまり変わらないように見える。
もし私がかえでの心にずけずけと近づいていったらどうなるだろうか、と考える。
かえでのことはあまりよく分からないから、かえでと出会った時の私に置き換えてみた。
きっと、次の日から公園には来なくなる。
その光景は想像に容易い。
その場では適当に愛想笑いをして、相槌をうって、なるべく早く公園を出ていって。そして次の日からは居場所がなくなったと感じて、別の場所を探しにふらふらと歩き回るんだろう。
そうなってしまえば、もう私たちの関係は元に戻らないと目に見えて分かってしまう。
だから、踏み込んでしまうのは私にとっても、おそらくかえでにとっても悪いことなのだ。
それにやっぱり今の関係が嫌なのかと言われれば全然そんなことはない。
私がかえでと出会って、それでも私達が気まずくならずに公園に来続けることができた理由がそこにある。
こいつは私に過剰に干渉しないような人間だ、そうお互いに思ったから私とかえでは友達になれた。
だから、今のところはこのままの関係を続けていけたらいいなと思う。
不安材料は私の心だけ。
「学校。行こうかな」
朝から雨に降られて小一時間。
体がなんだか冷えてきた。
それに、学校に行けばかえでがいるかもしれない。
まぁ、どうせ話はできないけれど。
そう思って、誰もいない公園を後にする。
大通りに出たころには、もう雨の匂いは感じなかった。
読んでくださってありがとうございます!
評価してくださった方、ブクマしてくださった方がいらっしゃったようでほんっっっっっつとうに嬉しいです!
心折れかけてましたが、楽しんでくださった方、楽しみにしてくれる方、なにより自分自身のためにも頑張って投稿していきます!