6.カナ横ダンジョン
狙撃ポイントの選定がなかなか難しかった。
深い谷の底は周囲のビルから望むことができない。
かといって、公園のなかはどこもかしこも人だらけで博物館の屋上すらひと目がある。
しかし、そこはサラリーマン・スナイパー。実は依頼を受けた時点でひとつ、絶好の狙撃ポイントがあることを把握していた――カナ横である。
アメリカ横町がアメ横。カナダ横町がカナ横である。
カナ横は上野公園内にある商店街だが、これが入り口を公園の斜面に開いていて、地下に続いている。東京最凶迷路と言われているが、そこは新宿駅地下で鍛えたサラリーマン・スナイパー、次の日にはカナ横へと突撃し、さんざん迷った末に土地勘をつかみ、そして、理想の狙撃ポイントを見つけた。
カナ横は一か所、外に突き出るところがあった。ほとんど知られていない小さな展望台みたいなもので、このあたりは非常に寂れていて、カナ横に店を出している人間にも知られていない。いつか使うことがあるだろうと存在だけは把握していたが、二日間かけて、アタルは展望台を見つけることができた。
展望台、とはいうが、楡の木に囲まれた古い見晴らしで、赤く錆びた有料望遠鏡がふたつあるだけ。
だが、この地点はまるで謀ったように弁天堂の社殿が見える。
おそらくどこから狙撃されたかも分からないまま、土曜午後三時の結婚式は阿鼻叫喚。そのあいだにサラリーマン・スナイパーは悠々と直帰ができるというわけだ。
「定時の直帰。ああ、なんてスバラシイ言葉なんだ。て・い・じ。高貴な響きだ。抑圧された人類を解放する、崇高な思想。口にするだけで、体を蝕む疲労が吹き飛び、腹の底から歓喜の拍動が湧き上がる。そう思わないかい?」
「ゴディバ直営のカフェでチョコレートパフェを食べるのが夢ッス」
「しかも、明日は日曜日だ。ため録りした海外ドラマが見放題。ゲームもし放題。何の目的もなく、街をぶらついてもいい」
「アタル先輩、ゴディバの直営店カフェって、どこにあるんスか?」
「え? 知らないよ。吉祥寺にないのかい?」
「ないッス」
「吉祥寺にないなら世界のどこにもないよ。たぶん」
「成城はどうッスか?」
「あばばばば」
「どうしたッスか?」
「失礼。超高級住宅街の名前に思わずサラリーマン拒絶反応が出てしまった」
「アタル先輩、一緒に探してほしいッス」
「えー、なんで」
「かわいい後輩がゴディバのチョコパフェを食べるか否かの瀬戸際に立ってるッス」
「いやだよ。スマホで調べなよ」
「それはダメッス。現代人はスマホに頼り過ぎッス。もっと足で情報を稼ぐべきッス」
「九九の計算スマホに丸投げしててよく言うよ。とにかく僕は行かないからね」
「えー、ぶー」
ずっと絶望し続けるよりも、ほのかな期待が見えてから絶望させるほうが効き目がよいという。
鵜手羽アタルはいま、まさにその効き目のよい絶望を感じていた。
狙撃自体はうまくいった。白無垢が血みどろゲロゲロになる前にスコープから目を離し、業務終了。
社長には直帰すると言ってあるので、あとは仕事終わりの高揚に身を弾ませながら、家に帰るだけ――のはずだった。
「どこ、ここ?」
カナ横の道筋がガラッと変わった。
アタルは確かに覚えた通りの道順で歩いたのだが、本当なら入り口にいるはずの彼がいまいるのはシャッターを上げた雀荘の裏口である。コーヒー殻とつぶれた紙コップがギチギチに入ったゴミ袋が積み上げてあって、あまりお金を持っていそうにない老人たちがミルクコーヒーでカフェインをキメながら、千点十円の低レートな勝負を繰り広げている。
雀荘〈かもねぎ〉の葱を背負ったカモの絵柄のエプロンをした若い女性に出口はどこかたずねると、あーあ、といった感じの顔をしつつも、教えてくれた。
カナ横はダンジョンなのだ。
ゲームによくある、入るたびに道が変わってしまう究極の地下迷路。
「でも、この三日は道は変わらなかったのに」
「お客さん、カナ横に入るのは初めてですか?」
「三日前が初めてです」
「つまり、弁天さまに目をつけられたんですね」
「どういうことですか」
「あなたを安心させて、このカナ横大迷宮を征服したつもりになって有頂天になったところをどん底に突き落とす。弁天さまがよくやるんです」
「え? なにそれ、鬼畜」
「弁天さまです。それに大丈夫ですよ。そんなに迷ったりしません。たぶん、月曜日の朝には解放してもらえますよ」
「そんな! ためたアニメを見るつもりだったのに!」
「海外ドラマとゲームだけじゃなかったッスか?」
「いや、まあ、まだ見ていないものはたくさんあるんだ」
プラ板の屋号の下にシャッターが閉まった元気のない商店街を二日もさまようなんて、冗談じゃない。
そのあいだ休日出勤にしてもらえるのか? 社長にウンと言わせることはできても、熊谷部長がウンとは言わない。
グッド・キラーズの業務稟議システムは熊谷部長のほうが強い。
以前、同僚の牧村が繁忙期に有給六日使わせてくださいと狂ったとしか思えないお願いをしに部長室に入ったきり消えてしまったことがある。
正直、アタル自身、熊谷部長を相手にとって、クビ(物理的)にならずに済む自信はない。
つまり、土日は休むというサラリーマン憲章第一条を死守するためには、弁財天を敵にまわして、この迷路を脱出するしかないのだ(既に土曜日出勤をしていることには目をつむる)。幸い、弾はあと九発ある。弁天さまと言えども、サラリーマンの花金を潰して無事には済まないことを教えてやれる。
「イツカくん。いまは午後四時十分前。あと二時間以内にここを脱出すれば、時間内直帰になる。きみもサラリーマン・くノ一なら、自身のプライドと忍術の全てをもって、戦うんだ。敵は弁天堂にあり!」
「分かったッス。伊賀では明智光秀は人気者ッス」
「そうなの?」
「だって、信長は伊賀を焼き払ったッスからね。伊賀じゃ信長は嫌われ者ッス」
「へー」
「伊賀の忍者のあいだじゃ服部半蔵は忍者じゃないのと同じくらい常識ッス」
「そうなの?」
「得意武器は槍の、たまたま伊賀出身だっただけのおっさんッスよ」
「へー」
「小学校で習わなかったッスか?」
「九九を覚えるのに忙しかった」
「ふっふっふ。アタル先輩もまだまだッス」
迷路の道順が変わる。しかし、それは出て、また入るごとであり、迷路を彷徨っているあいだは変わらない。
ということは左手を壁にくっつけて、歩き続ければ、いずれは出口に着く。定時帰りが怪しくなるが、がむしゃらに走りまわって、月曜の朝に放り出されるよりはずっといい。ゴジラが戦車を踏みつぶしている模型店で立ち止まるイツカの襟を右手でつかんで引っ張りながら、左手は壁をつけ続ける。
――そうやっていれば、いつか出口へつけると思ってるのか、地上げ屋?
「僕は地上げ屋ではありません。善良なサラリーマンです」
――じゃあ、そのカバンに入っているのはなんだ? 実弾だろうが。
「半分あたりですが、とにかく多額の現金ではありません」
――何を入れている?
「組み立て式スナイパーライフル」
――オーケー、ゴルゴ13。お前、組合に入ってるか?
「組合がありません」
――お前、とんでもねえ会社に入ってるな。組合はいいぞ。保険だ散髪料だ、ピンハネし放題だ。
「もし、組合があったら、僕はピンハネされるほうです」
――仕事しろよ、仕事。社長になれよ。
「仕事して出世ができるなら、僕らサラリーマンはみんな社長ですよ」
――まあ、コネがなきゃ、どうにもならないのは認めよう。どうしてフリーランスにならない?
「不景気になると、月給のありがたみが分かるというものです」
「アタル先輩、さっきから誰と話しているッスか?」
「鏡だよ。三種の神器みたいな古い鏡。さっきからそこを飛んでいるだろう?」
「アタル先輩。先輩のことはこの美少女くノ一千秋イツカが必ず定時帰りに導くッス」
「急に殊勝なことを言い出したね」
「だって、このままいけばアタル先輩、座敷牢に押し込められるッス。なんの。千秋イツカは女でござるッス」
「忠臣蔵、好きなの?」
「毎年十二月の十四日が楽しみで生きてるッス」
しばらく歩いていると、またアタルが虚空に目を彷徨わせ始めた。
確定していた金曜の定時直帰が消えてなくなりそうになって、アタルの心は非常に大きなダメージを追っていた。
そのうち、精神世界のグラウンドにピンク色の石灰で引かれている、〈絶対に越えてはいけない線〉を越えてしまいそうに見えたので、イツカは健気な後輩として、話題を振った。
「アタル先輩。ヒビキって名前のお姉さんか妹さんがいないッスか?」
「ん? イツカくん、ヒビキと知り合いなのかい?」
「あー、やっぱりいるんスね、鵜手羽ヒビキさん。じゃあ、鵜手羽タオレルって名前の兄弟も」
「タオレル兄さんとも知り合い?」
「いえ、たぶん、そうなんだろうなあと思っただけッス」
「おかしいなあ。実は僕が知り合う人みんな、兄さんと妹の名前を当てるんだ。それにしてもお腹が空いたな。人を撃つといつもお腹がすくんだ」
「あそこにお蕎麦屋さんがあるッス」
「ちょっと寄っていこう。奢るよ」
「ごちになるッス!」
〈大回転〉は間口が狭く、奥行きがある、恐らく日本じゅうの地下街にあるタイプの立ち食いそば屋だった。
カウンターの反対側の壁を埋め尽くすのは競走馬が書いたサインだった。程よく日焼けした水着姿の女性がビールのジョッキを持った麒麟ビールのポスター以外はみんなサインで、そのサインには決まって、店主と競走馬が一緒に写っている写真がピンで刺してあった。
「これ、みんな騎手のサインですか?」
「いや、馬のサインだ」
「え?」
「ん?」
「いえ、馬がマジック持って書いたりするのかなと」
「なんだ、疑うのか? こいつは正真正銘、馬のサインだ」
「はあ。かき揚げそば大盛りで。きみは?」
「カレーライス大盛りお願いするッス」
立ち食いそばの不思議だが、ときおりそばよりもカレーのほうがおいしい蕎麦屋がある。アタルみたいな外回りのサラリーマンやタクシーの運転手だけが知っている秘密でなかには中村屋のカレーみたいにお米とルーと福神漬けが別々に出てくる店もあるのだが、〈大回転〉がまさにそうだった。お値段は蕎麦屋においては一桁違いの千五百円。
「サラリーマンに二言はない」
「アタル先輩、かっこいいッス!」
「でも、どのくらいおいしいのか知りたいから、ひと口くれないかな――なに、そのスプーンの上の福神漬けは?」
「ご所望のひと口ッス」
アタルはにっこり笑うと、いつの間にか右手に滑り込んでいたスプーンで銀の器からルーをたっぷり大きなビーフをひとつのせてすくい、パクリと食べた。
「あーっ!」
「おいしい。すごくおいしい」
それからアタルがトイレを借りたいと言って、席を外すと、店主がイツカに、
「なあ、あのサラリーマン、鏡と話したりしてないよな?」
「あれ? 大将なんでわかったッスか?」
「悪いことは言わないから、割ったほうがいい」
「でも、わたしには見えないッス。割れなかったら、どうなるッスか?」
「別に大したことは起きない。ただ、一生、ここに閉じ込められるだけ」
「えー、それは困るッス。わたし、ゴディバのチョコパフェを食べるまで死ねないッス」
「おいおい、お嬢ちゃん。死ねると思ってるのか? 死ねないよ、無理。永遠にここだよ。実はおれもその口でな。絶対にここから出られないんだ」
イツカはそのことを話したが、アタルはそんなに悪い鏡でもないと言った。
天井の低いシャッター地下街を歩いているあいだ、何度か鏡がやってきて、下らないことを話しているようだった。
就業時刻の終わりが近づくと、アタルはアタッシュケースのライフルを組み立て始めた。
きっと定時の直帰を邪魔するものは何人たりとも射殺するつもりなのだろう。
「武装せよ、プロレタリアート! イツカくん。喜んでくれ。鏡が出口に連れていってくれることになった。これで定時直帰の夢も叶うぞ」
「アタル先輩。その鏡さん、いま、どっち側にいるッスか?」
「ん? なんでそんなこときくんだい?」
「いや、定時に直帰できるお礼を言わないとと思ったッス」
「きみ、意外と礼儀正しいね」
「先輩、わたしのこと、パ~だと思ってないッスか?」
「そんなこと…………ないよ」
「なんスか。その三点リーダー、四つ分の間は」
「とにかく帰れるんだ。ほら、あっちにいるから、きみも二拝一礼して」
「ところでアタル先輩。そのライフル見せてほしいッス」
「ん? なんで?」
「アタル先輩のかっこよさに少しでも触れられたらといういじらしい後輩のお願いッス」
「ほんとにいじらしい人は自分のこといじらしいとか言わないけど、その殊勝な心意気やよし。特別に貸してあげよう」
そう言って、スナイパーライフルを受け取るなり、イツカは鏡のあると思われるほうを向いて一発ぶっ放した。それは希望への一弾。定時の帰宅を悲観するものたちを援けんとする義の一発なり。
次回更新は 2023/1/8 七時過ぎの予定です。