4.商売敵あらわる
ライバル社であるマッド・マーダーズと仕事がかち合うのはこれが初めてではない。
こっちができるだけ静かに仕事を仕上げようとするとき、禁酒法時代のギャングみたいに走行中の自動車からサブマシンガンを乱射したり、IRAでもそこまではやらんといいたくなるくらいの自動車爆弾で吹っ飛ばしたりされたことは何度もある。あるいは今みたいに装甲車を撃つための銃で人間を撃ったり。
にもかかわらず、売上がマッド・マーダーズのほうが上なのは結局、顧客はそういう派手なやり口が好きだからだ。
もうじき警察が動かせるヘリコプターを全部動員して、そこいらじゅうのビルにサーチライトを当てまくる。
「脱出だ、新人くん!」
「御意ッス!」
まずイツカが、次にアタルがロープに飛びつき、ベルトのカラビナフックをロープにかけると、マンタ・ビルの強化ガラスを走るように下っていく。
マッド・マーダーズのスナイパーはマンタ・ビルよりもさらに高いシャーク・ビルの屋上からステルス・ヘリで逃げようとしている。
会社の売上がそのままバックアップに反映されるのを見るのは面白くない。
それに『他人の狩場を荒らさない』という仁義にも反する。
マンタ・ビルの三十七階で足を止めたアタルはロープをひっつかんで、体のそばでまわした。
スナイパーライフルをピンと張ったロープで支えて、例のステルス・ヘリを十字線におさめる。
ヘリの側面ドアにはスナイパーがいる。全身が黒の戦闘服で顔もマスクで隠れている。
アタルは別に撃ち落とそうとか、ブレイン・スペシャル・スプラッシュ・プランを食らわせてやろうと思っているわけではない。ただ、一発、装甲板に当てて、脅かしてやるだけだ。
そう思っていたのだが、黒ずくめのスナイパーはこちらを見ると、まるでレティクル越しのアタルが見えるように微笑んだ。微笑んだと分かるのは黒いマスクを剥ぎ取ったからだ。
日本人離れした銀色の髪と美しく整った顔立ちのハーフ。しかも、女性だ。
ひょっとすると、そのスナイパーはアタルのことを知っているのかもしれない。というのも、彼女は輸血用のO型血液パックを取り出して、ナイフで切り裂いたからだ。
イツカは泡を吹いて落ちてきたアタルを受けとめると、背中の忍者刀の柄に引っかけて、残り三十五階分の高さを降りるという離れ技をするハメになった。
ふたりとも落ちなかったのはアタルが小柄だったからだろう。
それでも十五階くらいの高さならアタルを落としてもいいかもしれないと彼女のなかの霧隠才蔵が語りかけてくることがあったが、イツカは頑張って、最後までアタルを刀に引っかけたまま、マンタ・ビル前の噴水広場に降り立ったのだった。
その後、アタルの顔を三度、噴水の水に突っ込むと、アタルは水と一円玉数枚を吐き出して、正気に戻った。
翌日、出社して分かったのだが、マッド・マーダーズが狙っていたのは袖に銃を隠している男だった。
ロシアン・マフィアのモスクワ派大物イゴール・スリコフで五年ぶりに来日したところを狙撃したのだ。
事情を知らないワイドショーの自称犯罪アナリストはアタルの狙撃をマッド・マーダーズの狙撃のバックアップだと断定した。仕事が報われないのはサラリーマンの定めだが、よりにもよって、マッド・マーダーズのヘルプとは泣かせてくれる。
「社長、うちもステルス・ヘリを買いましょうよ」
「た、竹とんぼならなんとか」
「ですよね。トチ狂ったこと言ってすいません」
「でも、きみたちがいいコンビになって、本当によかったよ。きいた話じゃ、イツカっちがアタルっちを助けたんだって?」
その通りッス、エヘンとイツカがこたえる。
「今日はお寿司を奢ってもらう約束したッス。もちろんまわらないお寿司ッス」
「まわるほうのお寿司! それと百五十円以上のお皿を取ったら、至近距離発砲だよ」
「ぶー。アタル先輩の命、安いッス」
「今さら気づいた? きみの命もそうなるんだよ」
「いいね、そういう掛け合いが大切だよ。ところで、マッド・マーダーズのスナイパーは」と、社長。「アタルっちが狙撃するって分かってたのかな? わざわざ輸血パックを用意していたなんて」
「そもそもその輸血パックはスナイパーが負傷した際のバックアップの一部って可能性が高いです」
「でも、相手はアタルっちがそこで狙撃していたのは知ってるよね。アタルっちが狙っていたのを知って、輸血パックを裂いたんだから」
ぶくぶくぶく!
「あ、アタルっち、思い出しちゃったね? まあ、復活したら、寿司を食べに行くといいよ。これ、金一封。これでふたりでまわらないお寿司を食べてきて」
「おおーっ、社長太っ腹ッス! アタル先輩、起きるッス! まわらないお寿司ッスよ、おーすーしー!」
マッド・マーダーズは手を明かさない。
顧客とのやり取りはいくつものセキュリティの網をかけたコンピューターを介したやり取りで、マッド・マーダーズの暗殺者が直接クライアントに姿を見せたことはない。
逮捕されたこともないので、どんなスナイパーがいるのかは想像するしかなかった。
ジルコニウムで覆われたゴシック様式の高層ビルの最上階にある本社では女性だけが働いている。
マッド・マーダーズの社員はみな女性である。スナイパーからバックアップ要員までみな女性だ。
そして、この職場からは雲を見下ろせる。雲の上を天とカウントするなら、彼女たちは天女ということになる――のかもしれない。
もちろんこの天女の仕事場の社長も女性だ。
ソフィアが呼ばれたとき、社長は国際電話で一千万ドル分の無記名債券の換金をフランス語で命令しているところだった。
「お呼びですか、社長?」
「昨日はおつかれさま。突然の仕事でごめんなさい」
「いえ、構いません。昨晩は特に予定はありませんでした」
「クライアントはあなたの仕事ぶりに大変満足しているわ。それでききたいんだけど、グッド・キラーズと仕事が重なったそうね」
「狩場が偶然一緒だっただけです。彼らのターゲットはウズベキスタン人のほうでした」
「ああ。そういうこと。相手のスナイパーの名前は?」
「分かりません」
ちょうどこのとき、マッド・マーダーズのスイスにある口座の桁数がひとつ増えた。
「あなたが脱出中にマスクを剥いだってきいたわ」
「グッド・キラーズ側のスナイパーがこちらを狙っていたので、挨拶代わりです」
「挨拶。あなたがそうした行動に出るのは珍しいわね。輸血パックは?」
「グッド・キラーズのスナイパーにひとり、血が苦手なスナイパーがいるときいたことがあったので、もしやと思ったのです。それが当たったようです。……あの、社長、何かおかしなことを言いましたか?」
社長は首をふったが、まだ笑みは振り切れていない。
「あなたにそんな遊び心があったなんて。ちょっと意外で驚いているの。ごめんなさいね」
「いえ。お気になさらないでください。また、新しい仕事がありましたら、いつでもお呼びください。いつでも対応できるようにしています」
「あなたが仕事に熱心なのは分かるけど、休息もプロの仕事のうちよ。しっかり休んで」
「はい」
ソフィアはまさに殺人兵器だった。感情を廃して、無音で誰にも気づかれることなくターゲットを仕留めることもあれば、今回のように無駄な音や動作を発する暗殺も冷静に対応できる。このどちらもできる人材は暗殺請負業ではそうそういない。
一階に降りる。社の送迎車はみな出ていたので、竹下通りへ出た。側面がひどく裂けて塗装の剥げたタクシーが一台停車した。ついているランプは玉子焼き型である。そのドアが殺人も辞さない速度で開くと、ソフィアは後部座席に乗った。
「やあやあ。どこまで?」とびきり機嫌が良さそうなタクシー運転手がたずねた。
ソフィアが告げた住所は日本で最も高い家賃を誇るタワーマンションだった。
「今日は機嫌が良くてね。赤信号も無視していきますよ。なあに、パトカーなんて、振り切るのは世話ない。たまにはパトカーに追いかけられたほうが健康にいい」
「安全運転でお願い。それと、このウィンドウについてるのは血?」
「ああ、気にしないでください。女房の血です」
ソフィアは車外の流れる都市の景色を見た。その姿は外資系のキャリアウーマンにしか見えない。眼科医も水族館も空の上にある都会ではありふれた職業だ。
自宅のあるタワー・マンションで降り、『お客様の声』には大変素晴らしい安全運転だったと書き、大理石のホールを横切って、四十五階以上のエレベーターに乗る。
そして、四十八階で降り、深すぎて足が取られそうな絨毯の廊下を歩き、自分の部屋のカード・キーを差し込むと、玄関と廊下の明かりが自動で点灯した。
キャバ嬢が質屋に持ち込むお客からのプレゼントよりも数段ハイグレードなバッグをソファーに放り、ジャケットをハンガーにかけると、ポケットから鍵を取り出した。
その五つの鍵はひとつのドアを開けるために使う。その部屋はリビングと廊下のあいだにある目立たないドアだ。
そのドアの錠をひとつひとつ解いていく。そして、部屋に入ると――。
そこには鵜手羽アタルの盗み撮りされた写真が壁を覆い尽くしていた。そのなかにはアタルがイツカと藪蜘蛛常連客とのあいだに立ち入って、争いを収めた写真まである。
「ああ、鵜手羽アタルさま。あなたのすぐそばでついに狩りができた。やっと、会えた。アア、あなたを撃ちたい、あなたに撃たれたい、あなたのスポッターになりたい、あなたのライフルになりたい、あなたのスコープになって、あなたの瞳をすぐそばでまっすぐ見つめたい」
うん。そうなのだ。
クールな美人スナイパー、ソフィア・橘・エヴルスカヤはヤバい人なのだ。
次回更新は 2022/12/31 七時過ぎの予定です。