3.合成皮革靴クライミング
アタルのような零細企業勤めのスナイパーは何でも自分で用意しないといけない。
南の海のタックス・ヘイヴンで、多国籍な依頼を受けて、気軽に狙撃をする世界的なスナイパーはただ狙撃地点に行き、狙撃して、あとは逃走からもみ消しまで専門職のバックアップに丸投げできるが――そのうち狙撃そのものも丸投げするだろう――、しがないサラリーマン・スナイパーは狙撃地点の選定やらビルへの侵入やら逃げる手はずやら、全部自分でやらないといけない。
ただ、アタルはまだいいほうだ。
残業代が出る。
もっとひどい会社になると、サービス残業は当たり前、下手をすると仕事の持ち帰りまでさせられる。
夜の十時。残業戦士たちの半分が帰る時間。残り半分のことは考えたくない。精神衛生によろしくない。
アタルとイツカは五十階建てのマンタ・ビルの前で九時半に待ち合わせた。アタルが思うに、この少女は遅刻三十分がデフォだ。そう思い余裕を見たのだが、実際、彼女がやってきたのは十時半だった。
「三十分遅刻!」
「ひゃっ! 怒っちゃやッス。アタル先輩。すま~いる」
「はあ、きみも社会人なんだから。学生気分でいられたら困るよ」
「申し訳ッス」
「僕は狙撃ポイントを確保するために動くから、きみは僕の邪魔をしないこと。いいね?」
「御意ッス」
アタルはライフルにロープとつながったフックを差し込み、夜空に向かって撃った。
フックがマンタ・ビルの屋上の端にある欄干にひっかかったのを用心深く引っぱって確認すると、ライフルを背負って、ロープをよじよじとよじのぼり始めた。
大都会の夜景を構成する光ひとつひとつは企業戦士たちの時間外労働が灯す電気の光だ。
だが、マンタ・ビルの表面をぬべっと覆いつくしたガラスはひとつとして電気がついていない。
東京のオフィス街に立つ五十階のビルに本社を持つ会社ともなると、悲惨な残業などないものだと信じたいが、ひょっとすると電気を切られて、パソコンの光だけを頼みに残業させられているのかもしれない。
政府主導のノー残業政策は企業と労基のとんち比べにまで落ちている。
「アタル先輩」ちょうど半分くらいの地上八十メートルくらいまで登ったとき、イツカがたずねた。
「なんだい?」
「それ、登りにくくないッスか?」
それ、とは企業戦士の戦装束であるスーツである。アタルは近所のスーパーの衣料品売り場で同じ色のスーツをまとめて三着買って、着潰さないよう細心の注意を払っていた。
「いいかい、イツカくん。就業中はスーツ。これはサラリーマンの基本だよ」
「でも、TPOってもんがあると思うッス」
「きみの口からそんな理知的な言葉が出てくるとは思わなかった」
「わたしなんか縄のぼるってきいたからスニーカーをゴム底の足袋に変えてきたッス」
「殊勝な心掛けだ」
「革靴はさすがに上りにくいと思うッス」
「これは革靴ではない。合成皮革靴だ。本物の革でできた靴とはイタリア系のちょい悪オヤジが履くものだ」
「まあ、どっちでもいいッス」
「どっちでもいい? 値札のケタ数がひとつ違うのに? きみ、ひょっとして大地主の娘とかだったりする?」
「実家は農家ッス」
そのとき、ガラスを震わせるビル風が真下からふたりをあおった。
ジャージに運動用レギンスのイツカは足袋のゴム底でしっかりガラスを突っ張って体勢を安定させたが、アタルはというと、風をもろに食らって、右へ左へゆれて、窓ガラスにぶつかって、しかもスーツのすそがビラビラはためき、胸ポケットに差していた無料配布のボールペンがパッと虚空へ飛び立った。
つまり、踏んだり蹴ったり。
ボールペンはそのまま雑居ビルの谷間にこずむ街灯の道へと真っ逆さまに落ちていった。
「あっ、気に入ってたのに」
「やっぱり戻って着替えるッス」
「いやだよ。半分まで登ってきたんだから」
「これが賭博黙示録だったら、アタル先輩、真っ先に死んでるッス」
だが、これは賭博黙示録ではない。
ビル風が通り過ぎるまで健気に待って、それからまたよじよじと登る。右手で上の縄をつかみ、左足をロープごと右足の上に据え、今度は左手で右手より上の縄をつかみ、右足をロープごと左足の上に据え、右手で左手の上の縄をつかむ。この繰り返し。
複素数や世界史の暗記科目に悩む学生がよく「こんなもの勉強しても社会じゃ何の役にも立たない。なんで勉強しないといけない!」と悲鳴を上げる。その通り。複素数や世界史の暗記は社会に出ても役に立たない。だが、これら役に立たない科目を無理やり勉強することで、社会に出てから、何の役にも立たない不条理な仕事をさせられることへの耐性がつく。
「学生たちの悲劇は社会で行われる仕事全てがきちんと理由があって役に立つと誤解していることだ」
「わたしはそんなこと言わなかったッス。忍者はこれ修行あるのみッス」
「でも、ひとつくらい、これ、何の役に立つの?って言いたくなる授業があったんじゃないか?」
「うーん。九九は何の役に立つんだろうって思ってたッス」
「ちょっと待って、きみ、九九を暗唱できないの?」
「え? アタル先輩はできるんスか?」
「九九は常識だよ」
「でも、スマホで計算できるッス」
「現代っ子め」
「第二次ゆとり世代ッス」
「自分で言ってるんだから世話ないよ」
その後もビル風のカツアゲを食らって小銭や電卓、二番目にお気に入りのボールペンを落としながら、ロープ相手に格闘し、やっとマンタ・ビルの屋上に到着した。
そこは都会のどこにでもある屋上だった。
貯水タンク、古代の石板みたいに並ぶソーラーパネル、稲荷神社。
サラリーマン・スナイパーのあいだには屋上神社に関するオカルトはたくさんあり、たいていは神社にお賽銭を入れなかったために襲いかかった疾病の数々がおどろおどろしく、ときには誇張し、ときには控えめにして、語り継がれている。
アタルはビニールパックを破って、一枚三十円のお揚げを賽銭箱に入れる。これをやり忘れて、キツネに憑かれたサラリーマンを知っている。
「じゃあ、僕は仕事にかかるから、きみは誰か来ないか見張っていてくれ」
「御意ッス」
小さなライトを口にくわえて、地図と双眼鏡で狙撃ポイントを決める。すると、都会の建築ラッシュの奇跡で、あの問題のラブホテルがどのビルにも邪魔されることなく、まっすぐ一直線に見える場所を見つけた。
アタルは三枚千円のハンカチを広げて、その上に腰を下ろした。三枚千円はサラリーマンがハンカチに出せる上限と下限である。一枚334円以上のハンカチを買う気にはなれないが、これ以上安いものだと、一度洗濯すれば皺でぐちゃぐちゃになる。そんなハンカチを持っているのはサラリーマン的にアウトなのだ。
曲げて立てた膝に銃身を乗せて、あの黒い売春サイコロをスコープ越しに睨んでみる。
距離は五百四十メートル。
ターゲットは今日もその奇妙なラブホテルにいるのだが、このつやつやした黒い鏡面仕上げのサイコロには窓がない。
これでどうやって、なかにいるウズベキスタン人を撃つのか。
これに関して、会社は珍しくいかしたバックアップを用意していた。
赤外線スコープの鉄砲版。
そのスコープは原理はさっぱり分からないが、銃に反応する。
たとえば、このスコープでおまわりさんを覗くと、あの制式リヴォルヴァーがぴかあと光って見える。これは壁の向こうにある銃も反応するので、あのサイコロのなかにいる人間も識別が可能なのである。
社長はよく変なものを買ってくるが、たまには役に立つものがある。大半は役に立たないが。
さて、この魔法のスコープで倍率を二十倍に設定して、空いている左手はビル風マップを開いている。アタルが足で稼ぎ、全てのビル風を網羅して、それが弾道にどれだけの影響を与えるかを書き殴った秘密の手帳である。光化学スモッグのドームに閉じ込められた三十九度の日も、スウェットに着替えてこたつに深々と入ってから呼び出された気温二度のあの夜も、この手帳があったから乗り越えられたのだ。
さて、スコープに内臓された小さいがガッツのあるバッテリーをオンにする。
すると、例のホテルがエレクトリカルパレードみたいに光り出す。あの黒い売春キューブのなかは卑猥な隠喩なしに銃だらけだったのだ。
中国がコピーしたAK、ガンベルトに差された二丁のマグナム、引き金を引いたら二秒で弾倉が空になるサブマシンガン。シャーロックホームズの時代に使われていたウェヴリー製リヴォルヴァー。
買うと恐ろしく値が張るドイツ製の狙撃銃が飾られているようだが、窓のない五階建てビルには豚に真珠だ。
さて、問題のウズベキスタン人だが、金色のデザートイーグルを持ち歩いている。
賭けてもいいが、金色のデザートイーグルを持つ人間は自分の銃を他人に貸したりしないし、それをホルスターに差さずに出かけることも絶対にしない。
光る鉄砲の不思議な光の現代アートのなかにひときわ強く光る銃を見つけた。
金色のデザートイーグルは実に主張が激しい。グリップは象牙か何かで、ダイヤモンドのようなものがハマっていたが、それは本当にダイヤモンドだった。
これは半狂乱のタクシー運転手がマカロフ一丁で立ち向かえる相手ではない。その意味でアタルの営業は大成功だ。
しばらく、金色のデザートイーグルはショルダーホルスターらしい位置にとどまって、あちこち動いていたが、そのうち、道路に沿った位置で座ったらしく、銃の位置が少し下がって、そのまま動かなくなった。
話し相手は手のひらに収まるくらい小さな銃を左の袖に隠していた。レールを上腕に縛りつけていて、ちょっといじれば、銃が手のなかに飛び出してくる仕組みだ。
「『タクシードライバー』のデ・ニーロみたいッス」
思わずスコープから目を外すと、隣でイツカが銃だけ見えるスコープを望遠鏡みたいにしていた。
「どうしてきみがそれを持ってるんだい?」
「社長がくれたッス」
「はあ。うちのリソース配分はいつも間違ってると思ってたけど、ここまでとは――邪魔だけはしないでね」
「御意ッス」
再びスコープに目を戻す。金色のデザートイーグルはまだ椅子に座り、隠し銃の男と話しているらしい。銃の動きを見ていると、心臓や頭の位置が分かる。
アタルは頭蓋と見定めた位置にレティクルを合わせて、引き金を絞った。
薬室に込めてあったのは鋼鉄で被膜したホローポイント弾だ。
顧客はブレイン・スペシャル・スプラッシュ・プランを注文している。
だから、まず鋼鉄で壁をぶち抜き、鋼鉄が剥げた後、あらわになった鉛のホローポイント弾がウズベキスタン人の頭蓋から脳みそをごっそりいただく。
デザートイーグルの動きを見ていると、ターゲットは椅子から真横に飛び跳ねるようにして倒れたようだ。
「よし。本日の時間外労働はおしまい。帰るよ、新人くん」
「御意ッス」
そして、腰を上げたときだった。
五十口径の対物狙撃銃が東京湾まできこえる銃声を轟かせたのは。
次回更新は 2022/12/27 七時過ぎの予定です。