2.外回り
藪蜘蛛ができたころ、このあたりには藪と蜘蛛しかなかった。
もし蛇がいれば、藪蛇。牛がいれば藪牛。恐竜がいれば藪サウルス。柿本人麻呂がいたら藪本人麻呂。
だが、まわりの藪からはいくら探しても蜘蛛よりネーミングが格好よさそうな生き物がいなかったようだ――ダンゴムシ、フンコロガシ、カメムシ。
藪蜘蛛は知る人ぞ知る名店というのとは違うが、一見さんには少し入りづらい空気がある。
ここで名物藪蜘蛛蕎麦を食べられるのは、会社や家族から雑巾みたいな扱いを受けるサラリーマンのみ、という鉄の掟があるのだ。ちなみにアタルはこの条件をクリアしている。
だから、新人――千秋イツカが雑巾みたいな扱いを受けている忍者でない場合、藪蜘蛛はのっぴきならない状態になっている可能性が大なのだ。
引き戸を開けて、なかに覗うと、忍者刀を背負った芋ジャージの少女がテーブルの上に立ち、受けた攻撃を反撃に変換する魔法のカンフー・ポーズを取っていた。
「さあ、どっからでもかかってくるッス!」
「ぶっ殺すぞ、クソアマぁ!」
少女のまわりを殺気立ったサラリーマンが十重二十重に取り囲んでいる。
アタルはそっと引き戸を閉じて、藪蛇という慣用句を藪蜘蛛に置き換えてもいいくらいのトラブルから身を引きたかったが、このままでは新人と行きつけの蕎麦屋の両方を失うのは明白。――アタルは介入を決意した。
「あのお」と、イツカと客たちのあいだに割り込む。「なにかあったんですか?」
「おお、同志アタル! 藪蜘蛛入店規則を破るものが入店して、さらにそれだけでも万死に値するのに、この小娘、藪蜘蛛蕎麦まで頼みおった」
貯蓄会社の係長が言った。よほど悔しいのかそばにあったツユを一気飲みにする。
同志アタル、とはこの店でのアタルの呼び名である。社会から雑巾扱いされている証だ。
「すいません。この子、うちの新人なんです」
アタルはぺこぺこ頭を下げ、いまはまだ雑巾扱いされていないが、それも時間の問題なので、ここはどうか矛をおさめてほしいと頼む。
同志アタルが言うのであれば、と常連たちはひとりまたひとりと武装解除し、こうして藪蜘蛛に平和が戻ったのだった。
高架線沿いの商店街を歩きながら、イツカはプッと頬をふくらませている。
「ぶー、お蕎麦食べたかったッス」
「言っておくけど、あそこの常連さんたちは強いよ。なにせ会社でも家でも雑巾扱いされて失うものがなにもないから命捨ててかかってくる。それより、きみが千秋イツカで間違いないんだよね?」
「おっ、それはわたしの名前ッス。ひょっとして、ぼく、中学生ストーカーさんッスか?」
「違うよ。僕は鵜手羽アタル。きみの新人教育をまかされた。それと僕はもう二十七歳だ。中学生じゃない」
「それはそれは、どーもどーもッス。改めて、自己紹介するッス。千秋イツカ。伊賀南女子高等学校くノ一科卒業のぴっちぴちの十九歳ッス。好きなものはハンバーグ。嫌いなものは分数の計算。趣味は鳥獣戯画グッズ集め。特技はくノ一らしく色仕掛けッス!」
「うん。特技が焼き芋の早食いから色仕掛けに変わって、しかも芋ジャージにレギンスで忍者刀を背負った女子に色仕掛けができるとは思わないし、ぴっちぴちという表現には途方もなく濃厚な昭和の芳香がするけど、そのへんはいったん置いておこう」
「アタル先輩は心が広くて助かるッス」
「サラリーマン・スナイパーの毎日は妥協の連続なんだよ。きみ、近接戦闘による暗殺が得意ってきいたけど」
「そこんところは期待してもらってだいじょーぶッス。使える刃物は果物ナイフからチェーンソーまで何でもござれッス」
「じゃあ、ひとつ約束してほしいんだけど」
「なんスか?」
「僕の前でその血みどろゲロゲロになるようなことはしないで欲しい」
「……へ?」
「簡単だ。僕の前で刃物を使った暗殺はなし」
「んーん? 理由きいてもいいッスか?」
と、小首をかしげるので、
「ダメ」
一刀両断。
「うーん。細かいことはよく分からないけど、まあ、分かったッス。血が出ないやり方なら殺してもいいってことッスね?」
「カンのいい小娘は大好きだよ」
「好きって言われても、わたしと結婚できないッスよ」
「そりゃあ、まあ、僕にも選ぶ権利はあるからね」
「ん? いま、馬鹿にされた気がするッス」
「気のせいだよ。ところで、今日、社長からはどんなことをやるって言われてる?」
「シャチョー?」
「すごく長い金髪の」
古いパソコンみたいにジジ、キュイーンと音が鳴りそうな頭を両の拳で挟んで、三十秒。
「あー。あの、いつかたぶらかした女の子たち全員に出刃包丁で刺されそうなイケメンさんのことッスか」
「そう、その出刃包丁で刺されそうなイケメン」
「今日は一日、アタル先輩についていって、その仕事を見るようにって言われたッス」
社長、面倒になって僕に丸投げしたな、とアタルはため息をつく。
今日は営業の仕事がある。が、この子を連れていくのにはただ不安しかない。とはいえ、アタルに社の人事をどうこうできるわけはないし、後輩の育成もサラリーマンの仕事のひとつ。
いま、ため息をつけば、肩が矢印みたいにがっくり落ちるので、小さくため息をつき、
「わかった。じゃあ、今日の出先に連れてくけど、お客さまに失礼がないようにね」
「御意ッス」
アタルの営業というのは、もちろん暗殺契約を取ってくるということだ。
この世界、普通の人が考える以上に殺気に満ちていて、後は機会と方法だけというところまで出来上がっているのが多い。
実際、アタルは昨日、その一例に出くわした。
時間外の狙撃を成功させた後、終電が目の前でピシャリと扉を閉じたので、自分へのご褒美兼必要経費としてタクシーを拾って帰ったのだが、その運転手がアタルをコンクリート・ジャングルに連れて帰るかわりにやたら外国語が目立つラブホテル街に入り、メーターを止めた。
停車したのは、外装が艶々の真っ黒なラブホテルが見える角で、通りに面した壁からクロムメッキしたキリル文字が浮き出る形でライトを当てられ、安物のアクセサリーみたいにピカピカしている。
「女房がいるんだよ」
運転手は愛を育む黒い箱を指差した。
「相手はウズベキスタン人でそりゃあ立派なイチモツの持ち主でよ。日本語も達者だ。わざわざおれの仕事場――っつうのは、この車じゃなくて営業所なんだが、そこに金ぴかのデカい指輪やらネックレスやらを見せびらかしながらあらわれて『お前の嫁さん、すげえマンコの持ち主だな、おい』とかほざきやがった。そりゃ怒ったさ。ぶち殺してやりたいとも思ったが、金ぴかなのはアクセサリーだけじゃなくて、銃も金ぴかだった。デカい銃でよ。デザートイーグル。バイオハザードなんかで手に入ると、ゾンビが面白いように吹っ飛ぶやつだ。あのクソ野郎とクソ女房はおれへのあてつけにクソメールにクソ画像を添付して送ってやがるんだ。なにもできないと思ってな、でも、これ、見ろよ」
運転者はブレザーの前を開け、革製のショルダーホルスターに入ったマカロフを見せた。
「甲斐性なしのタクシー・ドライバーにしちゃ見事なもんだろう? 都心でタクシーを十年も転がせば、そういうコネができるんだ。銃、ドラッグ、ワケありの女。なんでもござれよ。ウズベキスタンじゃタクシー・ドライバーをカーペットの代わりに床に敷いて踏んづけてもいいって法律があるのかもしれないがな、この日本じゃタクシー・ドライバーは全てを支配してるんだ! おれがあいつだ、やっちまえ!と指差すだけで、日本じゅうのタクシーがブレーキうっちゃらかして全速力で突っ込んでくるんだ! あんた、どう思う?」
「つまり、不倫相手を殺害したくて、その自動拳銃を使って相手を射殺する予定があるということですね」
「そうだ」
「それでしたら、僕もご協力できるかもしれません。あ、申し遅れました。わたくし、こういうものです」
「株式会社グッド・キラーズ、営業・狙撃担当、鵜手羽アタル……なんだ、こりゃ?」
「はい、わたくしどもは質のよい暗殺をリーズナブルな価格で提供する暗殺請負会社です」
その後、いろいろ売り込んで、ロシアン・マフィアにコネをもってるウズベキスタン人を殺るのにマカロフ一丁では荷が重いとわかったのだろう、詳しい話を明日ききたいとアポが取れた。
火の玉交通というどこの無線基地を使ってるのか分からない怪しげなタクシー会社所属の刈田オサム、三十六歳。午前から午後二時くらいは新宿駅西口で客を拾っている。
地面がごっそり大陥没したみたいな西口ロータリーには様々なタクシーがぎちぎちに集まっていた。提灯ランプ、アヒルランプ、謎の三角形ランプ。タクシーの数だけ異なる形のランプがあり、刈田オサムのタクシーのランプはカッパ橋で特注した玉子焼きの形をしていた。
「玉子焼きグッズを身につけてる人に悪い人はいないって、ばあちゃんが言ってたッス」
「今朝のニュースのサラリーマン占いもラッキー・アイテムは玉子焼きだって言ってた」
刈田オサムはハンドルを握り、ベトナム戦争でPTSDを食らった海兵隊員みたいにうつろな目をして、ぶつぶつつぶやいていた。ドアウィンドウが少し開いていたので耳を澄ませてみると……
コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス――
「あ、ばあちゃんが言ってたのは玉子焼きじゃなくて明石焼きだったッス」
と、イツカは右足を上げたまま、左足を軸にくるっと百八十度方向転換したので、アタルは背中の忍者刀をしっかりつかんだ。
「こらっ、逃げるな」
「この人怖いッス。絶対ヤバい人ッス」
「ごく普通の人から見たら、僕らの仕事も十分ヤバい。ほら、行くぞ」
ヤバい人がクライアントになることなど、しょっちゅうのことだ。そうしたヤバい人からどう契約を取るか?
サラリーマン・スナイパーの腕の見せ所である。
「あの、刈田さん」
「コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス」
「刈田さん!」
「コロスコロスコロ――ん? あんた誰だ?」
「昨日お会いしました。グット・キラーズの鵜手羽です」
「ああ。あんたか。ちょっと待て。ドアを開けるから」
後部座席のドアは殺人も辞さないハイスピードで開いた。
「改造したんだ。ウズベキスタンの間男が間合いに入ったときのことを考えて。それに『お客様の声』とかいうくそったれなアンケート用紙におれの悪口書いて営業所に送るとかぬかすカスみたいな客もこれでぶっ叩く。このドアでぶん殴られたらよ、まるでピンボールみたいにぶっ飛ぶ。あんたも『お客様の声』におれの悪口書くか? 赤信号無視してくれなかったとか」
「いえいえ。むしろわたくしどもにしてみると、刈田さんがお客さまですから」
「じゃあ、おれが『お客様の声』を書いてもいいわけか。それともあんたもあれか? おれみたいにドアが光の速度で開くように改造してるのか?」
「わたくしどもは『お客様の声』に寄せられた全ての意見を伺いまして、提供できるサービスをさらに向上させます」
「よし。まあ、乗れよ。そんなところに立ったままでいることもないだろ?」
アタルとイツカがタクシーに乗ると、刈田は目的地もきかずにタクシーを発進させた。
ロータリーはバンパーのあいだ五ミリまでぎっしり止まっていたから、無理やり隙間に入り込むタクシーの両側から金属が引き裂ける耳障りこの上ない音がギャリギャリ鳴る。
「バカ!」「死ね!」「テメー、どこで免許取った!」などなどの罵声がポンポン弾けて、刈田ほどではないが狂気の縁に立っていたタクシーの運転手たちが手にバットを持ち、商売敵のタクシーの上に飛び乗って提灯めがけてバットを振り下ろすというホッブスの言うところの『万人の万人に対する闘争』が始まった。
刈田のタクシーが地獄の坩堝と化した西口ロータリーから脱出して、甲州街道に向かうころには刈田はでかい蛇が飛んでいるといった。アタルとイツカには何も見えなかったが、刈田には発狂タクシー運転手たちの自然権を取り上げに行く空飛ぶ巨大蛇が見えていたのだ。
「リヴァイアサンだ! へそ隠せ! 自然権を取られるぞ!」
だんだんアタルも心配になってきた。
「それで、あの、昨日ご説明したプランですが――」
「ああ、ブレイン・スペシャル・スプラッシュ・プランで頼む」
「頭部への狙撃をご所望ですね」
「近頃の医者は優秀だからよ、頭に一発食らっただけなら生き返らせることができるらしいじゃねえか。だからよ、やつの脳みそをごっそり全部ぶちまけるんだ」
その有様を想像しないよう注意しながらアタルは細かい注文を取っていく。
「それでは使用銃弾について、お決めしたいのですがご希望の銃弾はございますでしょうか?」
「例のホローポイントってやつを頼む。ほら、パンフレットにあったやつ。命中したら体のなかで変形して、内臓全部ぐちゃぐちゃにするやつ」
「では、ホローポイントで頭部狙撃。それと現在、もうひとり暗殺を注文していただけましたら、半額になるキャンペーンもございますが?」
「それって女房も殺すかってことか?」
「そういうことになりますね」
「それはパス。あのクソアマはおれがぶっ殺す。バンパーにつないで、首都高の風になる。アスファルトであのクソアマを大根みたいにおろしてやる」
その有様を絶対想像しないようにしながら(アタルはそういう専門の訓練を受けていた。自費で)、電卓を取り出して、基本プランに様々なオプションを加えた結果の値段叩いて、刈田に見せた。
「もうちょい安くならねえのか?」
「うーん、では、これでどうでしょう?」
「これじゃあ、タクシーで体当たりしたほうがマシだ」
「じゃあ、この値段で。もう、ご奉仕ですよ。利益が出ないですよ」
「しゃあねえか。まあ、これから三年は第三のビールすら飲めないが、それだけのことをしたんだ、やつらは」
タクシー運転手はグローブボックスから実印とぐにゃぐにゃした朱肉の入った漆の入れ物を出し、まるで親の仇の肌にタバコを押しつけるみたいにぎゅっと契約書とお客さま控えの契約書に印を捺し、割り印も押した。
「じゃあ、頼むぜ。おれは女房を引きずるときに使うチェーンを買いに行く。お客様の声にはおれが安全運転してたって書いておいてくれ」
次回更新は 2022/12/23 七時過ぎの予定です。