22.ザ・タブロイド
さて、ある水曜日。
アタルはイツカを連れての外回りを終え、夕方にいったん社に戻るのだが、その前にちょっとはやい夕ご飯を食べようと試しに藪蜘蛛によってみると、なかにいるサラリーマンたちが、
「おお、同志アタル! 準同志イツカの洗礼に来たのだな!」
と、いつかの敵意が嘘のように迎えられた。
イツカはおそばを使った洗礼を受けて、晴れて藪蜘蛛の同志になった――つまり、社会から雑巾扱いされたと認められたのだ。
「あんな店、頼まれても、もう二度と行かないッス」
「いや、本当はおいしいんだよ」
「えー、もう、気の抜けたコーラでざるそばを食べるのは勘弁ッス」
「あれは儀式なんだってば。コーラでざるそばを食べることで社会が押しつける常識から解き放たれて、晴れて藪蜘蛛の同志になれるんだ。藪蜘蛛の揚げ玉でかけそばを食べたら、もう、他のおそばは食べられないよ」
グッド・キラーズに戻ると、負け戦に消沈する落ち武者みたいになった営業社員たちがその日の報告書をパソコンでポコポコ打っていた。
「なんか、みんなしょげてるな。でも、案件は普通にとれてる」
すると、アタルと同じ営業・狙撃担当の殻林がクエスチョン・マークで頭のなかをいっぱいにしたアタルに、ある女性誌のあるページを開いて、渡した。
「なになに……今をときめくイケメン人気声優に熱愛発覚……お相手は、謎の超ハーフ美人、……ああ、橘さんか」
レイジとソフィアが腕を組んで歩いている写真。
ドトールか何かから出てくる写真であって、ラブホテルやお泊りデートではない。
ただ、もう一枚の写真はレイジが片膝をつき、ソフィアの手を取っている。
指輪がないだけのプロポーズスタイルである。
アタルは最初、その記事をニコニコ読んでいた。
彼の思う通りである。ふたりの遺伝子がアミノ酸をつなげまくって、もう生まれながらの美形のエリートをこの世に生み出し、アタルはふたりに厳しく声優の道を叩き込まれる(狙撃ではない)、そんなふたりの子どもに優しいおじさんポジションを――
などと考えていたら、突然、アタルの機嫌が悪くなる。
「あれ? アタル先輩、どうしたんスか? だって、アタル先輩にレイジっちとソフィアっちが一緒になるのはいいって言ってたっす。……ははーん。わかったッス。アタル先輩、実はやっぱりソフィアっちのことを狙ってたんスね」
「ちゃうねん」
「なんで関西弁やねん、ッス」
「いいかい、イツカくん。レイジくんと橘さんが夫婦になることは先日に言ったように理想的な展開だ。それは今も変わらない。問題はこれ!」
そう言いながら、雑誌の該当箇所を人間のクズどもを葬ってきた人差し指でビシビシ突つく。
「ここ、読んでみて」
「なになに、笹貫レイジは昨今、声優業を半分にセーブしているという情報もあり、それがこの美人との関係がうんぬんかんぬんのミカンをむきむき冷凍ミカンはおいしいな、っと。これがどうかしたッスか?」
「半分にセーブしてる! つまり、レイジくんがディミトリに吹き込める声が! 魂が! 半分になってるってこと!」
「それって重要なことッスか?」
「超重要だよ!」
「アタル先輩。こういうときはマイナスから考えるッス。本当だったら、、レイジっちはサラリーマン・スナイパーひと筋、声優のほうは0パーセントだったッス。それが50パーセントに増えたッス。ゼロから50。そう考えるッス」
「それは欺瞞だよ、イツカくん。これはゼロから50じゃなくて、120から50の話なんだ」
「アタル先輩のパーセンテージが国士無双を起こしてるッス」
「何とかしてもらわないと、あっ」
そんなとき、間がいいのか悪いのか、社長がお気に入りのフード・バンで買った夕食用大ボリューム・ブリトーを両手にほくほく顔で帰ってきた。
「社長! レイジくんが声優業に全力投球しながらスナイパーができる勤務形態を考えてくださいよ」
「えー、アタルっち無茶ぶり」
「無茶を可能にするのがサラリーマンです」
これについてはアタルは誇ってよかった。
たいていの会社では営業と現場が分かれていて、営業が自分の査定だけ考えて、無茶な納期で仕事をとってきて、後は現場に丸投げとえげつない行為が乱発しているが、アタルは営業と現場を兼ねたサラリーマン・スナイパーだから、無茶な納期で仕事を取ってくれば、それが自分にかかってくる。
だが、彼は自分で取ってきた無茶を自分で可能にする。
まさにサラリーマンの鑑なのだ。
「だいたい僕がいいって言っても、熊谷部長が却下するかもしれない」
そう言いながら、曇りガラスに部長室と加工テープが貼られたドアを見る。
アタルは社会から踏みつけられた藪蜘蛛常連客として、自分の命をポイ捨てする覚悟を決めると、上着を脱ぎ捨て、部長室に突撃した。
同じ営業部員はアタルが勝つか負けるかではなく、何秒間生きていられるかで賭けを始めた。
「あーあ。ねえ、イツカっち。いまから入れる生命保険ってあるかな」
「ないんじゃないッスか」
「まあ、救急医療体制として接着剤と泡盛があるからいいかなあ」
部長室からふたつの雄叫びが上がったが、どちらがアタルのものか分からなかった。
「いったたたた。我ながらよく生きてるもんだなあ」
傷ついた体を引きずって、今日もひとりの企業戦士が彼の家〈コンクリート・ジャングル〉へと帰ってくる。
アタルの直訴は熊谷部長の秘技パンダ食いによって竹ごと食べられ、失敗に終わった。
だが、いまのアタルは史上最長時間、熊谷部長と戦った人類であった。
今日、傷ついたこの記憶が自信となり、明日の強さに変わる。
そう、アタルは声優業を半分にセーブしないでスナイパーをする勤務体系をあきらめていなかった。
自宅へ戻ると、カバンを適当に放り、体力が回復するまで玄関そばの畳でうつ伏せに倒れる。
松葉杖と三角巾以外の医療行為だらけでアタルが明日の戦略を考える。
さすがに身体へのダメージが大きい。
しかし、そこは精神論で乗り切る。
が、もう一声、精神論が欲しい。
笹貫レイジ声優業1200%計画(アタルのパーセンテージは既に天和とジャックポットとロイヤルストレートフラッシュをキメて、ラスベガスをすっからかんにしていた)は戦う意志になる。企業戦士のバラードもいいだろう。
だが、いま、アタルに必要なのは戦う男たちのこわばった心を柔らかくする慰問コメディアンだ。
ピンポーン。
チャイムが鳴る。大家はコンクリート・ジャングルにふさわしいチャイム音は熱いコンガドラムだと言っていたことがあって、一度鳴らしたら三十分鳴り続けるコンガに変えようとしたが、店子全員が反対の血判状を出したことで、どこにでもあるピンポーンに落ち着いた。
「はーい。どなたですか?」
ドアを開ける。
そこには企業戦士アタルの心を柔らかくする、慰問コメディアンが立っていた。
 




