1.(株)グッド・キラーズ
鵜手羽アタルの大家はなかなかあっぱれなユーモアの持ち主で自分のアパートに『コンクリート・ジャングル』という名をつけていた。
アパートの位置はちょうど境界線上にある――ビルディングは角ばっているほどセクシーだという理念に基づいてつくられた『オフィス街』と大手デベロッパーが狂ったように建売住宅を建てまくった『ベッドタウン』のあいだ。
弥生時代からここで不動産屋をしている古老たちが口伝している秘密のひとつにここの土地は昔、水路になっていて、その上を整地したので、昔の水路がいまも暗渠となって流れているというものだ。
そんな話が外に漏れたら、抱えている物件の価値がガクッと下がるので、決して紙面に残さず、親から子へ、子から孫へと一子相伝で伝えられている秘密の話。
それをなぜ鵜手羽アタルが知っているのかといえば、それは裏社会に生きるスナイパーだから――ではなく、入居する前、というより賃貸契約をする前に大家が教えてくれたのだ。
このアパートの下には水道があって、地震が起こると崩れて、そのままドボンするかもしれないと。
なにせ自分のアパートにコンクリート・ジャングルと名づける人なので、価値観が違う。
普通の大家なら店子に絶対知られたくないことも大家はなんでも教えてくれる。
「実は鵜手羽さんの部屋でふたり死んでるんだよ」
これも一年前、アタルが賃貸契約する前に教えてくれた情報だ。この大家、見た目がメキシコ亡命時代のトロツキーそっくりだった。山羊ヒゲと丸い眼鏡。それに声がキーキーしている。
「死んでるというのは、自殺、ですか?」
「うーん、それがちょっと微妙なんだよねえ。いや、ふたりともドアノブにタオルを巻きつけて、首を吊ったわけなんだけど、エッチな本が開いて置いてあったんだ。そういう自慰行為の最中にうっかり死んでしまった事故かもしれない。遺書も見つかっていないしね。ただ、最初が五年前、次が四年前と続いていて、ふたりとも窒息プレイで死ぬまで自慰をするなんて偶然、ちょっとありえないんじゃないかと思ってねえ。あれは事故だけど、そう仕向ける霊がいるのかもしれない」
ガクッとこけそうになるのをなんとか踏ん張って、
「それって、つまり、幽霊がおかずを与えて自慰をしろってけしかけるってことですか?」
「まあ、一応、お札は貼ってみたんだ。押し入れに。でも、なにが起こるか分からない。鵜手羽さんももしこの部屋で自慰をしたくなったら、それ、幽霊にたぶらかされてるせいかもしれないから、そのときは大急ぎで外に出て、風俗に行ってくださいね。これ以上、店子が自慰に失敗して死ぬのは見たくありませんから」
それが一年前の話。
だが、霊は一度もあらわれない。
そもそも、もし霊があらわれるとしたら、アタルが仕留めたターゲットたちが先に出る。
それが筋というものだ。みな順番に並んでいるのだから横入りはいけない。
ともあれ、土地が弱くて、いつ流されるか分からないことに加え、謎の幽霊まで加わって、アタルの住居費はとても財政に優しくなっている。築十八年、都内、駅まで徒歩五分の立地で月二万。
中小暗殺企業のサラリーマン・スナイパーにとってはとてもありがたい。
〈コンクリート・ジャングル〉は路地一本で同じく暗渠の上に立つ下町風情豊かな商店街に直結している――香ばしいお茶屋、青い陶器の専門店、おじいちゃんが店長なハンバーガー・ショップ、カードと中古ゲームを売るディスカウントショップ。
高架線の私鉄駅でオフィス街行きの電車に乗り、電車一両に人間何人入るかな?ゲームをさせられて、記録を更新し、新宿駅で降りる。デパートや商社から離れた区画――チケット屋やサングラス屋が集まった区画にある雑居ビルの三階。
そこにアタルの務め先である株式会社グッド・キラーズがある。
タイムカードをパンチする。
出勤一番目は熊谷部長。部長室のドアをノックして、おはようございますと挨拶。
挨拶はビジネスの基本――というより人間社会の基本である。
ところで裏社会で暗躍する謎の暗殺組織の構成を説明すると、社長が一名、部長が一名、あとは平の社員が五名。課長や係長、主任といったものは存在しない。
平社員五名の机はふたりずつ対面するように置かれている。
だから、これまでアタルの机の左隣には何もなかった。
ところが、今日出勤してみると、奥多摩の分校からかっぱらってきたみたいな木製の学習机が置いてある。
この時期に新入社員がいるのだろうか? インターン研修?
なんだろうなあ、と思っていたら電話が鳴る。
「はい、お電話ありがとうございます。グッド・キラーズ、鵜手羽が承ります」
「あ、そちら、株式会社グッド・キラーズさまのお電話でお間違いございませんでしょうか?」
若い男の声。どこの会社か知らないが、たぶん今年入社したてだ。
この時期になると、今年度新入社員による無計画な飛び込み営業がぐんと増える。
「はい。そうですが」
「あの、恐れ入りますが、労務担当の方をお願いできますか?」
「申し訳ありません。弊社、午前九時からの始業でして」
「あ、すいません。やっぱり早すぎましたよね。でも、お話だけでもきいていただけますでしょうか。実はぼく、これが初めての営業電話なんです」
やっぱりそうか!
「どうぞ」とアタルはこたえた。どうせ他の社員が来るまで時間がある。
「弊社では業務中の被弾に関する新しい保険プランを用意してございまして」
「ふむふむ」
「通常、暗殺請負企業さんの任務遂行中の労災保険は銃弾摘出は三発まで保険がきいて、四発目からは自己負担が発生いたしますが、これが現状としてはショットガンの散弾にも同じルールが適用されています。通常、ショットガンで一発撃たれた方でしたら、その対人用散弾は六から十発、体内にございますが、これが三発まで保険が適用され、それ以上は保険適用外でした。ですが、散弾で撃たれるお客さまからのご要望もありまして、弊社では散弾は弾数ではなく、重量で保険適用を決める新プランをご用意いたしました。例えば、スタンダード・プランでしたら、散弾摘出は四十グラムまで保険が適用されます。これだけの重量なら鳥撃ち用もダブル・オー・バックも全弾摘出できます。御社のほうでもぜひ一度ご検討していただければ――」
「そうですね。ただ、弊社のほうでもお付き合いしている保険会社がございまして」
これは嘘だ。
実際は労災保険などない。
撃たれたと報告したら、メスとペンチと泡盛が渡されるだけだ。
グッド・キラーズのような零細企業の弾丸摘出手術に対する理解は戊辰戦争あたりで止まっている。
それでもプロに徹しなければいけないのが、サラリーマン・スナイパーの辛いところ。
そのうち、他の社員たちもぼちぼち姿を見せ始め、最後に社長がやってくる。
社長はなんとなく体積が金色だ。まばゆい金髪が膝関節くらいの位置にまで伸びている。スウェーデン人とのハーフらしいのだが、度肝を抜く美貌の持ち主で、その欠点のない肢体にキザで間抜けなナルシーが魂として詰まっている。
「アタルっち、アタルっち」
社長は椅子に座るなりオイデオイデしてくる。
サラリーマン力学の不思議な作用により、社長が平社員と同じ相部屋で仕事をしていて、熊谷部長が個室をオフィスにもらっている。だから、社長までの距離はほんの四歩足らずだ。
「はい、何でしょう?」
「ブリトーあげる。昨日頑張ったから」
「は、はあ」
「アタルっち、すごい! アタルっち、えらい!」
社長がブリト―をくれて、へたっぴな持ち上げをしてくるときは決まって何か面倒なことを押しつけてくるときだ。
「アタルっち、ヘヴィ! アタルっち、プリミティブ!」
「……あの、社長。そろそろ、何を押しつけるつもりか教えていただいてもよろしいでしょうか?」
「押しつけるだなんて、人聞きが悪いなあ、アタルっち。僕はちょーっと、きみに新人を任せたいと思っただけなんだ」
「新人? この時期に?」
「アタルっち。僕らは冷凍食品を売ってるわけじゃないんだよ? 僕らの業界じゃ新人はいつ来るか分からない。これ、ジョーシキ。アタルっちはダメだなあ。アハハ」
「はあ。それでその新人ですが、もしかして、その人の席は僕のデスクの隣にある、あのやけに古ぼけた机ですか?」
「吉祥寺のアンティーク・ショップで買ってきたんだ。いかすでしょ?」
「パワハラだと思われますよ」
「えー、あんなにシブいのに」
「僕じゃないとダメですか?」
「だってねえ。アタルっちはいい仕事するけど、ほら」
と、社長がスマート・フォンを見せる。
動画投稿サイト・ビューチューブが流している動画は昨日アタルが済ませた仕事その一。
クソガキの額から弾が入り、後頭部をぶち破って、骨のかけらや脳漿が飛び散る様がしっかり映っている。
ぶくぶくぶくぶく!
泡を噴いてひっくり返ったアタルは天国の門へ、かなりいい位置まで近づいた。
天国の門の前には不機嫌そうな老人がいて、大きな鍵を腰から下げているのだが、そこで「目覚めよ、アタルっち。目覚めないとチューしちゃうよ」という社長の声がきこえたので、大急ぎで罪にまみれた現世へ戻ってきたのだった。
目を覚ましたアタルの第一声は、
「社長! グロ画像は見せないって約束したじゃないですか!」
「まあまあ。これ、グロ画像じゃなくてグロ動画だし。というよりも、アタルっち。真面目な話、血に弱すぎるよ。僕らの業界、どうあったって流血は避けられない。きみが中距離から長距離の狙撃を得意とするのは、それは百メートルか二百メートルの近距離じゃ、自分が吹っ飛ばしたターゲットの脳みそが見えて泡を噴いちゃうちゃうからだ。スナイパーとしては超一流だけど、もちっと近距離での暗殺について考えないと。それで、今度の新人に話がいくわけ」
と、差し出されたのは履歴書だった。
ちょっと癖のあるショートヘア、目尻が少し下がり気味のなんだか眠そうな顔の少女の写真が縦三六ミリ、横二四ミリの枠を無視して斜めにセロテープでバッテンにつけてある。
「社長。この子が着てるの、芋ジャージですよね?」
「見るべきはそこじゃないよ、アタルっち」
「え? だって、採用試験の履歴書に芋ジャージ姿で、しかもその写真はセロテープで貼られていて、おまけに枠からはみ出してて――」
「アタルっち。そんなふうに女性の欠点ばかり挙げてちゃ、僕みたいなモテモテになれないよ。ほら、もっと大きな視点でいいところを見てあげて」
「は、はい。じゃあ、大きな視点で」
三重県伊賀市出身。現住所は都内。吉祥寺だ。現在十八歳で伊賀市内の女子高を出て上京したばかりだが、アタルよりもいいところに住んでいる。
持っている資格は普通自動車運転免許とピカソ検定二級。これはピカソの本名と洗礼名を暗唱できたら取れる資格で非常に取得困難なことで知られる検定だが、悲しいことに裏表どちらの社会でも使い道がない。
そして、特技は焼き芋の早食い……。
「社長。わが社の採用基準を見直す必要があるんじゃないでしょうか?」
「アタルっち。もっとよく見て。特技のところにもうひとつあるでしょ」
「特技? えーと……ひょっとして、この『忍術』ってやつですか?」
「そう! 忍術だよ。彼女はニンジャなんだ!」
「社長、今日早退してもよろしいでしょうか?」
「待って、待って! アタルっち! いいかい? 彼女はね、現代社会という名のコンクリート・ジャングルを生きるニンジャなんだよ」
「なんだか大家さんみたいなことを言いますね。……で、僕はニンジャに狙撃を教えるんですか?」
「ううん」
「じゃあ、僕が手裏剣投げを教わるんですか?」
「アタルっちは長距離の暗殺ができるけど近距離が苦手、この子は長距離の狙撃はできないけど、近接戦闘のエキスパート。これって割れ鍋に綴じ鍋ってやつだろう? お互いの短所を補い合うんだ。きっと、ゼッタイ、うまくいく!」
「そ、そうでしょうか?」
「アタルっち、僕には未来が見えるよ。最初はいがみ合うふたりが命がけのミッションを通じて、少しずつ心を許し合って、いつの間にか名コンビになってしまっている未来がね」
「……社長。このあいだ、人間ドック行かれましたよね?」
「うん」
「脳波測定はしてもらいました?」
「してもらってないけど、なんで?」
「いえ、特に深い意味は……してもらったらいいんじゃないかなー、って思っただけです」
「まあ、とにかく管理職候補として、がんばって」
「管理職、といっても、社長と僕らのあいだには熊谷部長しかいらっしゃらないじゃないですか」
「でも、熊谷さんが北海道に鮭を狩りに行っているあいだは管理職がいない。そこが成り上がるチャンスだよ、アタルっち」
「でも、熊谷部長の休暇中に僕がその後釜に座ったら、アタマ食いちぎられますよ」
「出世って蹴落とし合いだよねえ」
「こんな狭い社内で蹴落とし合いなんてしてたら、社は空中分解してしまいます」
「じゃあ、蹴落とし合いをしないってことは社員ひとりひとりが家族のように馴れ馴れしく――じゃなくて、親しく付き合うってことだから、新人の面倒も家族みたいにみられるってことだよね?」
「いや、蹴落とし合いをしないってだけで家族と見なすのなら、町で会う人みんな家族じゃないですか」
「人類みな兄弟だよ」
「その兄弟を僕らは抹殺しているわけですね」
「まあ、一家にはひとりは面汚しがいる」
今の台詞のところだけ、フッと社長の表情が冷める。なんだか、ここで逆らうのはまずい気がちょっとだけしたので、アタルはサラリーマンの特殊スキル『自分が折れる』を発動させた。
「はあ。分かりました。新人の面倒ですね。で、どこにいるんですか?」
「どこって?」
「僕のときと同じでどこかよそで待たせてるんですよね?」
アタルが㈱グッド・キラーズに入社が決まったときは近くの漫画喫茶で待たされた。
それから、社長がやってきて、漫画喫茶が入っているビルの屋上からひとり狙撃して、実技試験に合格点をもらった。
社長がアタルをいきなり本社に連れてこなかったのは、本社があまりにもしょぼくて、はじめにこれを見たら、誰だって内定を辞退すると思ったからだろう。
「〈藪蜘蛛〉にいるはずだよ」
藪蜘蛛とはここから歩いて数分足らずで着く高架下の蕎麦屋だ。
騒音のハンデを帳消しにする味の良さと飛鳥時代から蕎麦屋をしていると言い張るガッツには学ぶべきところが多い。
芋ジャージのくノ一娘がそこでなにを学ぶのかは知らないが、蕎麦の早食いではないことを祈ろう。
次回更新は 2022/12/19 七時過ぎの予定です。