乙女心のスイッチ
「おはよう、莉子」
「おはよう」
前みたいに助手席のドアを開けてくれたので乗り込むと「閉めるよ」と声がしてすぐにドアが閉められる。
運転席に乗り込んだ新は、「ブランケット使う?」と後部座席に置かれているブランケットに手を伸ばす。
そして、私に手渡してくれる。
相変わらずのお姫様待遇。
というか、甲斐甲斐しい。
これに慣れたら私はダメ人間になりそうで少し怖い。
「今日はどこに行くの?」
「動物園に行こうかと思っていたけど、雨降ってきたから博物館は?」
「良いね」
「じゃあ、決まりだな」
早めのランチを食べてから博物館へと行き、たっぷりと時間使って展示物を見た。
やっぱり興味を示す場所や立ち止まる場所が似ていた。
こんなところで、好みが似ている事を実感する。
趣味趣向が似ていると、特に会話がなくても楽しいし、話したら話したで楽しい。
見学ペースが似てるから、あまり気を使わずにじっくり見学できるのも良い。
「今日はこの後どうする?何か見たいものとか行きたい場所ある?」
「あ、私イルミネーションが見たいな。雨上がったし」
「もうすぐクリスマスだもんな」
「うん。季節物だし」
「莉子はクリスマスどうするんだ?」
「どうって、今年は納会と被ってるよね?今年はうちの部署が係になってるから強制参加だよ」
我が社では、毎年年末の金曜日に納会が行われる。
グループ会社が経営しているホテルの一番大きな宴会場を貸し切って。
社員の参加は強制ではないとされているけど、暗黙の了解で基本的に参加しなければいけない空気が出ている。
ハートの強い人や気にしない人は遠慮なく不参加だけど、結構な人数が参加する会社の一大行事。
しかも、幹事は持ち回りでどこかの部署が担当するので、幹事になったら強制参加。
幹事のみ残業扱いにしてくれるので、多少残業代が出るのが救いだし、持ち回りで担当でなければ総務がやることになるだろうから、持ち回りは歓迎なんだけど。
それが今年は私の所属する総務部が幹事担当として順番が回ってきた。
その納会が今年はクリスマスイブの日と重なっているから、私にとっては仕事なのだ。
「納会はイブだろ?二十五日は?」
「二十五日は特に。毎年クリスマスは仕事してるか家でごろごろしてるか。どっちにしてもひとりだし。今年はカップルにはぴったりの曜日なのに、うちの会社はイブで金曜日に納会が重なってるって皆文句言ってるよね」
「今年は特にレストランは予約でいっぱいだろうな」
「あ、そっか。レストランね。クリスマスに良いお店って行ったことないなぁ」
「家派?」
「派ってことはないけど。ごと、あ、新は?」
クリスマスの過ごし方について、拘りはない。
私がクリスマスにレストランと縁がないのは、ただ単に、彼氏がいたのは学生時代だったから。
お互い学生だったから高いお店に行ったことがないだけ。
実家にいたときも、家族でクリスマスディナーを食べに行くようなハイソな家庭ではなかったから、クリスマス=レストランディナーという馴染みがない。
だけど、レストランという選択肢が出てくるってことは、新は、付き合ってた彼女と行ってたんだろうか……。
それとも家族でディナーに行くような家庭で育ったとか?
新の雰囲気からして有り得ると思いつつ、それよりも元カノ説のほうが濃厚だろうと考える。
何となく知らない過去の恋愛模様を想像して、勝手にモヤっとしながら新のほうを見る。
私から名前で呼ばれるのが余程嬉しいのか、はにかんで照れくさそうに笑っていた。
可愛い笑顔に弱い私は、すっかり心を掴まれていた。
「俺は別にどっちでも良い。どこで過ごすかよりも誰と過ごすかの方が大切だと思うから。でも女子はクリスマスや記念日に高級なレストランで食事するのに憧れるんじゃないの?」
「確かに。一度はおしゃれしていいお店でクリスマスデートしてみたいって憧れは、あるね。でも、本格的な超高級店は緊張しちゃうから、私はちょっとだけ背伸びしたくらいのお店が理想的かな」
「莉子は、……いや、なんでもない」
「なに?」
「いや、気にしないで」
言い出して止められると結構気になる。
気にするなと言われたら、それ以上聞けないけど。
「そろそろ行くか、イルミネーション。その恰好で寒くない?さっきまで雨降ってて一段と気温下がってるけど。手袋とか持ってきてるか?」
「うん。大丈夫」
手袋はこの時期ずっと鞄に入れっぱなしだから――という女子力の低い事は言わないでおく。
鞄の中から探し出した手袋をした上で、新と手を繋ぎイルミネーションの下を歩く。
夕暮れ時から灯り始めたイルミネーションは綺麗だった。
とはいえ、やっぱり寒くて早々に退散することに。
イルミネーションの下でロマンチックに……なんて、相当恋愛に酔いしれているか、燃え盛る情熱的な恋愛中か、防寒が完璧じゃないと無理だ。
今の私にはどの要素もなくて体が冷えただけ。
「もつ鍋屋、予約したけどいい?」
「うん。もつ鍋好き」
イルミネーションを見始める前、私がトイレに行ってる隙に、 店の予約されていた。
私の体が冷えるだろうからってもつ鍋をチョイスして、良い感じのお店を新が選んでくれて。
できる男は違うなとしみじみ思った。
スマートにこういうことされると……私の中の乙女心のスイッチが入っちゃう。
この後は乙女心のスイッチを入れてる場合じゃないのに。
勝手に笑い声が「うふふ」になって、笑い上戸になってしまいそうになる。
敵対視していたころの私を知られているし、新の前でうふふな私はできれば出したくないのに。
できればじゃないな。
いまさらどの面下げてって感じだし、絶対見られたくない。
浮かれているのが一目瞭然なんて恥ずかしすぎる。
冷静さを欠かないようにしなくちゃ。
通された席は二人にちょうど良い個室で、大切な話をするのにぴったりだった。
話をしなければいけないのはわかっているけど、切り出しにくい。
せっかくの料理だし食べ時を逃がさぬよう、ひとまず鍋をつついて体を温めた。
ついでにお酒も少々。
最近お酒の失敗をしてばかりだけど、今だけは酔った勢いを少し借りたい。
と思ったのに、気がかりなことがあると、意外と酔えないらしい。
新から切り出してくるかと思ったけど、全く切り出してくる素振りもなくて、変に緊張感が高まる。
相手から切り出してくれたほうが話しやすいけど、ここは私から切り出すのが誠意だよね。
意を決して顔を上げると、私の様子に気づいたのか新も顔を上げた。
眉を上げ、どうした?と促してくる。
「あのぅ……、例の。メッセージを送って既読無視されたって、言ったでしょ」
「うん」
「既読無視だと終わりがわかりにくいなと思っていたんだけど……既読ついてもやっぱりその後も返事が来ないのね。だから、これは完全に終わったって思って良いと思うんだよね」
「そっか。そうだな。既読付いたってことは読んでるわけだしな」
「うん。それで、その……新は、新と、えっと……」
あれ?こういう時って、なんて言えばいいんだろう!?
新からは『俺にしとけ』『俺を選んで』とは言われてるけど、どういう答え方をしても高飛車っぽくならない?考えすぎ?
「お願いします」だけで伝わる?
やっぱり私から「付き合ってください」ってちゃんと言うべき?
はっきり言葉にしたほうが、今後の付き合いを考えても安心だよね。
大人ぶって明確な言葉がないままいつから付き合ってるのか分からない状態は私には向いていない。
同じ轍を踏まないようにしなければ。
よし、ちゃんと言おう。
「あのね、新――」
「莉子!」
今度こそ本当に意を決して勢い込んで話出そうとしたら、新に大きめに名前を呼ばれて焦ってしまう。
「ん!?な、なに?」
「やっぱり俺に言わせて」
あ。
私がなんて伝えたらいいか迷ってるのを感じてくれたのかな。お見通しっていうか。
本当に私のことをよく理解してくれてるんだな……。
でも意を決した瞬間に止められたから凄い心臓バクバクしてるけど。
新が胡座をかいていた足を正座に変えて姿勢を正した。
それを見て、私も慌てて座り直した。
新の真剣な眼差しに、個室内の緊張感がピークに達した気がする。
「莉子、俺と結婚して」
「……………………」
付き合ってって言われるかと思ったのに。
え?いきなりプロポーズ!?
散々、結婚すると言われていたけど、本当に交際を飛ばすの!?
驚きすぎて言葉が出てこない……。
「莉子が俺に結婚って言い出したのは、失恋っていうのか、酔った勢いだったのはわかってる」
翔太から言われて愕然とした『酔った勢い』という言葉を新から言われると、胸に刺さる。すっごく痛い。
私って、翔太のことはあまり責めることができないようだ。
私が密かに自分のことが嫌になっているなんて気づかず、新は続けた。
「けど、あのとき俺はもう迷ってる場合じゃないと思った。酔った勢いでもいい。全力で乗っかった。翌日にたとえ莉子が覚えていなくても、記入した婚姻届は持ってるし、どうにでもするつもりだった」
「え」
「記入済婚姻届を見せたら、自分の字だってわかるだろ?そうしたら後はその事実を突きつけて。なんとしてでも認めさせて納得させようと……ってくらいの覚悟だった」
あ、びっくりした。
記入済婚姻届を勝手に出すつもりだという意味かと思った。
実はそんなに拗らせていたのかと焦った。
さすがに勝手に出すことは考えていないようで、安心した。
「莉子は冗談にしたがっていたけど、俺が結婚するって言ってたのも、婚約者だって言ってたのも、俺としてはずっと本気だった。逃さないために……」
それは、確かにわかる。
新から本気が伝わってきていたから、私はずっと戸惑っていたし、無碍にできなかった。
そして、絆された。
「ずっと、莉子のことが好きだったんだ」
「――……そう、なんだ」
あまりに切ない表情で絞り出すように言われて、言葉に詰まった。
「藤原莉子さん。俺と結婚してください」
「はい。よ、よろしくお願いします」
「まじか……」
少し前まで、酔った勢いで結婚って言ってた時は物凄く抵抗があったのに。
あれからそれ程経っていないのに、今回は不思議なほど違和感がない。
ちゃんと付き合ってもいないのに結婚を決めることに戸惑いがない訳ではないし、いきなりのプロポーズは予想外すぎてびっくりしたけど。
不思議なほどしっくりと受け止められた。
新の真剣なプロポーズがストンと私の中に落ちてきて、凄く嬉しいと感じた。
なのに、目の前の新は唖然としてるから、冗談だったのかと思って少し焦ってしまう。
少し前の私なら、『新なら今のなしって言いかねない』と思うだろうけど、今の私には、新は私にいつもまっすぐだとわかっているつもり。
だけど、あまりにも唖然とした様子で私のことを見ている新を見ていると、やっぱり承諾の返事が早すぎたのかも?と不安になってくる。
「えっと。もしかして冗談だった?」
私の問いかけに、ハッとした新は急に立ち上がった。
その勢いのままテーブルを回り込んできて、ガバッと抱きしめてきた。苦しいぐらいにぎゅううぅぅぅっと。
「冗談なわけない。……信じられないくらい嬉しすぎる」
私の肩に顔を埋めるようにしている新から、思わず溢れ出たような声量の呟き。
それは私の心の中を満たすには充分で、これからはもっと素直になれそうな気がした。
二の腕まで抱え込むように抱きつかれていて同じように抱きしめ返すことができない。
肘から先だけ持ち上げて新の頭をさわさわと軽く撫でた。
すると、肩や首におでこを擦り寄せてきて。
その可愛らしい仕草にときめいてしまう。
「俺、今死んでも悔いない。幸せな生涯だったと思える」
「いや、生きて。しっかりと強く生きて。長生きしてよ」
「ははっ。もちろん。莉子と生きていく」
私の肩から顔を上げた新の笑崩れた顔が可愛すぎて、愛おしさでいっぱいになった。
◇
「どれにする?莉子が好きなのはこれとかこれか?」
いつも通り水曜日は駅で待ち合わせ。
ご飯を食べに行くのかと思いきや、連れてこられたのはジュエリーショップ。
この時期は一番の書き入れ時で混雑する店内でも比較的空いているコーナーへ、新は一直線に私を連れて行った。
私と新の前にはガラスケースから取り出されたいくつかの婚約指輪。
ニコニコの店員さんを前に聞きにくいので、思わずこそこそと耳打ちする。
「これってクリスマスプレゼントってこと?」
「違うよ。婚約者に婚約指輪を贈るのは普通だろ?本当は俺が選んでプロポーズと一緒に渡したかったんだけど。この前は思わずプロポーズしちゃって、用意してなかったから。どうせなら気に入ったのをつけてほしいし、莉子が好きなのを贈ろうと思って」
せっかく私がこそこそと小声で聞いたのに、新は普通のボリュームで答えた。
店員さんは聞こえないふりをして、尚且つ少しだけ距離を取ってくれたけど、絶対聞こえてた。
ちょっと嬉しそうに甘い微笑みを浮かべて「思わずプロポーズしちゃって」とか……照れる。
自分でも顔が赤くなってるのは感じるけど、笑みを深めて「照れてるの?」って頬を撫でるのはやめて。
ずっと同僚としての距離感でいたのに、急に男の顔して甘やかされると調子が狂う。
それは少し前からだったけど、正式な婚約者になってから、新の甘やかしが天井知らずになってる気がする。
昔の私は、どうしてこんな人を意地悪の塊みたいな男だと思っていたんだろう。
「で、どれが好き?好きなの選んで良いよ。なんなら、このでかい石がついてるいかにもな指輪にする?婚約してるってわかりやすいし」
「うーん。折角なら普段からつけやすいのが良いから、いかにもなのじゃない方が良いな」
「そう?いかにもな方が莉子はもう誰かのものだってわかりやすいけど。俺のものだって。でも、普段使いしたいって考えてくれるのも莉子らしくていいな」
もう、今はとりあえず無視しよう。
新に付き合ってると、店員さんにも迷惑かけてしまう。
店員さんは慣れているかもしれないけど、私なら『爆発してしまえ』と考えてしまいそうだ。
「重ね付けもしやすそうだから、これとか良さそう」
新が私が好きそうだと選んでケースから出してもらっていた指輪のひとつを指さす。
新が最初に『これとこれ。これも見せてください』と言って出してもらった中に、丸と楕円の小粒の石が交互に並んだデザイン性のあるハーフエタニティがあった。
ガラスケースの中を自分でも一通り見たけど、結局新が選んだ中に私の好みのデザインがあった。
定番好きなミーハーとしては、大きな一粒ダイヤのいかにもな婚約指輪に憧れがある。
お洒落なレストランで、それをパカッとして『結婚してください』なんて言われたら、泣ける自信がある。
だけど、現実的なことを考えるといかにもな婚約指輪は、庶民には結構ハードルが高いと思うんだよね。
デザイン的に長く使いにくいし、婚約期間にしか着けられないようなデザインの指輪に何十万も出すなんて勿体ない。
ガラスケースのど真ん中に鎮座するそれは、ちらっと値段を見たら三桁で、思わず二度見した。
冗談でもそれがいいなんて言えない。
選んだ指輪を薬指に嵌めてみると、大小大きさや形の違うダイヤがキラキラと輝いていてとても気に入った。
(可愛い〜!)と乙女心のスイッチが入ってしまう。
「それが気に入った?」
「うん!可愛くない?」
「そうだな。他は見てみなくて良いのか?」
一通りデザインを見たし、何個かつけてみたけど、これが一番気に入った。
指にも馴染んでいると思う。
もう一度さっと見渡したけど――うん、やっぱりこれが良い。
「うん。これが好き」
「じゃあこれをください」
「ありがとうございます」
ちょっと待って!
デザインだけ見て「これ」と言ったけど、値札を見ていなかった。
店員さんがガラスケースの中から指輪を取り出したとき、値札は私からは見えない場所に置かれてしまったから、今更値段の確認もできない。
どうしよう。値段が知りたいと思っているうちに、新がカードでささっと支払いを済ませてしまった。
ここのお店、そんなに安いお店じゃないのに。
「ね、ねぇ。私値段見ないでこれって言っちゃったけど、大丈夫?」
「大丈夫。莉子が選んだのはそれほどでもないから安心して。それより、包んでもらう?このままつけて行っても良いって」
それほどでもないと言っても、安く見積ったとしても私からするとこんな簡単に決めた物に出せる金額ではないのに。
「え?あー、じゃあつけていこうかな。サイズも合ってるし、せっかくだから」
「かしこまりました。ケースやカードは別にお渡しいたします」
ジュエリーショップを出て、直ぐに私はきちんとお礼を言った。
「いや、礼なんていらない。俺としては早くここに売約済みの証をつけたかっただけだから」
返答に困ることを言うのはやめてほしい。
新は私がずっと彼氏がいなくて焦って婚活してた女だってこと、忘れてるのかな。
耐性がないんだよ!
その後、カフェで食事をすることにした。
この時期はどこも混雑していて、入りやすいのが全国どこにでもあるチェーン店のカフェだったのだ。
料理を待つ間、視線を落とすと薬指にはキラキラと輝く指輪。
乙女心のスイッチが入って思わず顔が綻んでしまう。
「良かった。莉子が気に入るのが買えて」
視線を新に戻すと、新も優しく微笑んでこちらを見ていた。
幸せの絶頂のような瞬間だと思った。