冗談だったとは思えない
「莉子」
会社近くに出店してるキッチンカーへランチを買いに行こうと会社を出たところで、外から戻ってきたらしい後藤に呼び止められた。
「ちょっと、会社で名前で呼ぶのやめて」
「何で?それに一応会社の外だろ」
「だって後藤は――」
「後藤?――俺のことも名前で呼べって言ったよな?」
今まで『藤原』と呼ばれていたのに『莉子』と呼び方が変わったら、何か特別な関係になったと勘ぐられるかもしれない。
だから注意したのに。
私が今まで通りに『後藤』と呼べば、ぐいっと一歩踏み込んで来たので後退り、踏み込まれまた後退り、あっという間にビルの柱の影に追いやられた。
その上、ぐいっと迫ってから名前呼びを強要してくるからドギマギしてしまう。
初デートの日、ラーメンを食べ終わってアパートまで送ってくれたら、またわざわざ車から降りて助手席の方まで来てくれた。
『送ってくれてありがとう。後藤も気を付けて帰ってね』
『莉子』
『ん?』
『これからは俺のことも名前で呼んで。後藤じゃなくて、下の名前で』
『なんで』
『……そう呼んでほしいから』
『わ、わかった』
少し照れたように『呼んでほしい』と言うから、こっちまで照れてしまった。
懇願するような視線に、思わず名前呼びを了承してしまったのだ。
きりっとした顔立ちで、不満げに目を眇られると迫力がある。
「か、会社の中とか、近くでは今まで通りに!」
「俺が呼ぶのも駄目なの?」
「駄目!」
「なんで?照れてんの?」
「照れっ!?だっ、駄目なものは駄目!」
「……バカだな」
「っ!」
初めて正面から後藤が私に『バカだな』と言ってるところを見ることができた。
ふわりと表情を緩めて、これではまるで……――――
『機会があれば見たらわかるよ』
なんでそんな顔……。
そういうことなの?
いつもいつも人を小馬鹿にしていたんじゃないの?
「わかった。嫌がることはしたくないし、会社では今まで通りに呼ぶ」
「うん……そうして」
「これからランチ?」
「うん」
「一緒に……は、だめか。これまで通りだもんな?」
「う、うん。それにお弁当を買いに行くだけだから」
「あー。あのキッチンカーのキーマカレーか?」
詰め寄っていた後藤がちらりと会社近くのキッチンカーを見やる。
ようやく離れてくれたことに、私はほっとした。
「何でわかったの?」
「好きそうだから。温玉乗せチーズキーマだろ?」
「それは、まだ決めてないし」
「ははっ、図星だろ?じゃあ行くわ」
「うん。じゃあね」
……って、なに笑顔で手を振ってるんだ、私。
後藤が手を上げて目を合わせてくるから、つい。
これじゃあ社内恋愛しているカップルの逢瀬のようじゃないか。
◇
[明日飲みに行こう。十九時半に△△駅西口改札前で待ち合わせな]
今週もまた後藤から一方的なメッセージが来た。
一緒に鎌倉に行って以降、二週連続平日と週末、週に二回も会っている。
しかも一方的で強引なメッセージで。
明日も会えば三週連続で会うことになる。
まだ水曜日だというのに飲みに行くなんて。と、はじめは思ったのに。
『なんで今日?しかもあんな強引なメッセージでいきなり』
『水曜日はノー残業デーで早く帰れるだろ。……たいんだよ、少しでも』
『え?なに??』
『わかれよ』
『ん?何を』
『会いたいんだよ。莉子に、少しでも』
『そ……そう』
今日も、[美味い焼き鳥屋があるんだ。シメに鶏出汁の美味いラーメンが食べられる店]と言われたら、そのお店に行きたいじゃない。
食べ物に釣られている感が否めないけど、後藤に食の好みを把握されているから仕方ない。
すっかり後藤との待ち合わせにも慣れてきた。
少し前の私では有り得ないことに、待ってる間には(早く来ないかな)とさえ思い始めていた。
きっと改札から出てくるだろうと、改札のほうを見ていたら、すでに忘れかけていた人と偶然会った。
「莉子?」
「―――えっ」
「やっぱり、莉子だ!莉子。ねぇ、なんで急に返事くれなくなったの?」
「翔太……」
あんなに悩んでいたはずなのに、翔太とはもうかなり会っていないような感覚になる。
「ねぇ、なんで?俺たち付き合ってたんじゃないの?」
「――え?付き合ってた……?」
「紹介で会って、そういう関係になって。そういうことじゃないの?なのに何で急に無視すんの?」
翔太と最後に会ってから、翔太から二、三度、誘いの連絡は来た。
だけど、もう会わないと決めていたし、無視していたらそれ以降は来なくなった。
簡単に連絡が途切れたことに、やっぱり都合のいい女だったんだなと思っていたのに。
いまさらそんなことを言われても、意味がわからない。
「待って。付き合ってたって何?私たちの関係って何って聞いたら、酔った勢いだって言ったのは翔太でしょ?」
「え?それは、そうなったのは酔った勢いだったってことで。付き合ってると思ってたのは俺だけだったってこと!?」
どういうこと?
翔太はもう付き合ってると思ってたの?
じゃあ何でいつも朝にすぐ追い返してたの?
何ではぐらかしたの?
言葉が欲しいと言っても何も言ってくれなかったし。
二人の関係は何なのかはっきり聞いたときは愕然としたのに。
二人の関係についてはぐらかされたと思ったのは勘違いというか、私のはやとちりだったってこと?
訳がわからない…………。
「……だって、付き合ってなんか……」
「付き合ってなかったって言うのかよ!?」
カッとしたように、翔太が私のほうへ手を伸ばしてきた。
ちょっと怖いと身構えたら、私たちの間に割り込んできた人がいた。
「莉子、大丈夫か?」
「あ、……後藤」
「何?誰、こいつ?俺たち話してるのわからない?」
「あ……この人は、同じ会社の――」
「後藤です。……莉子、もしかして、例の?」
翔太が苛立ったように言うので、後藤のことを紹介すべきか迷った。
翔太に後藤が誰かを言う必要はない気がするけど、何も言わなくてもきっと納得しないだろう。
同僚だと紹介しようかと思ったら、私の声に被せるように後藤が自分から名乗った。
「うん……」
「ちょっと何?俺は莉子の彼氏なんだけど」
「は?彼氏?」
私のほうに振り返って確認していた後藤が、翔太の彼氏発言を聞いて虚をつかれた顔をした。
「ちょっ、ちょっとやめてよ。彼氏とか、勝手に」
「勝手!?何でだよ?俺の勘違いだったの?じゃあ何でヤったんだよ!?俺はただのセフレだったって言うのかよ!?」
帰宅時間で混雑している駅の改札前。
翔太の声に反応して耳目が集まった気がした。
「なっ!やめっ――」
「やめろ!こんな場所で大声で言うことじゃないだろ。莉子、行くぞ」
「待てよ!ちょっと!おい!莉子!俺連絡待ってるから!」
◇
後藤にグイグイと手を引かれて焼き鳥屋へ来た。
途中で「このまま家に帰るか?」と気を遣ってくれたけど、訳がわからなくて飲みたい気分だった。
「あいつ、付き合ってると思っていたみたいだな」
「……うん。まさかそう思っていたなんて……なら二人の関係を聞いた時にちゃんと答えてくれたら良かったのに。そうしたらあんな……」
「連絡、するのか?好みだったんだろ?」
初めて会った時はキラキラして見えるくらいに好みだったはずなのに、『酔った勢い』と言われた瞬間に一気に気持ちが冷めてしまった。
だからかな。
久しぶりに会ったら随分と色褪せて見えた。
それに、あんな駅の人が多い場所でセフレとか大きな声で言うなんて。
翔太のデリカシーの無さにも、自分の見る目のなさにもガッカリだ。
付き合ってる認識で、あんな朝にすぐ追い出すような事をするのも、今思えば全く大切にされていたとは言えない。
例え、翔太とちゃんと付き合ったとしても、長く続かなかっただろう。
「連絡か……どうしよう…………」
私の中では終わったことだけど、翔太は付き合ってると思っているようだった。
それなら、ちゃんと話をするべきだろう。
話したところで私はもう翔太を好きじゃないけど、ちゃんと終わらせた方が良いよね、大人なんだし。
放って置いて後々トラブルになっても困る。
それにしても、始まっていたのかもよくわからなかったのに、終わらせるってのも変な話。
ずっと欲しかった言葉だったはずなのに、彼氏だとか付き合ってるだとか言われても、何も感じなかった。
紹介してくれた結衣ちゃんには事情を話し、上手くいかなかった事を伝えてある。
掻い摘んで事情を話すと『やっぱり!私の事は全然気にしないで下さい。私も私の友達も直接は知らない人だし。逆にそんな不誠実な人を紹介してしまって本当にすみませんでした』と言われた。
結衣ちゃんが悪い訳じゃなくて、いい年してちゃんとできなかった私に問題があったのに。
『また良い人いたら紹介しますね!』と言ってくれたけど、何故か後藤の顔が浮かんで『あ〜暫くはやめておこうかな』と言ってしまった。
翔太と最後に会ってから来た連絡は二、三度のみで、全部無視した。
もしも、本気で私と連絡が取りたければ、紹介だったんだから結衣ちゃん経由でも連絡できたはず。
だけど、それもなかったってことは、お互いに終わったことだと認識していると思っていたのにな。
「うん。やっぱりちゃんと連絡する」
「ヨリを戻すのか?あいつと」
「……まさか。お互いに誤解があったみたいだけど、もうあの人とどうこうなりたいとは思えないから、ちゃんと終わらせるために連絡取るだけだよ」
後藤から『ヨリを戻すのか』と言われて、少しショックだった。何を期待していたんだか……。
「そうか。会って話をするつもりか?」
「いや〜……とりあえずメッセージを送ろうと思う。それで納得してもらえるかわからないけど」
「もしも、会わないといけなくなったら教えて。さっきの感じだと一人で会うと危ないかもしれないし」
「わかった。ありがとう」
その後は普通に焼き鳥を食べながら飲んだ。
焼き鳥は表面カリッと中ジューシーで美味しかったけど、シメに食べた鶏出汁のラーメンが特に美味しかった。
後藤と話して美味しいご飯を食べていたら、翔太と会ったモヤモヤがすっかり晴れていた。
我ながら現金でどうかと思うけど、そういう性格だから仕方ない。
お店を出るとすぐに後藤が手を繋いでくる。
二人で飲みに行くのはまだ三回目だけど、飲みに行った後に手を繋ぐのがもうお約束になってしまった。
一回目の時に、お店の入口に僅かな段差があったのを忘れてて、ガクッとなったのを見られていたのだ。
笑いながら『転ばないように』と手を繋がれた。
恥ずかしいし『転んではいないから』と抵抗したけど振り解けなくて。
その週末にデートした時には最初から手を繋いで来たし。
少し前まで苦手に思っていたのに。
不思議なくらい後藤と過ごす時間にすっかり慣れてしまっている。
「アパートまで送る」
「え、なんで?平日だしいつも通り駅までで充分だよ」
「今は……少しでもあいつのこと考えさせたくない」
「ん?『今は』なんて?」
後藤がボソッと言った言葉が、近くを騒ぎながら通って行った集団の声に掻き消された。
まあまあに長尺の言葉を言っていた気がするのに。
「何でもない。いいから送る」
「うん。分かった」
いつになく強引な口調に強く拒否できなかった。
口では婚約者と言いながら手を繋ぐ以上の事はしてこないけど、アパートまで送るって、部屋に上がるつもりだろうか?
後藤の家の綺麗さを見てからなんとなく掃除や片付けはこまめにするようにしてて、いつでも人を呼べる状態ではあるけど、まだ抵抗がある。
「送ってくれてありがとう」
部屋にあげてと言われる前に、笑顔で先制攻撃。
こういう時の私の発言の意図なんて後藤には大体お見通しだ。
いつもなら『バカだな』と笑われてしまうだろう。
今回だったらきっと『本当に送っただけだ。心配だから』と付け足すと思ったのに。
予想に反して仕事中かのような小難しい真剣な表情をして見下ろしてくる。
もしかして怒ったのだろうか?
流石に自己中が過ぎたかな……。
「俺にしとけよ」
「え?」
「莉子のこと、もっと、もっと大切にするから。だから俺を選んで」
後藤の真剣な眼差しに目が逸らせなかった。
「あ、あの――」
「あいつとの事がちゃんと決着が付いてから、返事を聞かせて」
私が改札から見えなくなるまで、電車に乗り込むまで、アパートの中に入るまで。
今までなら、いつも姿が見えなくなるまで見守ってくれていた後藤が、私が何か言う前に「おやすみ」と言って帰って行った。
それが少し寂しいなんて。
少し前まで婚活が上手くいかなくて焦ってたのに。
急にモテ期が来た気分。
だけど、浮かれていられない。
後藤の真剣な眼差しが思い出される。
少し前だったら、からかわれていると思って本気にしなかったはず。
なのに、あれが冗談だったとは思えない――――