貴方が主人公だと彼女は言った。
足元の破れた教科書は、まるで私の心のようだった。
ズタズタに引き裂かれ、もう二度と元には戻らない。
「ごめんなさい。本当は私が悪役令嬢で、貴方が主人公なの。それなのに王太子も他の皆んなも、何故か私を愛してしまって。私はただ破滅エンドを回避したかっただけなのに、嗚呼、困ったわ。貴方がいないといけないのに。貴方は聖女で、この国を魔王から救うには絶対に必要な存在なのだから。それなのに彼らときたら、貴方がいることによって私が破滅エンドになると勘違いしてしまって。」
彼女の言っている言葉のほとんどは、私にとっては意味のわからないものではあったけれど、私はどうしてこんな謂れのない嫌がらせを受け続けねばならないのか、やっとわかった気がした。
「今からでも遅くはないわ。」
もう遅いのよ。
「私が彼らを必ず説得する。この国には貴方が必要なの。」
あいつらも、貴方も、この国さえも、今の私に必要なものなんて何一つない。
私に必要だった唯一のものは、既に儚く砕け散ってしまったのだから。
私が王侯貴族も通うこの王立魔法学園に来たのは16歳の時、2年前のことだった。
それまで物乞い同然で生きてきた私は、ある日突然父を名乗る男爵に拾われ、その魔法の才能を買われてこの学園に入学することになった。
魔法なんて興味もないし、勉強なんて大嫌いだけど、私には父親違いの幼く病弱な弟がおり、結果さえ残せば弟の高額な手術代を用意すると言う男爵の言葉に頷かずにはいられなかった。
ーー僕のせいでごめんね。
お姉ちゃん、勉強なんて大嫌いなのに。
ーーそうよ。
お姉ちゃん、貴方のために勉強頑張るんだから。
早く元気になって、私に楽をさせてちょうだい。
ーーうん。
頑張るよ。
健康になって、一生懸命働いて、僕がお姉ちゃんを支えられるようになるからね。
ーー楽しみにしているわ。
ーーうん、約束するよ。
母は早くに亡くなり、姉弟二人、手を取り合って生きてきた。
弟のためならどんなことでも頑張れたし、何でもしてきた。
物乞いも、盗みも、低賃金の過酷な労働も、弟のためだと思えばなんでもなかった。
自尊心が傷つこうが、身体が痛めつけられようが、弟が生きていてくれればそれで良かったのだ。
ーー僕さえいなければ、お姉ちゃんは自由に生きれたのに。
それは違う。
貴方がいなければ、私は今まで生きることさえできなかった。
男爵に引き取られ、私は学園の寮に入寮し、弟は田舎の病院へと送られた。
甘えが出るからと、弟との手紙のやり取りは禁じられ、私は早く元気になった弟に会いたい一心で、寝る時間を削り、他のどんな楽しみも我慢して、勉強や魔法の鍛錬に取り組んだ。
最後に会った時の弟は、可哀想なほど痩せており、少しでも早く手術が必要に見えた。
字さえ書けなかった私が結果を残すのには、並大抵の努力では足りない。
もっと、もっと、もっと、そうやって自分を追い詰めて、そうして私はやっと今期の試験で首席の座を手に入れた。
「ローズ、こんなところにいたのか。その女には近づくなとあれほど言ったのに、どうして一緒にいる。」
「ルイ、どうしてそんなことを言うの。貴方は彼女を愛するべきなのに。」
「私が愛してるのは君だけだと何度言ったらわかるんだ。」
教科書が捨てられたのは、今日が初めてではない。
ご令嬢、ご子息たちはその優雅な見た目とは違い陰険で、粘着質ないじめを好むようだ。
私の物を捨てることから始まり、無視は当たり前、そこからは思い出すこともおぞましいいじめの数々に、私の心は確実に削られていった。
「もう、ルイったら。そんなことよりルイ、彼女、アルマがいじめにあってるみたいなの。教科書がこんなに破かれて、可哀想に。アルマと話がしたくて後をついてきたら、これを見つけたのよ。アルマは聖女で、皆んなに敬われる存在なはずなのに。」
おそらくこのいじめの主犯格であろう王太子殿下は、婚約者を抱き寄せ、私には目もくれず、言葉を紡ぐ。
「ローズ、私には聖女なんて必要ない。君さえいればそれでいいんだ。その女がいると、君は破滅エンドというものになってしまうのだろう。」
「何度言ったらわかるのよ。彼女は必要な人よ。彼女がいなければこの国はどうなってしまうことか。」
「この国も、君も、私が守ってみせるよ。だからどうか、君以外の女を愛せだなんて悲しい言葉を言わないでくれ。」
「ルイ…。」
まんざらでもないといったような顔をして、王太子殿下にもたれかかる女の瞳が私に向けられる。
言葉とは裏腹に、優越の光をその瞳に灯しているのを、私は見逃さなかった。
「気持ち悪い。」
吐き捨てた私の言葉に、否定的な言葉を向けられ慣れていない二人は敏感に反応する。
「お前、この私に向かって言ったのか?」
「なんてことを言うの、アルマ。ひどいわっ。」
ーーお前には失望したよ。
どんなに良い成績を取ろうとも、王太子殿下に嫌われては元も子もない。
いい拾い物をしたと思ったが、金の無駄遣いだったな。
学園を去る準備をしろ。
また物乞いでもして暮らすといい。
これ以上無駄金は使いたくないんでな。
ーー私はどんな扱いを受けても結構です。
ただ、弟だけはどうか…。
ーーああ、そう言えば伝えてなかったな。
あれはひと月前に死んだ。
お前がちゃんとやれていれば、死ぬこともなかっただろうに。
昨日、学園の寮を突然訪れた男爵の言葉を思い出す。
もっと早くに結果を残せていれば、彼女が言うように私が王太子殿下の愛を手に入れられていれば、弟は死ななくてもすんだのだろうか。
天使のようなあの微笑みを、また、見ることができたのだろうか。
「アルマ、お願いだから主人公らしく、明るく親切に振る舞ってちょうだい。そうすればルイ達も貴方の魅力に気づけるはずよ。そして聖女として王宮に迎え入れられれば、貴方の病気の弟さんだって…。」
そう、貴方は知っていたのね。
「大丈夫。私のせいで本来のシナリオよりは少し遅くなってしまったけれど、今すぐ王宮の医師に弟さんを診て貰えば、すぐに病気は治るはずよ。どのエンドでだって、貴方の弟さんは健康的でとっても素敵なイケメンになるんだから。」
それを知っていたのに、数々の男たちに愛されることで忙しくて、忘れていたのだろうか。
いや、自分以外の誰かの苦しみには、興味もなかったのかもしれない。
ーーお姉ちゃん、僕ね、夢があるんだ。
嵐の夜。
雨漏りのする馬小屋で、二人寄り添って話をした。
ーーどんな夢?
ーーそれはまだ秘密。
こんな身体じゃ、叶えられるかわからないけれど、いつかきっと、叶えたいと思ってる。
雷に怯えて私にしがみついているくせに、弟の瞳には強い決意が見てとれた。
ーー貴方ならどんな夢も叶えられるわ。
ーー本当にそう思ってる?
ーー本当よ。
貴方には、それだけの力があるもの。
それは慰めの言葉でも何でもなく、私の本心だった。
弟は身体こそ病弱だったけれど、その心は強く、高潔で、人を惹きつける力があった。
つらい病の中でも希望を捨てず、努力できる人だった。
生きてさえいれば、きっとその夢を叶えることもできたのに。
彼の夢は、何だったのだろう。
田舎の古びた病院で、たった一人この世を去るその時、弟は何を思ったのだろうか。
どうせ助からないのなら、最後のその瞬間までそばにいてあげたかった。
弱りゆくその身体を抱きしめ、もっとたくさん話をして、少しでも楽しい思い出を作ってあげたかったのに。
男爵は、弟の亡骸の場所さえ教えてはくれなかった。
「私は貴方の弟さんが大人になったスチルがすごく好きで、弟さんが出てくるサイドストーリーも全部やったのよ。」
頬を赤らめながら、興奮気味に話す女に目を向ける。
皇太子殿下は他の男の話を婚約者がするのが気に食わない様子だったが、女の意味不明な話には慣れているのか、言葉を挟むことはしなかった。
「アルマの弟さんはね、大人になると騎士になるの。幼い頃に拾った絵本にあった姫を守る騎士の姿に憧れて、健康を取り戻すと騎士になるべく鍛錬を重ねて、最後は近衛隊長にだってなるんだから。騎士の隊服を着た弟さんはすごく素敵でね。攻略対象でないことが残念で仕方なかったのよ。」
嗚呼、そういえば、そんなこともあった。
道端に落ちていたボロボロの絵本。
文字の読めなかった私たちには、その話がどんなものかわからなかったし、私は興味もなかったけれど、弟は初めて見る絵本というものにとても喜んで、それは弟の大切な宝物になった。
ーーねえ、この女の人は誰かな?
ーー金持ちそうだし、お姫様かなんかじゃないの?
ーーじゃあこの女の人を守ってる男の人は?
ーーお姫様を守るのは騎士でしょ。
ーー何でわかるの?
ーーそれはそういうものだからよ。
お姫様は、騎士に守られるものなの!
私の適当な返事に不満そうにしながらも、弟は絵本を大事に胸に抱えて言った。
ーーじゃあ、お姉ちゃんはお姫様になって。
僕は騎士になるから。
どんなものからだって、僕がお姉ちゃんを守るよ。
今にも儚く消えてしまいそうな雰囲気をした弟なのに、その言葉は力強くて、あの時のことは今でも鮮明に覚えている。
「そう。あの子は、騎士になりたかったのね。」
「そうよアルマ。近衛隊長になって、皇太子妃になった貴方を誰よりも側で守ってくれる存在になるの。」
お姫様になった私と、騎士になった弟。
そんな未来が来るはずだったのだとしたら…。
「もしもそんな未来が来たとしたら、貴方はどうなるの?」
「おい、そんな未来がくるわけっ。」
「やっと私の話を信じてくれたのね!私は残念だけれど、悪役令嬢だから破滅エンドなのよ。没落とか、死刑とか、恐ろしい結末ばかり。だからこの世界に生まれ変わったとわかった時から、そうならないように、未来を変えるために、努力してきたの。そうして皆んなから愛されることになって、やっと貴方に真実を話すことが出来たの。」
破滅エンド。
「そう、それが正しい未来なのね。」
既に正しい未来は壊れてしまったけれど、その部分だけなら、本来の通り進めることができそうだ。
「どういうこと?アルマ?」
空虚だった心は、いつの間にか醜い何かに支配されていた。
初めは頭のおかしい女の戯言だと思っていた話は、真実味を増すにつれ、身を抉るような鋭いナイフとなって私の心に傷をつけた。
彼女の語る未来と現在が変わってしまったことは、彼女だけのせいなのかどうかはわからない。
けれど、自らの努力によって未来を変えてみせたのだと自負するその姿に、抱えきれない嫌悪感と憎しみが胸の底から溢れ出て、堪えきれず涙が頬をつたった。
「………っ。」
「どうしたのアルマ?」
睨みつける私に、二人は身震いをして後ずさる。
「未来は変えてはいけないの。だから私が、正しい未来を取り戻してあげましょう。」
神様、もし私が聖女だというのなら、どうかこの世界の秩序を変えようとする悪魔を打ち砕くための力を下さい。
「ローズ!私の背に隠れろっ。」
「やめてアルマ!落ち着いて!」
黒い願いとは裏腹に、私の身体を眩いほどの光が覆う。
腰を抜かして逃げ惑う女の姿を見たのが最後に、私の視界は白い世界に包まれ、そして消えた。
ねえ、だから言ったでしょ?
私は貴方なしでは生きられないのだと。
その日、王都の一部が原因不明の爆発事故により消失した。
そこにぽつんと取り残されたように、王太子とその婚約者が倒れていたが、二人には何の損傷もなかった。
ただ、婚約者については記憶を無くしており、爆発事故から数ヶ月経った今でも記憶は戻ることなく、性格もまるで別人のようだという。
その場にいたとされる女生徒については、今も行方はわかっていない。