千姫 〜 慶長最後の夏 〜
今回は三成さんではなく、徳川の物語を描いてみました。
家康さんはすでに、「石田三成シリーズ」で出してますが、あちらの家康さんとはちょっと違うかも……?
ひとつの筋というよりは、それぞれの人物の感情を、ひとつの出来事の流れに沿って描き連ねていった群像劇になっています。……なってるかな?
慶長二十年(1615)夏、徳川幕府率いる大軍勢に包囲された豊臣の大坂城は炎に包まれ落城した。露と落ち露と消えていった天下人のそれと相反し、遺された者たちの最期は凄まじいものだった。――
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御台所から出火した火の手は今や天守全体を真っ赤に染め、熱と光に骨抜きにされた柱が崩れ、瓦を落とし、目にも鮮やかな炎は青い夜空を背景にますます勢いを強めていた。
「これは……」
茶臼山の本陣よりこの地獄絵図を目にしていた徳川家康は、しなびた唇を開いたまま、しばらく固まっていた。戦国の世に生まれ誰よりも平和を望み、穢れた乱世を憎んできたこの男の目に、みずからの意志によって立ち上がった地獄の炎は何よりも恐ろしく焼きつけられていた。
***
大坂城を脱した千姫は、城へ詰めていた武将堀内主水の護衛の下、津和野藩主坂崎出羽守の陣へとたどりついた。
「千姫さま、よくぞご無事で。奥へ……、ごゆるりとお休みなさいませ」
大変なことでございました、と挨拶をする坂崎出羽守に一瞥を与えると、千姫は燃え盛る大坂城の方角へ目をやった。
「秀頼さまは……、修理さまは……」
「は……?」
大坂城脱出の折、千姫は豊臣方の主将大野修理亮より、ひとつの重大な使命を託されていた。夫である豊臣秀頼と、その生母淀の方の助命嘆願だ。
「方々は、死ぬ気でいる」
修理亮は言った。
「私は最後までお側にお仕えし、必ずやそれを阻む。千姫さま、あなたを信じて……」
淀の方の乳母大蔵卿局を母に持ったこの男は、どこまでも誠実な人柄だった。主君秀頼のために浪人をかき集め、その兵力をひとつにまとめ、みずから大坂方の主将としてその上に立ち徳川幕府軍との戦いを仕切った。大坂方が寄せ集めの浪人衆をまとめ、曲がりなりにも幕府という巨大な組織に立ち向かい、今日まで戦ってこられたのにはこの男の功績が大きい。
修理亮は、徳川より輿入れした千姫の孤独によく気がついていた。天下の大坂城にある豊臣家にとって、江戸に開府をし独自の政権を打ち立てた徳川家康とその実子で二代将軍の秀忠は、もはや敵視せざるをえない存在だった。
淀の方は秀忠の娘である千姫を快く思わず、夫となった秀頼にそれなりの距離を保つよう言いふくめていた。母に忠実な秀頼はこれを素直に受けいれ、側女を置くなどして千姫から距離を取っていた。
ところが、千姫の鬢削ぎ、すなわち成人の儀の折、碁盤の上に載る千姫の垂髪を筍型の刀をもって切り削いだのは、夫秀頼その人だった。
「千……」
相も変わらず秀頼は多くを語らなかったが、その面持ちは愛に満ち、また夫としての不甲斐なさを詫びているようでもあった。「秀頼さまは、姫さまを愛しておられる」―― そう言って孤独な姫を勇気づけるのは、城内で修理亮ただひとりだったが、千姫は夫とこの心優しい武将のことばを信じ、今の今まで耐え抜いてきたのだ。
「姫さま……?」
千姫は坂崎出羽守のほうへ向き直ると、すぐに口を開いた。
「祖父のところへ」
***
孫娘と対面した家康は感動のあまり涙をこぼした。皺だらけの首を反って夜空を仰ぎ、強く合わさった瞼と開いた唇の端から汁を滴らせた。そのようすを見守る千姫のほうも、目には熱い涙を浮かべ、赤く潤んだ唇はわずかに開き、震えていた。
「お祖父さま……」
衝動を抑えきれなくなった若い姫は、年老いた英傑の小さな胸に飛びついた。そのままふたりは何も語らず、ただただ咽び、泣いていた。――
孫娘からの助命嘆願に、家康は首を縦に振った。振らざるをえなかった。
戦が始まるまで、家康は秀頼と淀の方の生殺について、冷ややかな見解を持っていた。「後世の禍根を断たねばならん」―― 家康は常々、将軍秀忠はもとより他の子息や重臣にもこの道理を諭していた。
ところが、いざ戦が始まってみると、どういうわけかこの決意ともいうべき考えが揺らいでいった。これまでの戦とは、何かが違った。「歳のせいか、それとも……、いよいよ乱世の終わりが近づいているせいか……」――
誰よりもこの世を嫌い、平和を望み、穢れのない浄土を夢見てきたこの男にとって、乱世の終焉は待望の時だった。しかし、それが近づくにつれ、ほとんど疑心といっても差し支えないような、なんとも不愉快な心地がしてくるのだった。
そして、光に包まれた虚しい天下の城を目の当たりにした折、「儂の望んだ世が、ほんとうに続くか……」―― その疑心は明確な罪の意識を伴って、先の短い老人の心を、柱を削る炎のように蝕んでいった。
「お祖父さま……、ほんとうにございますか……」
助命が叶ったと信じた千姫は、涙で濡れた顔に希望を映した。
しかしこれを見た家康は、ふたたびうなずくことができなかった。「儂は、何を……」――
力なく、家康は条件を付け足した。
「ただし、岡山の陣へ赴きそなたの父に伺いを立て、それを認めてもらえたらな……」
***
将軍秀忠は愛娘との再会を喜んだが、千姫の申し出と家康の対応を聞いて蒼白になった。「父上、最後の最後に……」――
父に試されているとは思わなかった。おのれの決断が後の世を決める……、それは父からの試練ではなく、もっと巨大な……「天」……のような存在からの試練に思えたのだ。
「なにゆえ私が、わが娘に酷いことを言わねばならん……」―― 秀忠は苦しんだ。これまでただただ、父の言いつけ通りのことをなしてきたこの男にとって、不本意なことも多くあった。しかしそこは徳川の子息として、跡取りとして、乱世を生き抜いてきた父を敬い、これに従ってきたのだ。「それがここへきて、父によらずみずから不本意な決断をせねばならんとは……」――
秀忠は言った。
「千は、秀頼さまを慕っておったか。……正直に答えよ」
「……」
「正直に答えよ!」
頷いた姫に、
「なぜ、秀頼さまと生死をともにしなかった。徳川の治める日本に、お前の暮らす場所などないわ……!」
……父上と……、そして、私がなくした……。――
***
豊臣秀頼と淀の方、大野修理亮らは、大坂城山里曲輪にて自害した。
徳川幕府は元号を「元和」と改め、長く続いた乱世が徳川によって終わりを迎えたことを世に示した。そして翌年、初代将軍徳川家康はこの世を去った。
千姫は徳川家譜代本多家の当主平八郎忠刻の妻となり、夫の死後は出家をし、天樹院と号した。
ふふふ、あなたは誰が好き?