92☆キツネの妖怪
授業が始まり、廊下はシンと静まり返っている。
途中すれ違った幾人かの先生に振り返られたが特にお咎めを受けることはなかった。
当たり前だが授業が行われている教室は素通り。となると、この先にあるのは特別室ばかりだ。
パソコン室、調理室、実験室、音楽室……。一部屋一部屋、くまなく赤毛の彼女の姿を探した。
ふと、ひとつだけ扉の開いている教室が目に入った。我が服飾科御用達の洋裁実習室だ。
灯りは消えている。窓から入る日差しで室内は見渡せるので、先生がいないかそっと覗いてみた。いつも通りずらりとミシンが並んでいるだけだった。人の気配はない。
単に開けっぱなしだったのかとかかとを返そうとしたところで、奥の準備室の扉も開いていることに気付いた。灯りが漏れている。心臓がドクンと跳ねた。
忍び足で侵入し、準備室の扉に背を付ける。耳を欹てると、微かに布の擦れる音がした。
「入ってきなよ、獅子倉茉莉花さん」
突然の声にドキリとした。中にいるあちらはすでにぼくの気配に気付いていたらしい……。
「バレてるわけね。んじゃ遠慮なく」
緊張を悟られないよう深呼吸をし、ぼくは準備室へ踏み込んだ。
「意外とカンがいいんだね。もっとお目出度いおつむなんだと思ってた」
裁縫道具や布が収納されている大きな棚、予備と思われるミシンの段ボール、見本の服がぶらさがっているハンガーラック。その他様々な備品がごちゃごちゃと置いてある奥に、その声の主がいた。足を組みながらロール布が入った大きな段ボールに腰かけている。
胸に紫色の刺繍、2年生の証だ。涼ちゃんの言う通り、ツヤのある漆黒の髪が鎖骨のラインで切り揃えられている。想像していたほどのつり目ではないものの、能面のような無表情にぞくっと鳥肌が立った。
「ぼくが探してた野は先輩じゃないんッスよねぇ。ぼくの彼女知らないッスか?」
言いながら近付いていくと、先輩は「おや?」と首を傾げた。
「君も地毛? 今朝の子は人違いだったようだね。まぁいいや、伝えてくれたみたいだし」
ぼくは自分の髪を指先でくるくる巻きながら「そっ」と答えた。生まれつき色素が薄くちょい茶髪なぼくに比べ、涼ちゃんは立派な黒髪だ。『君も』と言ったのは、多分汐音のことだろう。
「物騒な手紙よこしてきたの、先輩っしょ? かわいい後輩のことあんまいじめないでくださいよ」
「私は頼まれただけ。君が二者択一するようにってね」
「二者択一?」
片方の口角だけ上げ、先輩はニヤリと笑った……ように見えた。昔アニメで見たキツネの妖怪を思い出した。
「読んだんでしょう? 別れるか、退学するか、だよ」
「あー、あれ? どっちもヤダね。第1、先輩に関係ないっしょ? こんなこと誰に頼まれたんスか?」
わざと呆れたように肩をすくめると、先輩はイラ立たしげに勢いよく立ち上がった。思ったより背が高い。距離こそまだあるものの、先輩は顎を持ち上げ見下ろしてきた。
「質問しているのはこっち。早く選んで?」
「はー……。ファンの子にでも頼まれたんスか? 先輩も大変ッスね、授業サボってまで協力するなんて」
「聞こえてない? こっちも急いでるの。早く選んで?」
「しつこい女の子は好みじゃないなぁ。そっちこそ全然話し聞いてないじゃん。汐音はどこって聞いてんの!」
さすがのぼくもイラ立ちが声に出た。先輩はそれでも興味なさげに相変わらずの無表情。しばらく睨み付けていると、先輩はゆっくりこちらに歩み寄ってきた。
が、どうやら用事があるのはぼくではなく、ぼくの手前にあった用具棚だったらしい。ひとつひとつ引き出しを開け、何かを物色し始めた。
「好みじゃなくて結構だよ。選べないなら選べるようにしてあげようか?」
先輩は銀色の物体をひとつ手に取った。カチカチと音で切れ味を確かめている。ピンキングハサミだ。
「いやだなぁ、暴力反対だよ。男の子っぽくしててもケンカなんてしたことないヘタレなんでね。叩かれたり蹴られたりするのは日常茶飯事だけど、ぼくはあいにく女の子を殴るつもりもない」
「その、先輩って言い方、よそよそしくてムカムカするわね。ちゃんと名前で呼んでくれない?」
一歩一歩、ピンキングハサミをカチカチしながらじわりじわりと近付いてくる。肉弾戦するつもりのないぼくは両手を上げてゆっくり後退した。狭い準備室ではそう逃げ場もない。あっという間に追い詰められ、ぼくはハンガーラックに背を預けた。
「だって先輩は先輩じゃん。第一、ぼくはあんたの名前知らないし」
「あー、やっぱり知らないよねぇ。じゃあ教えてあげようか? 私の名前は結衣、宝城結衣だよ」
「ほう……じょう……?」
思わず目を見開いた。
「そう。君のお母様の姪っ子よ」




