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百合色横恋慕  作者: 芝井流歌
第3章 マッド編 〜side Marika〜
88/105

88☆失敗作の爪痕

 

 遠くで雷が鳴った。まだ昼だというのに真っ暗だ。空はカラスの翼のような真っ黒い雲に侵蝕されていく。

「会ったんだろ? 赤毛で猫目の女の子だよ」

「……だって、だってあの子は……」

「ぼくの大切な人だよ。ぼくの物なんだから、ぼくが誰に着せようが自由だろ?」

「会ってるのっ? あの子は未だにまりちゃんのそばをウロウロしてるのっ? わたしと約束したのよっ? それなのに……っ!」

 勢いよく立ち上がった母さんは、ものすごい力でぼくの両腕を掴んだ。振りほどこうにも背もたれに押さえつけられている状態なので逃げ場もない。こんな母さんは初めてだ。帯が足元にはらりと落ちた。

「痛いじゃんかっ、放せよ!」

「約束したのよ! ママと約束したの! もうまりちゃんのことは諦めるってママに誓ったのよ、あの子はっ! なのにどうして……」

「知るかっ、そんな約束! 仮りにそんな約束を汐音がしてたとしても、ぼくが汐音を諦めない! 母さんの理想を押しつけてくんの、もういい加減やめてくれよ!」

 そうだ、ぼくは愛されるのが怖いんじゃない。

 愛情を押しつけられるのが怖いだけだ……。

「どうして母さんも兄ちゃんたちも、ぼくを縛り付けようとするんだ! 今の、このままのぼくじゃ愛せないのかよっ! 変わらなきゃ愛せないのかよ! でも汐音は違う。このままのぼくを好きでいてくれてるんだ! そういう人を大切にして何が悪い!」

「違うわ! ママたちだって、まりちゃんを愛してるから大切にしてるじゃない! ママたちはただ、まりちゃんに普通の女の子みたいに……」

「普通ってなんだよっ!」

 前腕に母さんの爪が食い込んで痛い。骨がきしみそうだった。放してくれないならと、ぼくはありったけの力で振り切った。テラスチェアをなぎ倒しながら、母さんは床にへたりこんだ。有り得ないものを見るような目で呆然とぼくを見上げた。

「男の子みたいなぼくがイヤなら愛さなくていい! 女の子が好きなぼくがイヤなら愛さなくていい! ぼくは母さんたちが言う『普通』になんてなれないんだ。でも、それが獅子倉茉莉花なんだよっ!」

 気が付けば、肩で息をしていた。こんな風に家族に荒ぶったことは初めてだった。カラオケの時くらいしか声を張り上げないぼくは、すでに喉がカラカラだった。

 母さんはただ、口も目も開きっぱなしでぼくを見上げている。ぼくは息を整えるのと喉の渇きを潤すために、母さんのコーヒーをヤケクソで一気に飲み干した。苦かった。すごく苦かった。

 爪跡に血がにじんでいる。雨が落ちてきた。さっきよりも近く、雷が鳴った。口の中が苦い。大粒の雨はすぐに勢いを増してきた。

「ごめん、母さん……。ぼくだって分かってないわけじゃない。愛されてるのは充分過ぎるほど感じてる。感謝だってしてる。でも……」

 叩きつけられるような土砂降りになった。ぼくの長い前髪が額に貼り付く。滴が伝っていく。母さんの頬を伝うのは、雨の滴か涙か……。

 やっぱり、涙は苦手だ……。

 見つめ合ったまま、長い時間が流れた気がする。続きが喉の奥で止まってしまう。口から出せない。ぼくは仕方なくそれを諦め、代わりにため息を吐き出した。

「ごめん……。立てる?」

 手を差し伸べると、母さんの視線が三日月のような爪痕に落ちた。雨粒で血が流されている。最愛の娘に自ら傷を残してしまった現実に気付いたらしく、その奇麗に整った美貌をぐちゃぐちゃにし、ぼくの腕にすがってわんわん泣きだした。

「ごめんってば……。泣かないでよ。ぼくが悪かったよ……」

 びしょびしょに濡れた母さんを、びしょびしょのぼくが抱きしめる。母さんを抱きしめるのは初めてだ。冷たかった。幼いぼくを抱きしめてくれた母さんは温かかったっけ……。ぼくよりも少し背の高い母さんが、今はとても小さく感じた。

「ごめんなさい、ごめんなさいまりちゃん。ごめんなさい……」

「いいから入ろ? 風邪ひくよ。立てる?」

 両手を握って立ち上がらせる。爪痕に雨粒がしみた。ふらふらしている母さんと荷物を抱え、エレベーターへと急ぐ。大きな雷が頭上で鳴った。

 エレベーターの扉が閉まるまで、ぼくは漆黒の空を見上げていた。

 怒りと悲しみを語る雷雨か……。

 結局、ぼくは自分の雷からも、母さんの雨からも逃げることしかできなかった、身も心も中途半端な人間だ……。

 みんなぼくを優しいという。違う。優しいんじゃない。弱いだけだ。

 傷つけるのが怖いんだ。だから愛情を押しつけないでほしい。期待に添えなかった時、こうして傷つけてしまうから。

 そして、ぼくも傷ついてしまう。どうしてぼくは期待に応えられなかったのだろう、と。人を傷つけてしまう、ダメな人間なのだ、と。

 出来損ないの失敗作なのだ、と……。

 母さんの震える肩を抱きながら、汐音の笑顔を思い出す。。今すぐに会って言いたい「こんなぼくを愛してくれてありがとう」と。

 中途半端で弱くて出来損ないで失敗作なぼくだけど、それでも愛してくれる人がいるからかろうじて立っていられる。守りたいから強くならなきゃって思える。

 だから、母さん……。

「あらあらあらあらぁ、奥様も茉莉花さんもびしょ濡れじゃないですかぁ! すぐにタオルをお持ちしますね。それとお風呂の用意も!」

 深紅のじゅうたんに、2人分の滴がぼたぼた滴っている。俯いたままの母さんと、「よろしくー」とへらへら笑顔を作るぼくを残し、好美さんはばたばた廊下を駆け抜けていった。体型のわりに速いよね、なんて言ったらまたゲラゲラバシンされるだろう。

 好美さんが戻ってこないうちにと母さんを廊下に独り残し、ぼくはそっと自室へ急いだ。

 どうせ濡れて帰るので、着替えは寮に戻ってからでいい。急いで汐音の抜け殻を袋に詰め込む。濡れてふにゃふにゃになってしまった紙袋に舌打ちし、クローゼットから適当なバッグを引っ張り出し入れ替えた。

 好美さんはパーフェクト世話人さんだ。ずぶ濡れの母さんをほっといてぼくを探しにきたりはしないだろう。察しのいい好美さんのことなので、あの場からぼくが消えた時点で抜け出すつもりだということに気付いたはずだ。

 平日で良かったと改めて思った。理解のある好美さんなら見て見ぬふりをしてくれるだろう。家族のようにうるさく言ってこないのも、ぼくが好美さんを好きな理由でもある。

 ありがとう、好美さん。母さんをよろしくね……。




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