87☆曇天の帰還
翌日、ぼくは帰宅することにした。
汐音の服を取りに帰るのもあるし、浴衣を戻すのもある。どちらも急ぐ用事なわけではないけれど、ぼくの腹の奥の方からなんだか、『早く行け』と急かされている気がして……。
また心配かけて何か言われるのもめんどくさいので、汐音には「製作の買い出しに行ってくる」と告げてきた。嘘をつくのは後ろめたいので、帰りに革生地の1枚でも買って帰ろうかな、なんて考えながら電車に揺られた。
足取りが重い。おとといとは雲泥の差だ。パワーアンクルでも付けている気分だ。母さんがいる、兄ちゃんたちも誰かしらいるだろう。思えば思うほどパワーアンクルが増していくようだ……。
『愛されることが、そんなに怖いの?』
その言葉が未だにしっくりこない。なぜそう見えたのか、なぜぼくは引っかかっているのか……。モヤつきが消えない。
ぼくはきっと、その答えを見つけたくてシャンデレラ城を目指している。
遠くからでもてっぺんがこんにちわしている我が家。生まれた時から住んできたので他と違うのだと知ったのは中学1年の頃だ。「お城に住んでるの? すごいね」と同級生に言われたのがきっかけだった。
この辺りじゃ、デカい家なんてざらだ。武家屋敷だってある。何が違うのかぼくはしばらく判別つかなかった。
うちはおかしいのか。ぼくは変わっているのか。普通じゃないのか……。
……何が『普通』……?
重々しい正門の前。てっぺんを見上げると、今にも泣き出しそうな黒い雲が広がっていた。シャンデレラ城どころか、悪魔の城か呪われたお姫様が眠る城か……。
後者かな、と苦笑しつつ門を押し開ける。
駐車場には6台止まっていた。父さんと龍一兄ちゃんの車がない。仕事でいないらしい。
ゴシック様式な玄関の扉を開けると、だだっ広い大理石の上ににそぐわない靴が1足だけあった。ぼくはぶらさげてきた紙袋から浴衣セットを取り出し、代わりにそのパンプスを突っ込む。
相変わらず意味不明なデザインの花瓶や絵画が出迎える廊下を通り、まずはリビングへの扉を開けた。
。「あらぁ。おかえりなさいませ、茉莉花さん」
ひょっこり顔を出したのは、ピンクのメイド服を着た好美さん。だいぶぽっちゃりさんだが仕事は早くて丁寧だ。ぼくが物心つく前から働いているらしいが、覚えている限りでは全く変わらない可愛らしいおばちゃん。……ちなみにメイド服は父さんの趣味である。
「ただいま、好美さん。……母さんは?」
「奥様ならテラスにいらっしゃいますよ? さっきコーヒーをお持ちしましたから」
好美さんは大きなお腹をゆさゆさ左右に揺らしながら近付いてきた。二重顎を持ち上げ、にっこにこしている。
「茉莉花さん、ちょっとお顔丸くなりましたぁ? その方がかわいらしいですよ? うふふ」
「そうかな? 好美さんこそ丸くなった? ……あ、もともとか」
ぼくが笑うと「やだぁ、もぉ!」と好美さんもゲラゲラ笑いながら背中をバシンしてきた。普通に痛い。だが好美さんのこういうところが使用人ぽくなくて昔から好きだ。平日の昼しかいないのがちょっと寂しいくらい。
「茉莉花さんの分もお持ちしましょうか? 炭酸水か何か。コーヒーはまだ飲めないでしょう? お子様だからぁ」
「うるさいよっ。ぼくはいらないから大丈夫」
お返しにお尻をぺんっと叩くと、「いやぁん」とオーバーリアクション。独身だけど娘が欲しかったという好美さん。兄弟の中でも特にぼくと仲良しだ。
好美さんにバイバイをし、エレベーターで5階へ。雷でも鳴りそうなこんな天気でもテラスでコーヒータイムとは、うちの母さんはぼく以上の本物のお嬢様だ。
約2ヶ月ぶりか……。汐音が迎えにきてくれたあの日以来だ。
西洋の柵をイメージしたエレベーターの扉が開く。風邪の音でその音がかき消されたらしく、お嬢様……いや、王女様はぼくに気付かぬまま、ゆったりとテラスチェアにもたれて下界を見下ろしている。
「母さん、ただいま……」
そっと近付く。紙袋を持つ手に汗が滲んできた気がする。緊張しているらしい。空耳かと思ったのか、母さんは一瞬間を置いた後、ゆっくり振り返った。
「まりちゃん?」
うちの母さんは、娘のぼくから見ても美人だ。俗に言う美魔女だ。その大きな目をぱぁっと見開き、心から嬉しそうに微笑んだ。
「おかえりなさい! 今帰ったの? コーヒー飲む? あ、まりちゃんはコーヒーじゃない方がいいわよね。カフェラテにする? わたしも今入れてもらったところなのよ。さぁさ、座って?」
母さんは左肩で束ねた髪が揺れるほど身振り手振りし、突然の娘の帰宅の歓迎を落ち着きなく表している。大好きなご主人様が帰ってきた時のわんこみたいだ。思わず苦笑が漏れた。
「ぼくはいい。そんなに長居しないから」
言って隣に腰かける。母さんは奇麗に整った眉を八の字にし、「そう……」と座り直した。風に乗って、母さんの柔らかいコロンの香りがした。嫌いじゃない香りだ。
「昨日、虎二郎から聞いたわ、まりちゃんが帰ってきてたって。ほら、ママたち先に会場へ行ってたから。龍一も仕事で忙しいでしょう? まりちゃんにパス渡せなかったって言ってたし、今年は見に帰ってこないんだと思っちゃってて。パパと残念がってたの」
まるで久しぶりに会った恋人と話す少女のように、美魔女はお目々をキラキラ輝かせている。メイクしているとはいえ、近くで見ても肌も奇麗だ。毛穴ひとつない。この人、本当に4人も産んでいるのか? 美魔女じゃなくて本物の魔女か?
「忘れ物取りに来ただけだから、父さん帰ってくる前に帰るつもりだけどね」
「学校はどう? お勉強はついていけてる? お小遣いは足りてる?」
「……ご心配なく。全部それなり。ノープロブレムだよ」
「夏休みだっていうのにちっとも帰ってこないんですもの。パパも会いたがってたのよ? そうだ、今日は職人さんを呼んで、まりちゃんの好きなお寿司を握ってもらいましょうか! それとも、パパが帰ってきたらどこか食べに行く? 寮ではステーキなんかは出ないでしょう? お肉がいいかしら?」
そう、この感じだ……。聞いているようで聞いていない。ぼくの言葉はおいてけぼりで、勝手にずんずん進められてしまう、この感じ……。
「ぼくはすぐ帰るって言ってんじゃん。夕飯は食べずに帰るよ」
「もう、ぼくだなんて言わないのっ。せっかくママに似てかわいい顔しているのに、台無しよ? ……そうだわ、外食の帰りにお洋服も買いに行きましょうか!」
……やっぱり聞いてない。ぼくの言葉は1割程度しか届いていないらしい……。
「母さん、これ」
ぼくは折り畳んできた浴衣セットの中から、藤色の帯を取り出した。母さんは「あら、懐かしい!」と覗き込んできた。
「この帯はね、わたしが中学生の時に、おばあちゃまが買ってくださったのよ。ここに刺繍がしてあるでしょう? まりちゃんが産まれた時に『to 茉莉花』って付け足してもらったの」
「元々母さんのだったのか。おさがりってわけね」
言われてよく見てみれば、『菫』と『to 茉莉花』の糸の色は若干異なっていた。
母さんは元女優だ。高校生まではモデルもやっていたらしい。すらりと背が高いので、この浴衣もさぞかし似合っていたことだろう……。
「もしかして、まりちゃん昨日着たの? あらぁ、ママ見たかったわぁ。お写真ないの?」
「ぼくは着てないよ。……汐音に貸したんだ」
「しお……ん……さん……」
母さんの顔色が急に変わった。躁状態から一転、青ざめて固まっている。遠くで雷が鳴った。




