80☆夢から覚めても
すっかり温まってバスルームの扉を開けると、とっくに上がっていたはずの茉莉花の姿はどこにもなかった。やっぱりさっきのは暗闇が生み出した幻だったのだろうか、とバスローブの襟を整えながらだだっ広い非現実的な客室を見渡す。
「茉莉花ぁ?」
なんだか心細くなって呼びかけてみる。視界にいないのだから、隠れてもいやしない限り返事はないと分かってはいるけど……幸せを味わった反動で、急に寂しくなってしまった。
「どした? そんな情けない声出して」
竹藪の自動扉がスッと左右に分かれ、奥からハスキーボイスの持ち主がバスローブ姿でひょっこり顔を出した。声色に出てしまっていたのが恥ずかしくなって、あたしは茉莉花の目を見つめながら黙って首を振った。
「そう? 鼻を鳴らしてる仔犬みたいだったけど……。まぁいいや。髪乾かしてあげるからおいで」
「ううん、いい。自分でやる」
「美容師さんは最後まで責任もって姫さんを綺麗にしてあげないと気が済まないんだよ。ほらっ、遠慮しないでおいでっ」
自分でもなぜ遠慮しているのか分からないまま、半ば引きずるようにベッドルームへ誘われる。あたしとは裏腹の茉莉花がにこにこしながら手を引いていく。バスルームにいた彼女とは違う、いつもの茉莉花だった。
ベッドルームは昼間とは違う雰囲気だった。陽が差していないだけでもこんなにムーディーなのかと見とれてしまう。枕もとに置かれたオレンジ色の間接照明もシャンデリアも、照らされたキングサイズのベッドも派手なドレッサーも、そこはまるで怪しい魔女の部屋のようだった。
座るよう促がされたのはドレッサーの椅子。ドレッサーなんて物にお世話になる機会がなかったので、これもまた初体験。大きな鏡に映るちんちくりんな赤毛猫の背後では美容師を名乗るバスローブ姿の恋人がドライヤーをかけ始めた。
「熱かったら言ってくださいね、姫さん」
「熱くないようにしてよ?」
「御意」
定まらないキャラになんだかなぁと苦笑い。シャンプーといいドライヤーといい、大切なぬいぐるみを撫でるような手付きに、茉莉花があたしを思ってくれているという実感が湧いてくる。それがちょっとくすぐったくて目を閉じた。
「汐音? 眠い?」
「ううん、気持ちいいだけ」
「ふふん、ぼくはカリスマ美容師さんだからね」
目を開けると、得意げに笑う茉莉花と鏡越しに目が合った。茉莉花はドライヤーのスイッチを切ってブラシを入れると、満足そうにうんうんと頷いた。
「かわいいよ、汐音」
「い、いつもと同じじゃない……。別に着飾ってるわけでもメイクしてるわけでもないんだし……」
「いやいや、こうして改めて見るとかわいいなって思ったんだよ。って言っても汐音は天邪鬼だから素直に受け止めてくれないんだろうけどさ」
「誰が天邪鬼よ。茉莉花が急に変な事言い出すからじゃない」
「分かった分かった。んで姫さん、今夜はふかふかのベッドで寝ますか? それとも広いお座敷のお布団で寝ますか?」
フグみたいに膨れるあたしの横髪を耳にかけながら頬に唇を寄せてくる。肌で感じるだけでなく鏡の中のあたしがキスをされているのが視界に入ってしまって、羞恥心で次第に顔が熱くなっていく。
「やっぱりお布団がいい」
「え? 聞くまでもなくベッドって言うと思ったんだけどな……。まぁいいや、汐音の好きな方でいいよ」
だって、不慣れな高級ベッドなんて眠れそうにないんだもん……。それと、上流家庭のお嬢様はこういう機会でもないとお布団で寝る事もないだろうし、というお節介も半分。
「でも、何気にまだ眠くないのよね。茉莉花は?」
「んー、まぁぼくは寝ようと思えばいつでもどこでも寝れるけど。じゃあベッドでごろごろして、眠くなったらあっちで寝ようか」
だから、それじゃ落ち着かなくて眠くもならないっつーの……。
それでも、逐一あたしに気を使ってくれる優しさがツッコむ気を打ち消してしまう。再び手を取られるがままベッドへ誘われていく。
「汐音? どうして元気ないの?」
先にベッドへ転がる茉莉花の隣でちょこんと正座する。不思議そうに見上げられて、やっぱりいつもの茉莉花だとしみじみ見つめ返した。「そんな事ないよ」と言いながらごろんと寝そべる。シャンデリアのオレンジがやけに眩しく見えて目を閉じた。
「明日もこうやって一緒に寝られると思うと嬉しくて実感湧かなかっただけ」
「それだけ? ぼくには嬉しいっていうより寂しいって顔に見えたけど?」
「……えへへっ、バレたか。ぶっちゃけると、さっきのお風呂での出来事が全部夢だったんじゃないかって思ってたの。裸の茉莉花に触れたわけじゃないしちゃんと見たわけじゃないけど、今まで散々見るな触るなしてたから……なんか急に進展したのが信じられなくて……。だから、電気が点いた途端にあれは幻だったのかなって思っちゃったのよね……」
なんとなく目を合わせられなくて、瞼を閉じたまま茉莉花の返事を待った。少し間が空いて再び不安が訪れる。目を開けてオレンジ色の光が目に入ったら、また夢から覚めたように寂しくなってしまう気がして。隣からいなくなってしまう気がして……。
「バカだなぁ、汐音は」
くつくつと笑う茉莉花の肩が揺れる度に、ふかふかのベッドがあたしに振動を伝える。それはまるで身体全体が茉莉花に包まれているようだった。茉莉花の体内に迷い込んだようだった。
「ぼくが優しいのはいつもの事だろ? 心配しなくてもシャンプーしてあげたのはここにいるぼくだし、顔は見えなくても一緒に湯船浸かってたのもここにいるぼくだよ。やっぱり鼻を鳴らした仔犬だったじゃんか」
「笑わないでよっ。不安にもならない単細胞なあんたとは違うのー」
「言ったな? 汐音こそ単細胞だぞ。ぼくの行動一つですぐ泣いたり怒ったりするじゃんか。ぼくの事しか見えない単細胞だ」
「なっ、なによそれーっ」
むっとして一発お見舞いしてやろうと振りかぶると、「そう来ると思ったよ」と手首を捕まれてそのまま引き寄せられた。もしやこれを狙っていた? 踊らされていた? 単細胞なあたしは柔らかなパイル生地のバスローブを着た茉莉花の上にころんと乗っかった。
だけどそこにいたいつもの茉莉花には、いつもの感触がなかった。曝を巻かれたあの低反発枕のようなそれではなく、例えて言うなら……。
「胸、みたい」
「……みたい、って……。今日は曝巻くのやめたんだよ。今夜だけは姫さんのお願い叶えてあげようと思ってね」
「お願い?」
フィルムを巻き戻して思い出す。身体ごと向き合いたい、ギュッとしていたい、シャンプーして欲しい、一緒に浸かりたい、思えばさっきの入浴だけでこんなにもお願いしていた。
理解したあたしがバスローブ越しの膨らみに頬をくっつけると、茉莉花はそっと枕元の抓みに手を伸ばしてシャンデリアと間接照明の灯りを絞った。部屋の明るさと反比例して、茉莉花の鼓動がトクントクンと早まっていった。
「おいで」
両手で頬を覆われ、吸い寄せられるように唇を重ねた。暗闇の中で微かな水音だけが響いている。誰に見られているわけでも聞かれているわけでもないのに、音が洩れないようにゆっくりと深いキスを繰り返す。
それは甘く優しいキスよりも、燃え上がるような激しいキスよりも、今まで味わったそれの中で一番興奮を覚えるキスだった。荒くなってしまう息遣いを押し殺そうとしているからだろうか、あたしの中でゆっくりと茉莉花の舌が動くだけで指先がしびれるようだった。
「汐音?」
苦しくなったあたしが唇を離すと、茉莉花は物足りなさげに尋ねてきた。まるでおあずけを食らった仔犬みたい。おかわりしたい、そうあからさまなおねだりが伝わってくる。
「苦しかったんだもん」
「息止めようとしてるからでしょ。普通にしてればいいのに」
「普通にったって……」
あたしの乱れた息遣いだけが響いちゃいそうで……。
「分かったよ。ご要望とあらば姫さんのペースに合わせる。好きなようにしていいよ」
「もうっ、姫さんって言わないで。あたしがわがまま言ってるみたいじゃない」
「はいはい。分かったよ、汐音ちゃん」
くすっと笑って同じようなキスを味わわせてくる。苦しいって言ってるのにゆっくりと舌を絡ませてくる矛盾にも呼び方にもちょっと腹が立つ。だけど、とろけるキスの合間に囁かれた「汐音」という呼び掛けで、あたしは完全にノックアウトされてしまった。
「ねぇ、茉莉花……。お願いがあるの」
「うん? さっきから聞いてあげてるじゃんか。まだ物足りない?」
「……ううん。やっぱいい」
「なんだよ。気になるじゃんか」
上体を起こしたあたしを探す茉莉花の手が赤毛を梳く。何とも言い難いおねだりに口籠っていると、しばらくして茉莉花もゆっくりと起き上がった。それに合わせて茉莉花の上から降りると、今度は茉莉花があたしの上に覆い被さった。
「こうして欲しかったんでしょ? 姫さん」
「……」
「冗談だよ。こうも真っ暗じゃ、汐音の怒ったかわいい顔が見れなくて残念だな」
「じゃあ点ければいいじゃない」
「やれやれ。点けて欲しくないくせに……」
指先があたしの輪郭をなぞる。おでこに柔らかい感触が落ちる。それから目尻、頬、耳たぶへと落ちていく。唇が首筋を過ぎる頃には、緊張と快感とで全身に鳥肌が立っていた。
茉莉花も同じくらい緊張しているに違いない。ううん、あたし以上に緊張しているはず。何度も失敗したこの先の展開に……。
だけど指先こそ震えているものの、するするとバスローブの帯が解かれていく。バスローブがはだければあたしは下着一枚。それを茉莉花はどんな表情で見下ろすのだろう。暗闇というベールが更なる緊張を誘う。
おそるおそるといった様子で茉莉花の三日月のような指先があたしの素肌を滑っていく。くすぐったいような快感に背中がぞくぞくする。止めて欲しい、もっとして欲しい、鬩ぎ合う葛藤に耐えながら、下へ下へと這う唇に身をよじらせていた。
あたしたちはずっと言葉を交わさなかった。たまにもらす茉莉花の小さな深呼吸と、快楽に負けて声が出ないように息をごくりと飲み込むあたしの喉の音。静まり返った二人きりのブラックホールのような空間。布の擦れる音でさえ、この空間に吸い込まれていくようだった。
「ちょ……っと待って……」
先に沈黙を破ったのはあたしだった。再び唇を重ねてきた茉莉花の手があたしのショーツに触れた瞬間だった。絞り出したあたしの声に茉莉花は手を止めてくれた。その下がどうなっているのかあたしは分かっていた。
だけど、だから、茉莉花には知られたくなかった。
「……嫌ならやめるよ」
「違うの、そうじゃなくて……。あたしもしたい……。あたしにも、させて?」
「……分かった」
愛されたい。でも対等でいたい。フェアがいい。あたしは真似っ子のように、だけどあたしなりの愛し方で茉莉花をじっくりと味わった。
一歩外へ出れば男の子にも負けない男装の麗人の茉莉花が、あたしの舌と指先の動き一つで甘い声を押し殺そうとしている。あたしだけが知っているという優越感が欲望を膨れ上がらせていく。
「し、しお……」
「茉莉花、好きよ……」
その夜、真っ暗闇の中、あたしたちはお互いが果てるまで愛し合った。初めてだったけど、今まで幾度となくお預けを食らってきた分も燃え上がったのだろう。
だけど、薄らとカーテンの隙間から朝日が洩れても、あたしはもうこの暗闇が夢でも幻でもないと確信出来る。
「汐音……。疲れた?」
「疲れた。茉莉花は?」
「疲れた。……でもあと二時間で朝食の時間だよ。シャワー浴びて一眠りする?」
「うん、寝る。でもシャワーはあとででいいや。ちょっとだけ寝て、起きたらシャワー浴びてご飯食べて、一休みしたらもっかいしよ?」
「それ、賛成」
バカップルと呼ばれてもいい。目が覚めて、あなたがそこにいてくれるのなら。あなたとこうして肌を重ねて満たされていく幸せを、これからもずっと味わえるのなら。
「ふあーぁ……。おやすみぃ、茉莉花ぁ」
「おやすみ、汐音」
寝ても覚めても、隣にいてね。
〈完〉
ここまでお読みいただきましてありがとうございました。
連載開始からちょうど半年、長らくかわいがってきた作品に幕を引くのは何度経験しても寂しいものです。
感情の起伏が激しく気の強い汐音もお調子者のヘタレな茉莉花も実は私によく似ています。
なので自分の子供を巣立たせる気分がするのでしょうね。
本当は100話まで書き上げようと思っていたのですが、悩んだあげく結ばれたところで終演することにしました。
2人のけじめと私のけじめってことで(笑)
この星花女子プロジェクトで新たに第5弾が始まるのでそちらの新作に全力を注ぐつもりですが、万が一気が向いたらこの2人のアナザーストーリーでも書こうかなとも思っています。
その際はまた遊びにいらしてくださいね!
そして、今後とも芝井流歌をよろしくお願い致します。
2018年8月22日 芝井流歌




