75☆魔法のベッドは媚薬の香り
それはそれは見事な建物だった。
ホテルというより立派なお城。一口にお城といっても、獅子倉家を連想させるシャンデレラ城のような洋館ではなく、まるでお殿様か忍者が出てくるかのような日本古来のお城を模した建物だった。
一見、本物の観光スポットと勘違いしてしまいそう。御堀や石垣、白壁や屋根瓦に至るまで本物そっくりに出来ている。ここが本当にアミューズメントホテルなのだろうか、そんな疑問さえ湧いてしまう程の重厚感。
「ぼくも実際完成形は初めて見たんだ。うちんちからも近い訳じゃないしね。外観は和風だけど内装はどうなんだろ。やっぱり畳で座敷なのかなぁ」
わくわくを隠せないお目々を輝かせている茉莉花の視線の先には、お寿司屋さんのお品書きか相撲の番付表のような太字で『獅子太郎ホテル 四号館』と書かれていた。『遊戯館 レオンレオン』もだけど、茉莉花父はどれだけ獅子ネームにこだわるのだろうか……。
「四号館って……このネーミングセンス皆無のホテルらしきものがあと三つあるって事? これじゃあよっぽどの物好きか、お金をトイレットペーパー代わりにしてる頭の悪そうな金持ちくらいしか寄りつかないわよ。高級ホテルって言うからてっきり……」
「失敬だな。高校生のぼくらにはあんま馴染みないかもしんないけどさ、『獅子太郎ホテル』って言ったらその辺のセレブで知らない人はいないんだぞ? 確かにネーミングセンスをツッコまれると反論は出来ないけど……。でもそれ以外のセンスならぼくが保障する。料理も内装も設備も接客も、文句一つ言わせない自信あるからな」
「ごめんごめん。きっとこれもお父さんの遊び心の一つなのよね。平凡以下のあたしにはちょっと理解出来ないお戯れにびっくりしちゃっただけよ。招待してもらっといて失言だったわ」
「ほらほら、いつまでもボーッと突っ立ってると千歳たちに置いてかれるぞ?」
重々しい正門に目を向けると、腕を組んで楽しそうにスキップする千歳と、それにほぼ引きずられているだけの鈴芽ちゃんの後ろ姿が見えた。
確かに、わざわざ四人で訪問した理由を思い出すと急がなくてはならない。あたしはぷるぷると首を振って茉莉花の腕を掴んだ。
「行こっ」
あたしの荷物も詰め込んでくれたカートを茉莉花が引いてくれている。暑さからか疲れからか、掴んだ腕はほんのりしっとりしていた。首元を焦がすような七月の太陽にあたしもまた汗ばんでいる。
お部屋に入ったら、早速お風呂に誘おーっと。
「う、嘘でしょ……?」
エントランスと呼んでいいのだろうか、重々しい木製の引き戸をモチーフにした自動ドアが開くと、まず目に入ったのはだだっ広い日本庭園と大きな池だった。
驚くのはその広さにだけではない。イミテーションであろう巨大な庭石は一部削られて滑り台になっており、幼稚園くらいの子供たちが順番に池へどぼんしていた。人工池、それも幼児プール用にしては完成度が高過ぎて鯉でもいやしないかと覗いてしまう程だった。
「さすが父さん。なんちゃって日本庭園を幼児プールに仕立てるとはねぇ。ここからだと見分けがつかないけど、あのバカデカい庭石も怪我しないような柔らかい素材なんだろうな。汐音もあそこで遊んでみたい?」
「バカ言わないでよ。子供だからいいようなものの、ホテル入ってすぐ水着姿を来客に見せられる訳がないでしょーが」
「ふぅん。寮の浴場だってポイポイ脱いでズカズカ歩いてるし、二人きりとはいえ部屋でだって嫌がるぼくの前で半裸で寝ようとしてるくせに。水着となるといきなり恥ずかしがるんだ?」
「あ、あのねぇ……。あたしにだって羞恥心がない訳じゃないのよ? 知らない人がどんどん入ってくる公然の場で水着姿曝して平気なら、あんたの服借りずにスクミズで電車乗ってくるっつーの」
キャミソールの裾を抓んで改めて今日の服装を見下ろす。奈也が作ってくれた若草色のキャミに、茉莉花が貸してくれた半袖のボタンシャツを羽織っているあたし。果たしてこれはおしゃれなのだろうかという疑問が未だ薄れない。
おしゃれな茉莉花が見立ててくれたコーディネートなのだから信じたいけど、ほんとに場違いじゃないのかという不安も消えない。同じ服を着ていても、あたしには服に着られているようにしか見えないのだから。
「鍵もらってきたよ。思った通り最上階。天守閣だといいね」
フロントで受け付けを済ましてきた茉莉花がご機嫌な様子で戻ってきた。その後ろには忍者の恰好をした謎の従業員らしき人物がこそこそと付いてきている。忍び足の割りにはあたしたちの荷物が入ったカートを引いてくれているので、がらごろとそれなりの音を発している。
「ご案内致す」
金粉が散りばめられた襖の前で止まった忍者さん。襖のすぐ横にあるいくつかの沁みにスッと触れた。なんだろう、そう思ってよぉく見てみると、その沁み一つ一つに数字がふられている。ますます謎に首を捻っていると、目の前の襖がチーンという音と共に開いた。
「え、エレベーターだったのね……」
侮っていた……。そういえば茉莉花んちのエレベーターにも相当の拘りを感じていたんだった。新装開店のホテルにこのくらいのお茶目があっても驚く程の事ではなかったのに……。呆気にとられているあたしの隣では、これくらいで驚くはずもない茉莉花がにこにこと忍者さんを観察していた。
忍者さんが案内してくれたのは、鍵穴さえ見当たらなければ文字通り隠し扉なのであろう一枚の板の前。最上階という事もあり、どうやらこのフロアにはこの一部屋しかないらしい。あたしがきょろきょろしていると、見た目によらずスーッと開いた扉の向こうであたしを呼ぶ茉莉花の声が聴こえた。
「ごゆるりされよ」
謎の日本語で持て成す忍者さんは、あたしが部屋に入ると同時にササッと消えた。怪しげな言動もこのホテルのパフォーマンスの一つなのかと思うと、あの従業員さんも嫌々働いてる訳ではないんだろうな、と勝手に納得した。
「汐音、見てごらん」
なりきり忍者さんに気を取られていたあたしがハッと我に返ると、何十枚も敷かれた畳の向こうに茉莉花の姿があった。逆光だけど窓の外を眺めているのが見える。
新しい井草の香り。一家五人で川の字になって寝ていた実家を思い出す。ちょっと懐かしい匂いを胸いっぱい吸い込んで、脱ぎ捨てられた茉莉花のスニーカーの隣でいそいそとパンプスを脱いだ。
「やたらと広いんだろうなぁとは想像していたけど、まさか和室だとは思わなかったわ。あたしはてっきりふかふかのじゅうたんにキングサイズのベッドがドドーンと置いてあるんだと思ってたのに……」
「そんな残念そうな顔すんなって。ちゃんとベッドだってあるよ。汐音が寝てみたいって言ってたから、これだけはあるかちゃんと確認しといたんだ」
ドヤ顔の茉莉花が指差した先には立派な床の間。その隣には、室内だというのに小さな竹藪がひっそりと佇んでいた。
エレベーターといい隠し扉といい、あの竹藪にも何かしらの仕掛けがあるのだろうけど……。あたしは井草の香りに包まれた畳の奥にある竹藪の前に立った。
「これもどっかしらにボタンがあって、その奥の寝室にベッドが置いてあるって訳ね?」
「と、思うよ?」
いたずらに笑う茉莉花の声を背に藪の中を覗き込む。するとセンサーだったのだろうか、まるで自動ドアのように竹藪がススッと左右に分かれ、その奥に茉莉花の言う通りキングサイズのベッドが姿を現した。
「すっごいっ! ねぇ、見て茉莉花っ。見て見てっ!」
真っ赤なじゅうたんの上にドンと置かれたベッドにダイブする。バウンドしそうなくらいのふかふかな弾力に心も弾む。ころころと転がっても落ちる心配はない広さは、それこそうちの家族が全員一緒に寝れるんじゃないかとすら思った。
「ははっ、子供かっつーの。まだ誰も寝てない新品のベッドだぞ。よぉーく噛みしめてだな……って、おい、聞いてんのかよー」
「ねーねー、これがシルクってやつ? 枕カバーのくせにつるっつるーっ! こんなすべすべでふわふわの枕なら、茉莉花の骨ばった腕枕なんかいらないわーぁ」
「やれやれ。うちのお姫さんはすぐそうやって……」
「あはっ、冗談よー。ねー、こっち来てってばー」
ころんと転がって手招きをする。しぶしぶ近付いてきた茉莉花の手を掴んで引き寄せ、バランスを崩したところで抱き止めた。茉莉花の首からぶら下がっていた銀色のチョーカーがあたしの頬を叩く。あたしと一緒で汗ばんでいるはずなのに、茉莉花の首筋からはいつもと違う香水のシトラスっぽいいい匂いがした。
「あっぶないなぁ。あんまりはしゃぐとプール行く前に力尽きるぞ?」
「いいもーんっ。疲れないもーん。一休みしたらちゃんと泳ぎに行くもーん」
「だから、子供かっつーの。……まったく、汐音がこんなにお子ちゃまだとは思わなかったな。まっ、そんなとこもかわいいんだけどさ」
「えへへーっ。連れてきてくれてありがとね、茉莉花ぁ」
「……なんか、ほんとに汐音じゃないみたい……」
抱きつくあたしに苦笑しながらもなでなでしてくれた。いつもと違う首元の香りを嗅いでいつもと違うあたしになる。それはこの真新しいベッドの魔法か、あるいは香水に媚薬でも混ざっていたのか……。
「ね、泳ぎに行く前に、もうちょっとこうしててもいい?」
「ふかふかのベッドがあればぼくなんかいらないって言ったばっかなくせに……」
ぶつぶつ言う茉莉花を仰向けで抱きしめながらキスをする。まるでお姫様になったみたいで気持ちいい。積極的に舌を滑り込ませているあたしは、やっぱり媚薬に犯されているに違いない……。




