71☆ラバーズトークは突然に?
奈也にカミングアウトしてからまだ二日、ナンパちゃら娘の獅子倉茉莉花とあたしが付き合っている事はあっという間に広まっていった。
というのも……。
「しーおんっ。物理の教科書貸ーしてっ」
「う、うっさいっ。デカい声で呼ばないでよっ」
「えー? いーじゃん。もうこそこそする必要ないんだからさぁ」
茉莉花はわざとなのかと思うくらい、学校でべたべたするようになってきたのだ……。
それは奈也がバラしたからという訳ではない。奈也にカミングアウトしてぷつりと切れてしまったのか、あたしの姿を見かけるや否やすっ飛んできたり、なんだかんだ見え透いた口実を作ってはこうして四組へと足を運んでくるようになったのだ。
これで噂が広まらない方が奇妙だけど……。
他のクラスにも仲のよい仔猫ちゃんはいるだろうに。わざわざ五組を通り越してまで教科書借りに来るとは、わざと狙ってるとしか思えない。クラスメイトの視線を浴びている事を把握していながら、四組の扉に手を掛けたままにこにこ笑っている。
「今日は物理ないから持ってきてない。隣の席の子に見せてもらうか、別のクラスの子にでも借りたらいいじゃない。しっしっ」
「ちぇっ、なーんだ。じゃあシャーペン貸して、シャーペン」
教室に入ってこないところを見ると、やっぱりわざと周りにアピールしているとしか思えない。今まで口止めしていた鈴芽ちゃんも突然の事に困惑している様子だった。ちらりとこちらを見てあたしの表情を窺っている。散々心配と迷惑をかけてきた鈴芽ちゃんだって動揺しているのだろうけど、一番動揺してんのはあたしだっつーの……。
「はぁ? 冗談も大概にしなさいよね。もう三時限目よ? 今までどうやってノート取ってたのよっ。それに、それこそ隣の子に借りればいいじゃない」
「つれない事言うなよぉ。汐音の赤いシャーペン、使いやすくて好きなんだってば。ぼくのイニシャルが書いてあるチワワを付けたバッグの中にいつも入って……」
「うううううるさいうるさいうるさーいっ! 余計な事言うんじゃないわよっ! か、貸してあげるから消えなさいよっ、このバカ!」
ついいつもの口調で怒鳴ってしまう。シーンとした辺りの視線があたしに突き刺さった。慌てて筆入れの中からご所望のシャーペンを取り出して扉の方へ走る。駆け寄ったあたしを見てご満悦な茉莉花にそれを突き出して廊下へ押し戻した。
「どういうつもりか知らないけど、あとで覚えてなさいよ?」
耳元で低く囁くと、茉莉花はビビりもせずに「おーけー」と笑顔で大きく頷いた。お、おかしい……。いつもならビビって引き攣り笑いすら浮かべる展開なのに……。
「サンキュー。赤ちゃんみたいにぷにぷにしてる汐音の指に絡ませてると思って握ったら授業に集中出来ないけど大事に使うね」
「だ、誰が赤ちゃんみたいな指よっ。余計な事言わないでとっとと帰ってっ」
「ふふーん。照れんなってぇ」
頭を撫でようとした茉莉花の手を振り払って睨み上げる。それでも茉莉花はへらへらと「んじゃ、あとで返しにくるね」とシャーペンをふりふりしながら六組の教室へ消えていった。
大きなため息をついて教室へ戻ると受けた事のない視線を浴びた。「どういう関係? そういう関係?」と言いたげなクラスメイトたちがお目々をキラキラさせながらこちらを見ている。誰一人口にはしてないけど、聞きたい事はみんな同じ、といった表情だった。
華の女子高生、色恋話に敏感なお年頃だかなんだかしらないけど……。
こっちが聞きたいっつーのっ!
第一、あいつが女の子にベタベタへらへらするのはいつもの事。それはここ一週間でもさほど大きく変わった訳ではない。変わったのはあたしに対するベタベタだけ……。
お昼休みも茉莉花は四組へやってきた。今度は躊躇なくズカズカと入ってきた。あたしの席の前の鈴芽ちゃんが食堂へ席を立った途端、椅子に後ろ向きにまたいで座りあたしの机にどどんとお弁当を置いた。「汐音のも買ってきたよ」、そう言って得意げな笑顔を見せた。
「な、なんなのよ。あたしは玲ちゃんと食堂行くんだから、勝手にあたしの分まで用意しないでよねっ」
「二人で行くの? 妬けちゃうなぁ。じゃあぼくも行こーっと。玲ちゃんって、あのヘアバンドの子だよね? 話した事ないからちょうどいいや」
「ついてこないでよ。あたしは玲ちゃんと二人で食べたいんだから」
「汐音の友達なのに紹介してくんないの? ちゃんとぼくの事も『恋人でーす』って紹介して欲しいなーぁ」
こちらに向かっていた玲ちゃんが、目を真ん丸にしてぴたりと足を止めた。教室中も一気にざわついた。中にはキャーという黄色い声が混じっていた。
「ちょ……っ! こ、こっち来なさいよっ」
フリーズしたままの玲ちゃんに「ごめんっ」と手を合わせて席を立つ。そのまま急いで茉莉花を引きずり教室から飛び出した。
足を止めたのは、渡り廊下を超えた別校舎の隅。途中数人が振り返っていた。それは廊下を走っていたからか、あたしの形相にか、異色な組み合わせにか。
お昼休みという事で誰がいるか分からないので念入りに見渡した。人影はない。あたしとは別のため息をついた茉莉花の手を雑に放してキッと睨んだ。
「乱暴にすんなよー。ぼくは足が痛いって知ってるくせに。ほんっと汐音はドエスなんだから」
「どっちがドエスよっ、バッカじゃないのっ? どういうつもり? やたらとベタベタしてきて……」
「どういうって……。汐音が言い出したんじゃんか、公表して欲しいって。ぼくはお望み通りオープンに恋人として接してるだけだぞ?」
「こ、恋人って……」
そ、そりゃ言ったけど。公表して欲しいって言ったのはあたしだけど。言ったけどこんな突然。しかもなんの宣言もなしに……。
「あ、もしかして汐音ってば照れてる? 恥ずかしいのは最初のうちだけだって。すぐ慣れるし、慣れたら学校でこんな事だって……」
茉莉花の左腕があたしの身体をぐっと引き寄せる。右手で頭を支えられて、そのまま強引にキスを落としてくる。部屋以外でされた恋人同士のキスに一瞬とろけそうになるも、いやいやいやいやと平常心を叩き起こして我に返った。
「ちょ、ちょっとぉ……。こういうのは部屋で……」
「どうして? いいじゃん、公認のカップルがどこでキスしたっておかしくないっしょ?」
「おかしいっつーのっ。誰それ構わず学校でチュッチュしてる、あんたのその考え方自体がおかしいっつーのよっ。それ自体が風紀委員だの生徒会長だのに咎められていたのが分からないの?」
茉莉花はうーんと首を傾げた。ほんとに悩んでいるようで呆れのため息が出る。腕の力が緩まったところで茉莉花の身体をそっと離した。
「じゃ、汐音だけならいいって事? んなら他の子と堂々とするのはやめる」
「あんたバカ? 他の子とこそこそするのはあたしが許さないし、あたしと学校でするのもダメなのっ。どうやったらそんなおめでたい発想しか生まれない思考になるのよ」
「せっかく学校でも一緒にいられると思ったのにな……」
本気でしょんぼりしているところはかわいい。かわいいんだけど、話が噛み合っていない事にはイラつく。本物のおバカなんだか策略ですり替えられてるんだか判別つかないあたしもまたおバカなのだろうけど。
「と、とにかく、公表はして欲しいって言ったけど堂々とベタベタしたい訳じゃないのっ。分かる? 分かってくれる?」
「……うーん、まぁ気を付けるよ。ぼくだってどうしていいのか分かんないんだ。好きだから一緒にいたいし、姿が見えるのに一緒にいてくんないのは寂しいし。こそこそしなくていいならずっと側にいられるんだと思ってたのにな……」
「お預け食らった仔犬みたいな目しないのっ。部屋でずっと一緒にいられるじゃない。あたしはただ、あんたがふわふわしない為にも公表して欲しいって言っただけ。それとも何? あたしの事を監視したくなったとでも?」
「そうじゃなくてさぁ……」
茉莉花は大きなため息をついて肩を落とした。薄々分かってはいる、そこまで割り切れない理由がある事を。
元カノさんとは誰にも言えない恋愛をしていたから、こそこそ隠れて付き合うのは経験がある。だけど、いざあたしとの仲がオープンになってみたら、どこまで自然体でいていいのか判断出来ないんだと思う。
そんなに寂しがらなくても、あたしは逃げたり消えたりしないのに……。
「ったく、極端なんだから。付き合いたてのバカップルだと思われたら恥ずかしいでしょ。ただでさえあたしとは不釣り合いだっていうのに。あたしといると人目を引いちゃうのが分からないの?」
「不釣り合い? ぼくと汐音が? そうかなぁ、ぼくには汐音しかいないのに、ぼくにはもったいないって言いたいのか?」
「……逆。分からないならいいわ。傍から見たら釣り合わないって事と、公認でもしちゃいけない事があるって事だけは覚えておいて。どうしてもいちいち言わないと分からないなら今夜レクチャーしてあげるわ、常識とボーダーラインをね。じゃ、あたし玲ちゃんとお昼行ってくるから。話は部屋でね」
「汐音、冷たい……」
まるで鼻を鳴らした仔犬。鎖を付けていてもどこぞの雌犬に尻尾振るくせに、御主人様に指導されるとすぐしょんぼりする。ぶー垂れた飼い犬の髪を雑に撫でて「じゃあね」と背を向けた。
午後の授業は二日ぶりに身が入った。次の休み時間にも茉莉花が来るかもしれない、その心配がないだけでこんなにも集中出来るとは。ただ、会いにくる口実で持っていかれたお気に入りのシャーペンがない事を思い出す瞬間だけは、茉莉花の寂しげな顔が脳裏を過ぎていった。
ちょっとかわいそうだったかな……。帰ったらきちんと説明してあげなきゃ。
放課後まで茉莉花は姿を見せなかった。一安心とほんの少しの罪悪感が半分ずつ。図書室で本を借りてから帰ると言う鈴芽ちゃんとバイバイし、ちょっとだけ気になって通りすがりに六組をそっと覗いた。
そこには笑顔でクラスメイトとおしゃべりをする奈也の姿。一昨日の出来事があっても普段通りでホッと胸を撫で下ろす。だけど、肝心のお目当てさんは見当たらなかった。とっとと帰ったのだろうか。それとも、冷たくした腹癒せに仔猫ちゃんたちと遊びに繰り出したのだろうか。
「どっちでも……」
よく、ないか……。ちょっと気になるし、なんだか胸騒ぎがするし……。
晴れない霧を抱えたまま下駄箱に手を掛ける。茉莉花の靴も調べてみようか、一瞬過ぎったけどすぐかき消す。先にしょんぼり帰っていたら頭を撫でながら話し合おう。あたしが先に着いたら優しく出迎えてあげよう。不本意にすねさせてしまった時は後味が悪いからかわいがってあげたい。
「……あれ? なーんだ」
校門を出たところで、遠くに探し人の後姿を見つけた。やっぱり先に帰ろうとしていたのか、と困ったちゃんに苦笑が洩れる。忍び足で近付いて驚かせてやろうと息を殺した。
「いいから、ちょっとこっち来いってっ」
あと五メートル、というところで茉莉花の低い声が耳に届いた。誰かと話してる? 見れば電柱の影にマリンブルーのセーラー服を着た女の子が立っていた。どこの学校だろうか、見た事のない制服だった。白いリボンタイが清楚さを引き立たせている。
あー、そう。腹癒せにだか当てつけにだか、他校の女の子にもちょっかい出そうって根端ね……?
「違うよ。ここじゃなんだから、ねっ?」
なんだか急いで連れ去りたいご様子。あたしに見つかる事を恐れて焦っているって訳?
それなら……。
「まーりかっ。彼女を置いて帰るなんてひっどーいっ」
「わ、わぁっ! し、しお……」
後ろから茉莉花の腕にがっしりとしがみつく。自分でも吐き気のしそうな猫撫で声。あんたのナンパは本カノの登場により失敗よ、そうにやりと口角が緩んだまま顔を上げると……。
「あー、もしかしてこの子が今カノ?」
マリンブルーの女の子がまじまじとあたしを覗き込んできた。高い位置で束ねられた綺麗な黒髪のポニーテール。横に流した前髪から覗くつるんとしたおでこ。芯の強そうな目元。それはまるで……。
ふぅん、茉莉花はあたしみたいな子がタイプなのね?
「ふぅん、茉莉花は私みたいな子がタイプなのね? それとも、まだ私の影を追ってる、とか?」
……は? 私の……影?
って事は……もしかして……。
「よろしく、今カノさん。有馬詩織、茉莉花の元カノよ。だけど勘違いしないでね。私はよりを戻しにきたとかじゃないから」
元……カノ……。
外見だけでなく、名前まで……。
元カノとやらと同時に茉莉花を見る。二人の視線に茉莉花の目が泳いだ。『どういう事?』と足を軽く蹴って言葉を促した。
「し、詩織の言う通りだよ。ぼくだって別によりを戻そうなんて思ってないぞ? たまたまうちの学校に用事があって、たまたまばったり会ってだな……」
「……」
「汐音ーっ、ぼくの事が信用出来ないのかー?」
必死に訴える茉莉花の目を見る。あちらもじっとあたしを見下ろしている。今度は泳がせたり逸らしたりしていない。信じてあげるか……と腕の力を緩めた。
「汐音ちゃんっていうんだ? 私と似たような名前なのね。ますますシンパシー感じるわ。偶然にしては出来過ぎてるくらいだけど」
「詩織、あんまり煽るような事言うなよな。汐音が不安になるだろーが。うちの彼女は心配性なんだよ」
「あらあら、お熱いですこと。汐音ちゃん、愛されてるわねぇ。心配しなくても茉莉花はこう見えて一途だから大丈夫よ。ちゃらちゃらしてるのは上辺だけだから……って、付き合ってるくらいだからそんな事は百も承知、かな?」
にっこり笑うその顔には嫌味も裏もなさそうで。あたしには分かる、この人はほんとに茉莉花をたぶらかしに来た訳じゃない事が。茉莉花もまた、元カノの表情と言葉に安堵しているようだった。
それでも、別れた彼女とこんなにもさらりと笑い合えるものなのかという疑問は完全には消えない。あんなに好きだったのに、今こうして平然と話していられるのは吹っ切れているから? 今はあたしという恋人に満たされているから?
「ねーねー、汐音ちゃんは茉莉花の事何て呼んでるの? やっぱり、ダーリン?」
「詩織と一緒にすんなって。汐音はそんな恥ずかしい呼び方しないぞっ」
「ふぅーん。せっかくだから色々聞きたいなー。今日は彼氏が七時にお迎えに来てくれるんだけど、それまで三人でお話しない?」
「やだよっ。詩織ってばある事ない事吹き込みそうだから。汐音に変な誤解されたら、信用取り戻すのにどれだけ時間あっても足りないよ。それに、身体がいくつあっても再起不能に……」
もう一度軽く足を蹴飛ばす。元カノとやらにバレないようにやったつもりが茉莉花の大げさなリアクションでバレたらしい。「仲いいわねー」とケラケラ笑っている。
明るくてサバサバしてて気持ちのいい人 ……。ねちっこいあたしとは全く違う。こんな人だからこそ、スパッと茉莉花を捨てて留学へ行けたのかもしれない。
だけど、当時の茉莉花が捨てられてふさぎこむくらい好きだった人。大切過ぎてキスすら出来なかった人。そこまで茉莉花を夢中にさせた程、元カノさんもまた茉莉花を大切に思っていたのかもしれない。
「帰ろう、汐音」
その頃の二人はどんな会話をしていたのだろう。何を思っていたのだろう。あたしの知らない茉莉花を知っているという事実にもやついてしまう。
「えー、いいじゃない。ねっ、汐音ちゃん」
過去には戻れない。昔の茉莉花を知る事は出来ない。大切だからキスすら出来なかったというウブな茉莉花を知っているのはこの人だけ。
「いいわ。彼氏さんが来るまで、三人でお茶でもしましょうか」
今はあたししか見ていない、そう二人は断言していても、胸に何かが詰まったまま……。