70☆嘘つきトライアングル
湿度のせいか焦りのせいか、背筋に嫌な汗が滲んでいる。茉莉花の背から離した腕もしっとりと手汗をかいていた。
廊下の窓からはオレンジ色の光が差していて、梅雨の晴れ間の太陽がこちらを覗いている。奈也の姿は逆光で、表情まではよく分からなかった。ただ、小さく問い掛けた答えを待っている事は確か。ゆっくりと一段一段踏みしめながら降りてくる。
「ち、違うの、奈也……。あたしは……」
踊り場でへたり込む茉莉花も、隣にぺたんと座ったあたしの表情を横目で窺っているようだった。手汗で湿ったままスカートの端をぐっと握りしめる。何て言おう。何て返そう。何て答えよう。真っ白な頭の中で、出せない答えがぐるぐると駆け回る。
「……違うの? だって、今『まりか』って……」
「ちが……。あたしは、その……ご、ごめん……」
「どうして謝るの? 本当の事を言ってよ、汐音。アタシたち、友達でしょう?」
俯いたあたしの視界に、最後の一段を降りる奈也の足が映った。ゆっくりと近付いてくる。茉莉花も黙ったままぴくりとも動かなかった。身体が熱過ぎて床の冷たさすら感じなかった。
「否定しないところを見ると本当なのね……? 黙ってたら認めた事になるけど……そうなの? 汐音」
「……」
「嘘をついてたの? 言ったじゃない、好きな人はいないって。マリッカの事なんか嫌いだって……」
「……ごめん。嘘、つくつもりはなかった……」
しばらく重い沈黙が走った。奈也はそれ以上近付いてこない。茉莉花も微動だにせず、ただ時折こちらに視線をよこすだけだった。ピアノの音が遠くから聴こえる。黒宮部長のピアノだ。
こんな事なら、あたしだけでも部活に行けばよかった……。
「隠してて何が悪いの?」
沈黙を破ったのは茉莉花の一言だった。と同時に体勢を立て直して、痛めたのであろう左足を摩りながら続けた。
「仲いい友達にだって言えない事の一つや二つあるっしょ。ましてや誰が好きだとかって、恥ずかしくて言えない子がほとんどなんじゃないの? それを隠してたところで嘘ついたとか裏切られたとかって言うのは、それこそ友達ごっこなんじゃないかな。ほんとの友達なら、大切な人の事影ながら応援出来んじゃないかってぼくは思うよ」
「……アタシは、最初に聞いたんだもん。いないって言ったからアタシは……」
「例えそれが嘘だったとしても、相手を傷付けない為の嘘は必要だとぼくは思う」
「……マリッカは……知ってたの? 汐音の気持ち」
「……なかなか好きとは言ってくれないけどね」
苦笑いを浮かべた茉莉花が覗き込んでくる。あたしが顔を上げると「ねー」と言って首を傾げた。どんな顔したらいいのか分からず、あたしはただにこにこする茉莉花を見つめていた。
「奈也ちゃんだって、汐音に言えない事一つくらいあるっしょ? 全部曝け出すのがほんとの友達って訳じゃないと思うけどな。それとも、全部吐き出さないと友達にも恋人にもなれないの?」
「そ、そうじゃない。アタシはただ、汐音に好きな人がいないなら、アタシにもチャンスがあるのかなって……。だったら、好きな人がいるって……最初から言って欲しかった……」
「……気持ちは分からなくないけどさ、好きな人がいるくらいで諦められるんなら、それってほんとの『好き』なんかじゃないんじゃないの? 例えば……誰かの影を汐音に重ねてるだけ、とか」
茉莉花のトーンが下がる。目を細めてじっと見上げる茉莉花の視線の先には、動揺した様子で毛先を握りしめている奈也の姿。
確かに正しい。茉莉花の言っている事は正しい。だけど、悪いのは隠してたあたしの方なのに……。嘘をついたあたしの方なのに……。
嘘に嘘を重ねた。茉莉花と奈也のデートだって嘘の塊。大切と言っておきながらあたしたちは奈也に嘘ばかりついている。
なのに、これじゃあまるで奈也を責めているみたいで……。
「奈也、黙っててごめん。でも、ちゃんと言おうと思ってたの。色々事情があってすぐにはカミングアウト出来なかったけど、あたしは奈也とちゃんと向き合っていくつもりだったから、時間が掛かってでもほんとの事を言おうと思ってた。だけど……たくさん振り回しちゃってごめん……」
「……ううん。怒ってる訳じゃ、ないから……。でも、もうアタシは汐音の事、嫌いにならないといけないのかなって……」
「聞いて? 奈也……」
あたしよりもだいぶ背の高い奈也の背に腕を回す。ぎゅっと抱きしめると奈也の身体はふるふると震えていた。泣きたいのを我慢しているのだろうか。そんな事、一切必要ないのに……。
背中をゆっくりと摩る。奈也のブラウスもしっとりと濡れていた。足りないのが愛情ならば、あたしの知っている愛情表現、全て奈也に見せてあげるから。
「奈也はあたしの大切な友達だよ? あたしの事、好きって言ってくれて嬉しかった。だけど、もしあたしに好きな人がいると知ってたら、奈也はきっとあたしに告白してくれてなかったよね。そしたら今みたいに楽しくおしゃべりも出来ない仲だったと思う。そんなの、寂しいじゃない……」
「しお……ん……」
「でもね、奈也と仲良くなる前から大切にしたいやつが出来ちゃってただけなの。奈也も大切なのに、あたしって欲張りかなぁ。好きになるのも嫌いになるのも簡単じゃないから、例えあたしが嫌われたとしてもあたしは奈也を簡単に嫌いになったりしないよ。もっとたくさんお話して、もっと仲良くなりたい、って思ってるの」
「汐音ーっ」
奈也が抱きしめ返してくれた。いつもいつも感情が高ぶると力の加減が分からなくなってくる奈也の腕はやっぱり苦しいくらいで……。でも、これでやっとほんとの仲直りが出来たのだと安心して奈也の胸に顔を埋めた。
嗚咽をもらしながらぽろぽろと涙を流す奈也の背中を摩っていると、後ろからわざとらしい咳払いが聴こえた。あぁ、そういえば、と視線を送る。目が合うと茉莉花はジト目であたしたちを見上げていた。
「何よ」
「何よ、じゃなくて。美しい友情を見せつけてくれてるとこ悪いんだけどさ、やっぱりちょっと肩貸してくんない? 足首痛くて……」
「ふぅん。妬いてるからって、大げさに怪我人ぶらないでよね」
「はいー? なんだよそれー」
緩まった奈也の腕からするりと抜け、まじまじと茉莉花を見下ろす。痛いと言ってる割りにへらへらしていて気に入らない。さっきはよくもバラしてくれたわね、とげしげしと軽く蹴りをお見舞いした。
「あたしの事ばっかバラしてんじゃないわよっ。片思いされちゃいましてー、みたいに涼しい顔しちゃってさぁ。あんたはどうなのっ? ほらほら、この際あんたの気持ちも聞いてもらいなさいよっ。ほらっ」
「痛い痛いっ。誰のせいで怪我したと思ってんだよー。『大切にしたい』って言ったばっかだろー? もっと大切にしろよーっ」
「うっさい、それとこれとは話が別よ。ほらっ、自分の口から言ったら肩貸してあげてもいいわ。早く言いなさいよ、ほらほらっ」
げしげしと蹴りつづけるあたしと必死で抵抗しようとする茉莉花を見て、奈也は涙を拭いながらくすくすと笑い出した。夫婦漫才みたいで恥ずかしいけど、奈也が笑ってくれるならこれでいい。
「わ、分かった分かった。言えばいいんだろ、もー……。あの……奈也ちゃん? 汐音の事だけバラしたけど、実はぼくから告白して付き合ってもらってます、はい……」
「えっ? つ、付き合ってるのっ? そ、それなのに……」
きっと今の奈也の頭の中では、昨日のトイレでの出来事がぐるぐる回ってるに違いない。それに日頃のチャラいナンパ癖も、誰それ構わずベタベタする振る舞いも。理解不能でも仕方ない、自業自得だもの。目を白黒させた奈也はしばらく茉莉花とあたしを見比べていた。
「茉莉花が言い出したのよ? 奈也とちゃんと向き合ってからカミングアウトしよう、って。それなのに自分で計画めちゃくちゃにしてくれちゃってさぁ」
「汐音こそ、学校で散々『獅子倉さん』呼ばわりしてたくせに、血相変えてマリカマリカ言ってたじゃんかよー。あれじゃ遅かれ早かれバラさなきゃおかしいだろ」
「むっ、あたしのせいですって? 元はと言えば、あんたがいじけ出したからもみ合いになったんじゃないっ。そうやっていっつもいっつもあたしのせいにしてーっ」
「加減ってもんがあるだろー? あそこに倉田先生いてくれなかったら、今頃ぼくは『階段の花子くん』になってたかもしんないんだぞ? ぼくを責める前にまず謝れよなー。ねっ、奈也ちゃん」
きゃんきゃんと言い合ってたあたしたちが奈也に視線を戻すと、奈也はお腹を抱えて笑っていた。今度はあたしたちがぽかんとする。何がそんなにおかしかったのだろうか。茉莉花と目が合う。
「ぷふふふふっ、本当に仲がいいのね。ケンカするほど仲がいいってことわざ、こういう人たちの事をいうのかぁって納得しちゃったぁ。うちの両親には当てはまらなかったから信じてなかったけど、あれは汐音たちみたいなカップルの事を言うのね。あー、お腹痛い……」
「そ、そんなにおかしかったかな……?」
「うん、おもしろかった。ケンカっていうより仔犬の兄弟がじゃれてるようにも見えたけど。やっぱり、アタシの思った通り二人は気が合うのね。おいしいところ見せ付けられちゃった。ごちそうさまっ」
言われて顔が火照っていく。慌ててそっぽを向くも、きっと二人には見られてしまっただろう。最後に一発強めの蹴りをお見舞いしてから「ほらっ」と立ち上がらせる。怪我になのか蹴りになのか、痛いとぶつぶつ呟く茉莉花のバッグを拾ってあげた。
「アタシ、汐音の事もっと好きになったかも。迷惑?」
「え? そんな訳ないじゃない。こんなあたしでいいなら大歓迎よ?」
「えへへ。なんかね、今までのモヤモヤがすっきりしてきた気がするの。愛されたいのに上手くいかないもんだなぁっていうのはあるけど、息ぴったりの恋人の前で堂々とフラれて吹っ切れたみたい。強くてかっこよくて優しくて暖かくて、好きな人がいようが恋人がいようがそれがマリッカだろうが、アタシはそんな相葉汐音が好きだなって思ったの」
「ふふんっ、いいだろー。汐音はぼくんだぞ?」
「うっさいっ。あんたは黙ってなさいっ」
せっかくのいい話が茉莉花の一言でムードぶち壊し……。でも、そんなあたしたちを笑って受け入れてくれて嬉しかった。今の奈也は髪いじりをしていない。心が落ち着いている証拠。やっと分かり合えた気がする。あたしの事も、奈也の事も。
それからあたしたちは懺悔大会をした。あたしは恋人がいないという嘘について。奈也はあたしを襲った件について。茉莉花は芝居でも奈也を襲おうとした件についてを。だけど、女体コンプレックスがあたしでなく茉莉花だという事実だけは隠したままにしておいた。
だって、それは恋人であるあたしだけが知っていればいい秘密だもの……。それに、万が一克服する術を知っている人の耳に入って治療されようものなら浮気でもされやしないか心配でたまらないしね。
帰り道も、あたしたちに笑顔は尽きなかった。若干足を引きずる茉莉花のペースに合わせながらゆっくりと帰路につく。すっかり茜色になっていた空には雲一つない。梅雨は明けたのだろうか。西日が眩しくて目を細めた。
奈也を分かれ道で見送った後、部屋に帰って仲直りのキスをしたのは二人だけの秘密……。




