66☆こだわりと理性
「そそそっ、それはちょっと……。別のお願いないのかよっ。肉体的な事以外でっ」
時刻は十時を過ぎたところ。こっちは寝る支度万全での質問。だから余計に茉莉花があたふたしているのだろう。一度ベッドの方を振り返って引き攣り笑いを浮かべている。
「……分かった。じゃあ、百歩譲って添い寝でいいわ。絶対見ないって約束するから、ショーツ一枚で添い寝。絶対見ないし触らないって約束するから」
「……ぜ、絶対? ……いやいや、やっぱもうちょっと考えさせてっ。ぼくはほら、あれだっ。口にしてくれなくても、汐音はぼくの事大好きだって伝わってくるから、だから、わざわざ改まって言ってくれる必要ない。うん、ない。だからこの取り引きはなしという事で……」
そそくさと歯磨きセットを片手に出ていこうとする腕をがっしり掴む。恐怖に引き攣った茉莉花の顔が滑稽でならない。あたしの中のサディスティックがうずき始めるのを必死で堪えた。
だけど、そんな事より知りたい事がある。今聞かなきゃ、いつ訪れるか分からない機会まで聞けない気がするから。あたしは冷静さを取り戻す為にぷるぷると頭を振って問い掛けた。
「一つだけ教えて? 茉莉花は、あたしとそういう事をしたいと思った事はないの? あたしがいつも隣のベッドで半裸で寝てても襲いたいと思った事はないの?」
「は、はいー? 襲うって……。あ、あのなぁ、汐音……」
抵抗する素振りを見せなかったので掴んでいた手を放した。茉莉花は少し項垂れた様子で、しばらくしてから一つ咳払いをして口を開いた。
「あのさ、ぼくは汐音とどうこうしたいと思わなかった訳じゃない。そりゃ女同士だろうが男女だろうが、好き同士なら自然に湧いてくる生理現象だと思うんだ。だけど、いくら恋人だからって強引にするのは間違ってると思う。ぼくのコンプレックス云々だけの話じゃない。例えぼくにコンプレックスがなかったとしても、ぼくはきっと同じ事を言ってると思うよ」
「……そうなの?」
「忘れた? 千歳に邪魔されて先に進めなかった夜の事。ぼくがその気ゼロじゃないって事、あの夜が証明してると思うんだけどな。ぼくはヘタレだの乙女だの言われたって、同意もないのに肌を重ねる事はしたくない。ぼくが雰囲気とかムードにこだわってるっていうのは、そういう意味だよ」
もう少し照れたような素振りをするのかと思っていた。もしくははぐらかしてくるんだと思っていた。予想外の真剣な眼差しに何も言えなくなった。
「そのせいで寂しい思いさせてるならごめん。だけど、片方の欲求だけで身体を求めるのって、それこそ汐音が奈也ちゃんにされた事と同じだぞ。汐音が一番嫌いな『無理矢理』だ。ぼくだってそんなの嫌だし、そういう大切な事は精神的な受け入れ状態が必要だと思ってる。だから、もしぼくが汐音を欲しくなったら、その時はちゃんと言うから……いいでしょ?」
「……ちゃんと答えてもらってない」
「だからさ、さっきの質問の答えはノーだって事。……じゃ、行ってくるね」
吐き捨てて茉莉花は部屋を後にした。出ていく間際にぽこっと叩かれた頭に手を置く。言いくるめられたのだろうか。それとも跳ね除けられたのだろうか。
あたしだって、大切にしたい気持ちは同じなのに……。
「ふんっ、どーせ……」
信じてくれてないんでしょ、あたしの気持ちなんて……。
ぼふんとベッドに倒れ込む。怒っちゃダメ。すねてもダメ。そう自分に言い聞かせて足をバタつかせる。やり場のないもどかしさに大きなため息が出た。
ふと茉莉花のデスクを見やる。あの夜、茉莉花があたしを求めてきたのはあのデスクチェアでだった。首筋と胸元に受けた感触を思い出すと全身が熱くなっていく。
あの時、千歳が入ってこなかったら、茉莉花はあたしに何をしていただろう。あたしたちはどうなっていただろう。やっぱり途中で断念していただろうか。諦めておとなしく寝てしまっただろうか。
それとも……。
「汐音」
物思いにふけていると扉の方から声がした。瞬間、肩がびくっと震えてしまった。そんなあたしを茉莉花が首を傾げながら見つめている。
「び、びっくりしたぁっ。静かに入ってこないでよねっ」
「なんだ、泣いてたんじゃないのか。心配で早く帰ってきちゃったじゃんかよ。ちょっと傷付けちゃったかなって反省してたのに」
「泣いてないわよ。むしろ……」
ちゃんと言ってくれて嬉しかったし。
『もしぼくが汐音を欲しくなったら、その時はちゃんと言うから……いいでしょ?』
ダメな訳ないでしょーが……。変なとこバカ真面目なんだから……。
「ぼくさ、歯磨きしながらボーッと考えてたんだ。汐音はぼくのどこが好きなんだろうって」
「……は? 何よ、唐突に」
茉莉花はデスクに歯磨きセットを置き、それからすとんと椅子に腰掛けた。肱掛けで頬杖をつきながらじぃっとこちらを見つめている。あたしがパチクリしていると、小さく首を捻って問い掛けてきた。
「デートの時に濁されたけどさ、実際どういうところが好きで付き合ってんだろうって改めて思ったんだ。自分で言うのもなんだけど、優しいってのはよく言われる。だけどぼくくらい優しいやつなんて五万といるだろ? かといって男嫌いな汐音にとってはぼくの容姿はタイプだとも思えない。ぼくの自慢のファッションや歌声にも無反応だし、他にぼくに惚れる要素が見当たらないんだよね」
「そこまで並べられちゃうと、あたしもどこだか分からなくなってきたわ……。でも、理由も理屈も必要なくない? 『なんとなく』じゃダメなの?」
「んー、まぁ……そうだけど……」
納得いかないご様子……。自信家の獅子倉茉莉花さんでも自信を持てない時もあるのね、とどこかホッとしてしまう自分がいる。
「あんただって、あたしのどこが好きなのかハッキリ言わないじゃない。おあいこでしょ。多分あたしの方が不安抱えてると思うけど? 学校での獅子倉茉莉花を見てると自分は何なんだろうって思うもん」
「……だよね。はー、なんでぼくってこう……」
茉莉花は黙ったまま頭を抱え出した。あたしは何気なくその光景を眺めていて複雑な気持ちになった。あたしの投げた直球を、どう返してくれるのか楽しみ半分、聞きたくない半分。
あたしはもぞりと起き上がって茉莉花の座るデスクチェアの前でしゃがみ込んだ。不思議そうに見下ろす茉莉花と目が合う。あたしがしてあげた膝枕ってどんな気分なんだろう、そう思ってそのまま茉莉花の膝に頬を寄せた。
「どした?」
「……ううん。悪くないなって思って」
「……でしょ?」
それだけ言って優しく撫でてくれた。するのも愛おしさを感じるけど、されるのも悪くない。宝物を愛でるような手付きが心地いい。
不安要素はたくさんある。だけど、キザったらしい獅子倉茉莉花でも、きっと誰にもこんな事はしない。表面上は同じに見えても、指先一つ一つのしなやかさも体温も、こんな風に愛おしさを感じるそれではないと分かるから。
ゆっくりと目を閉じる。さっきは茉莉花の事を甘えん坊のチワワと口にしたけど、こうして頭を乗せているだけでご主人様の膝で丸くなった猫になった気分。気持ちがいい。ずっとこうしていたいと言ってくれた茉莉花の気持ちがよく分かった。
「汐音」
ぴたりと手が止まる。赤毛を梳きながらそのままあたしの頬に手を添えて覗き込んできた。顔を上げるとギィッという音と共に茉莉花はデスクチェアから立ち上がった。
「汐音はかわいいな……。ずっとこうしておとなしく甘えてくれてればいいのにさ」
「……余計なお世話よ。自分だっておとなしくあたしだけのものでいてくれれば……」
「いいよ」
「え? 何が……きゃっ」
聞き返す途中で抱きしめられ、そのまま優しく床に押し倒された。フローリングのヒンヤリとした冷たさが伝わってくる。茉莉花はじっと黙って見下ろしていた。逆光で表情がよく分からない。
「ちょ……や、ヤダ、何のつもり……?」
「何の? 何のって……」
そっと、低く囁く。
「汐音だけのものになってあげるって言ってんだよ」




