64☆難攻不落のスペシャリスト
何を言ってるの?
膝に乗せられた紙袋を握りしめるとガサッという音がした。茉莉花の視線がそれに落ちる。心臓の鼓動がどんどん早まっていく。
あたしじゃない? 好きじゃない? お母さんの……影……?
「……そんな……あたしはそんな生半可な気持ちのまま襲われたって言うのっ? あたしの事好きだって言ってくれたのは嘘だって言いたいのっ?」
「落ち着けって。彼女はまだそれに気付いてない。もちろんぼくも言ってない。お母さんの影ってのは、あくまでぼくの憶測だからね。だけどこれだけは言える、あの子は汐音に恋愛感情を抱いてる訳じゃない。興味からの執着だよ。そして、その過剰な執着は凶器だ」
執着……。
過剰な執着は、凶器……。
「あんたに、あんたに奈也の何が分かるって言うのよっ! ろくに関わりもしなかったクラスメイトのくせに、奈也とあたしの何が分かるって言うのっ? あたしは奈也に乱暴されたのに、それも気持ちの勘違いでしたって言いたいのっ? あの事が起こるまではすごく優しかったのよ? 手作りのプレゼントだってそう、なるべくお金のかからないデートにしてくれたのもそう、話だって楽しかったし、いつもあたしを気使ってくれてた。それでも勘違いでしたって言うの? 好きでもなんでもなかったって言うのっ?」
そうよ、勘違いな訳ないじゃない。勘違いでこんなに心のこもったプレゼントが作れるもんですか。勘違いであんな事をされたって言うのなら……。
下種な男共と同じじゃないっ!
「興奮すんなって。別に汐音をからかってたって言ってる訳じゃないんだ。ただ、友達以上の感情はないんじゃないかって言ってるだけだよ。誰も汐音を嫌いだったなんて言ってないだろ?」
「だけど、あんたが……っ」
「大事なことだから言っておくけど、彼女は汐音の事を何も知らない。汐音だって奈也ちゃんの事を何も知らなかったじゃんか。それでも『好き』って言葉にこだわる訳? だとしたら、ぼくの時と違って汐音はずいぶんガードが甘いんだな。それとも、お互いに何も知らないから信じていられたとでも言うのか?」
「……」
「奈也ちゃんの中では、何も知らないから余計に妄想が先走って都合のいい汐音像が出来上がってる。ぼくから言わせれば、何も知らないくせに汐音の何を好きだって言ってんだって感じだよ。恋人であるぼくだって汐音の全てを知ってる訳じゃないっていうのに」
一息で言い切った茉莉花がじっとあたしを見つめる。すねる事はあってもあまり感情的にならない茉莉花の尖った声に胸がぎゅっとなった。
あたしは何も返せずに黙って俯いた。しばらく茉莉花も沈黙していたけど、一つため息をついてあたしの前にしゃがみ込み、そして覗き込むように見上げてきた。
「汐音、黙るなよ……。嫌な言い方だったなら謝る。……怒らせついでに話すと、奈也ちゃんには『汐音の秘密』ってのは、汐音は女体コンプレックスだ、って言った……」
突拍子もないカミングアウトに思わず顔を上げた。目が合うと、今度は茉莉花がバツの悪そうな顔でうな垂れる。開いた口が塞がらずにいると、チラチラこちらを見ながら様子を窺っている。
「は、はぁ? それはそっちでしょっ」
「そ、そうなんだけどさ……。怒ってるだろうけど、嘘もつかないし隠しもしないから怒んないで最後まで聞いてくれよ……」
本家本元本物のヘタレ女体コンプレックス娘が情けない声を出す。理解に苦しむ話ばかりが続いているというのに、意味不明な解説が始まった。
「ほんとは寮の浴場で見るのも見られるのも抵抗があるらしい、って教えたんだ。だから、嫌われたくないなら汐音の身体に軽々しく触れない方がいいよ、って言っといた。ものすごい形相で青ざめてたよ。まさか、すでに乱暴しちゃいましたーとは暴露出来ないだろうしね。絶句してた。だから、もうあの子は汐音に手を出したりしない。ぼくが保障する」
絶句してるのはあたしもですけど……。
「お、怒るなっていうのも難しいかもしんないけどさ、ぼくは今後汐音が嫌な目に合わないように伏線を張ったんだ。奈也ちゃんには嘘ついたけど、汐音には嘘偽りなく全て話したぞ。汐音に隠してた今日の出来事は全て話した。嘘も隠し事もない」
「……」
「信じて……くんないの?」
茉莉花は言い終わるとしゃがみ込んだままあたしの膝にアゴを乗せてきた。何度か味わったこのしぐさ。茉莉花が甘える時にするしぐさ。放置されて構って欲しい仔犬みたい……。
甘えるような上目使いがやたらとかわいい……。こいつ、あんまり甘えてこないくせに、こういうおねだり顔が出来るとは……。まったく、しゃべらずにずっとこんな表情してればそこら辺の女の子に負けないくらいかわいいのに……。
そんな顔されたら、もやもやもイライラも薄らいじゃうじゃない。
「わ、分かったわよ。全部信じる。だからそんな顔しないでよ……」
「……撫でて欲しいなー……」
今度は褒めて欲しい仔犬なの? ご希望に添えてあげないと、ふりふりした尻尾が垂れさがっていくって訳?
それでも、わくわくしながら目を閉じる姿もかわいくて思わず手が伸びてしまう。雨でほんのり湿っていた茉莉花の猫っ毛を梳きながらあたしも目を閉じる。
何考えてんだかともやもやしていたけど、全部あたしと、あたしたちの為に頑張ってきてくれたのだと思うといじらしい。不器用なくせに、他面を装おうとするから疲れちゃったんだろうに。あたしを欺いたり騙したりしたのは気に入らないけど、あたしの膝で安心しているこの姿を見せられたら許せないものも許せてしまう……。
「茉莉花」
「うん?」
「今回は無い知恵絞って頑張った努力に免じて許してあげる。でも、次に同じような手を使ったら……」
「うん。もうしない。だから、もうちょっと撫でて?」
「……ったく、しょうがないわね、バカチワワ……」
静かに時が過ぎていく。穏やかな二人の時間が本当に愛おしい。気付けば雨音は止んでいた。
この子に、茉莉花にこんな事が出来るのはあたしだけ。求めるのはあたしだけ。外ではキザな言動をしていても、あたしの前だけはかわいい姿を見せてくれる。甘えてくれる。だから許せてしまう愚かなあたしは過保護なのだろうか。
あたしにだけ見せてくれるこの甘えん坊な姿は、きっと末娘というからではなく、両親の愛情をたっぷり注がれたから自然に出せるのだろう。お母さんが受けられなかった分も、きっとたくさんたくさん注がれてきたのだろう。愛し方が分からなかったお母さんと、お母さんに愛情を教えたお父さん、それからお兄さんたち、家族全員に愛されて育ったのだろう。
茉莉花が言っていた、お母さんはお父さんと付き合い出してから変われたのだと。お父さんに諭されてというだけではなく、愛されて変わる事が出来たのだとしたら……。
「ねぇ、汐音」
「何?」
「思ったんだ、奈也ちゃんにもこんな風に安らげる人や場所があれば変われるんじゃないかって。ぼくの母さんがそうだったように。愛情不足は今からでも補えるんじゃないかってさ」
「あたしも同じ事考えてた。愛着障害とやらが幼少期からのものだとしたら、そう簡単に克服出来るとは思えないけど……。それでもあの子の純粋な気持ちが暴走するのは自滅行為と同じだもの。あたしは、あたしを好きだって言ってくれた奈也を信じてあげたい。奈也とはいい友達でいたいし、幸せになれなくても不幸にはなって欲しくない」
茉莉花はようやく頭を上げるとあたしの手を握って頷いた。考えていた事は同じ、千歳程じゃないけどお節介焼きなあたしたちらしい。不器用なくせに他人の事は放っておけないおバカなあたしたちらしい。
「ふふんっ、さすがぼくが選んだ恋人だけあるね。汐音はやっぱりかっこいいや」
「それはそれはありがとう。自称『かっこいい』獅子倉茉莉花さんに褒められて光栄だわ」
「嫌味言うなよ。せっかく人が褒めてんのにさぁ。かわいくねぇなぁ」
「かわいくない? あはっ、そっちの方があたしにはしっくりくるわ。ちなみに、あたしから言わせればあんたは『かっこいい』じゃなくて『かわいい』よ。膝枕で幸せそうにしてるチワワちゃんだもの」
「ち、チワワって言うなーっ」
言いながらまた膝に顔を埋めた。あたしはその愛おしい恋人の髪をゆっくりと撫でて幸せを噛みしめる。茉莉花はお母さんにもこうして甘えていたのだろうか。こうして撫でられていたのだろうか。どんな顔しているのか覗き込もうとしたらそっぽを向かれてしまった。
「ねぇ」
「……何だよ。ぼくはもう報告する事はないぞ」
「そうじゃなくて。これ、何だと思う?」
まだ未開封のプレゼント。初めはシュシュ、次にハンカチ、そしてキャミソール。手芸も裁縫もやらないあたしより、服飾科の茉莉花の方が何か分かるかもしれない、そう思って試しに尋ねてみた。
茉莉花は伏せていた顔を少し上げて目だけをよこしてきた。あたしがカサカサと紙袋を振ってみせると、しばらく唸ってそれから切り出した。
「ぼくが作ってプレゼントするなら、やっぱ洋服かもしんないけど……そうだなぁ、王道なとこだと枕カバーとかクッションカバーとかだろうね。でも、あんだけの刺繍も出来ちゃう奈也ちゃんが四角い物を作るとも思えないしなぁ……」
「だよね。こないだあんたが描いてたデザイン画とやらも変な服の絵だったしね。あんたがかわいい洋服作れそうには見えないもん。確かに奈也ならカバー類じゃなくてかわいい小物かなんかな気もするな……」
課題だと言ってこの間描いていたのは、片方だけデコルテが見えるロックテイストなTシャツだった。袖は編み上げになっていて、胸元にはなぜか斜めにチャックが付いていた。こんな奇抜な服をほんとに作るやつが……いや、着るやつがいるのかと思ったけど……。
「変なって言うなっ。ちゃんと将来の為に残しとくデザインなんだぞ? ぼくはフェミニンな男性でもマニッシュな女性でも着られるユニセックスな服を作りたいんだ。そういうのをぼくも着たいし、ぼくのような人にも着てもらいたいと思ってる。……おかしいかよ」
じろりと睨まれてちょっと反省。こいつでもちゃんと夢を持っているんだと正直関心した。漠然とした夢も目標すらもないあたしなんかよりずっとずっと逞しく思える。
「ごめん、変なだなんて言って。ちゃんと夢を持ってて偉いね。あたしなんか将来の事、何も考えてないや」
「汐音がなりたいものないなら、ぼくの秘書になってくれてもいいよ? 秘書は信頼出来る人がいいからね。店舗だとレジぶっ壊したり顧客管理用のパソコンぶっ壊したりする可能性があるから、ぼくの側で座っててくれるだけでいいよ」
「……それ、喜ぶとこじゃないわよね? ツッコんでいいとこよね? ぶっ飛ばすわよ?」
「うわわっ、タンマタンマっ。ぼくはただスカウトしてるだけじゃんかー。そ、それより開けてみようよ、それ」
慌てて飛び起きた茉莉花が引き攣り笑いしながら紙袋をつんつん突く。話をすり替えようとしているのがバレバレでおもしろくない……。
「……まぁいいわ。なんにせよ、あたしの為を思って作ってくれた物だもん、奈也の事だからきっと心のこもったプレゼントが……」
テーピングを綺麗に剥がしてガサついた紙袋に手を突っ込む。柔らかい感触に首を傾げながら引っ張り出した物は……。
「ブラウス……」
それも、あたしが破かれたあれに限りなく似せたブラウスだった。
「汐音、それ……」
フリルやレースの形状はあのブラウスとほぼ同じだった。千歳に借りたのはオフホワイト、でもあたしの好きな薄い桜色で作られたそれは、きっとあたしの好みを取り入れた気配りなのだろう。胸元にはやっぱり小さなシオンの花の刺繍……。
世界で、たった一つのブラウス……。
「泣いてないで着てみなよ、汐音。きっとすごく似合う」
手の甲でごしごしと涙を拭って宛がう。茉莉花はうんうんと頷いてから背を向けた。一つ一つ丁寧にボタンを外して慎重に袖を通す。
驚きと感動で言葉が出ない代わりに涙が出る。するりと腕を通すとヒンヤリした冷たさが心地よかった。さっき聞いたばかりの話からするに、小さい頃からミカちゃん人形の洋服を作っていただけあって目立った粗がもない。
「着れた?」
未だに恋人の着替え姿さえまともに見られない茉莉花が尋ねてくる。最後に襟元のボタンをしっかり嵌めて返事をした。
「どう、かな……」
「うん。似合ってるよ。すごくかわいい」
「茉莉花ぁ、ありがとね……」
するりと首に腕を回して身体を寄せる。そんなあたしを茉莉花は優しく抱きしめてくれた。
「どうしたの? やけにしおらしいじゃん。ぼくに褒められたのがそんなに嬉しかった?」
「違う。ううん、それもあるけど……ありがと、ありがとね、茉莉花……」
茉莉花の首元からは、いつもの男物の香水の匂いがした。初めはちゃらちゃらしてて大嫌いだったこの匂い。いつしか落ち着く香りになっていた。
雨でしっとりと濡れている肩におでこをくっつける。ありがとうの意味が分からなかったのだろうか、茉莉花は少し間を置いてからぎゅっと腕に力を込めた。
「……うん。でも、それは奈也ちゃんにも言ってあげなね?」
「うん、もちろん言う。……だけど、今はあんたに言ってんのよ……」
ごめんね。だけど、ありがとう。
茉莉花があたしを騙してくれなかったら、奈也とあたしはずっと掛け違えたままだった。すれ違ったままどこにもたどり着かない仲になっていた。
でも、これでやっと向き合える。正々堂々と奈也に向き合える。茉莉花に後ろめたい思いもせず、背を向ける事もなく。こんな風に穏やかな気持ちのまま……。
曝の奥の茉莉花の鼓動が聴こえる。しゅんと鼻を啜ると優しく背中を叩いてくれた。あたしも、いつかこうして奈也の心を溶かせる友達になれるだろうか。癒やせる友達になれるだろうか。
「ったくもー、あんたって言うなっ。感謝の言葉が台無しだぞ?」
「あんたなんかあんたで充分よ」
愛するって、愛されるって、こんなにも暖かくて気持ちいいものなんだよ、って教えてあげたい。奈也ならきっと変われる。あたしが、あたしたちが変えてみせる。
大丈夫、うちの恋人は鋼の壁をも壊してくれた、難攻不落のスペシャリストなんだから。
「泣きながら抱きついてるやつがよく言うよ。説得力の欠片もないってーの。……ねぇ、汐音……?」
仲直りに、今夜は一緒のベッドで寝ようね? ……って先に言ってやったのはあたし……。




