52☆汐音+(2×2)=5つの顔
「おっはよー、えりちゃん」
「おはよう。汐音、今日はやけに上機嫌なようですけれど、何かいい事でもありましたの?」
「えっへへー、ちょっとねー」
下駄箱で見かけたクラスメイトのえりちゃんに軽い挨拶をしてそそくさと教室へ向かう。同じクラスだというのに追い越したあたしを不思議そうに見つめるえりちゃん。月曜だというのにご機嫌がにじみ出ているあたしとすれ違えば誰もがそう思うかもしれない。
昨日の茉莉花とのデートは予想以上に楽しかったし、嬉しい事もたくさんあった。だからこんなにテンション高いの、とは誰にも言えないけど……。
手を繋いで歩けた事、ぬいぐるみを取ってくれた事、やらかしてしまったあたしの代わりに謝ってくれた事、初めて一緒に外食した事、その後のダーツでは、僅差で上回れて悔しそうな茉莉花の顔を見れたし、バッティングマシンでは一番遅い六十キロに挑戦したものの、お互いに空振りばかりで苦笑いした黒歴史も出来た。
部活以外では聴いた事のなかった茉莉花の歌声は何とも言い難いものがあった。カラオケにしょっちゅう行っている割りに、ハードロックやビジュアル系の歌以外は何一つ歌えないというのだから驚かされる。確かに、確かに歌は上手いしセンスはあると言えるけど、ただシャウトしてるだけのような気もするし、自分の世界に陶酔し過ぎてて正直聴いてる方は胸焼けしそうな曲ばかりだった。
中学の時に流行ったアイドルの曲を一緒に歌おうと誘うと「汐音の柄じゃないね」と笑われてケンカをした。採点が低いとあちらがむくれ、エコーが効き過ぎだの音量が小さ過ぎだのワガママを言われてはこちらがぶつぶつため息をついた。カラオケ奉行とはこういう奴の事を指すのか、と身を持って知ったデートでもある。
『次のデートは汐音の行きたいとこ連れてってあげるから』
『ボウリングとビリヤード教えてくれるなら、またここに来てあげてもいいわよ? 勝ち逃げは許さないんだから』
『ふふんっ。ぼくに勝つのはまだ早いよ』
そんな意地の張り合いをしながら歩く帰り道にはしとしとと雨が降っていて、途中のコンビニまで手を繋いで走り、一本の傘を買っては腕を組んで歩いた。二本買うかと聞かれたあたしが首を振ると嬉しそうにした茉莉花の顔、今思い出しても頬が緩んでしまう。
一緒の電車に乗っているのに別々の車両にいるのは不自然だったけど、こまめにブルブルとメッセージが届く度に寂しさが少しだけ薄らいでいった。茉莉花じゃないけど、今日はあたしもずいぶん充電が出来た。だから寮までの道のりが別々になってもほくほくした気持ちでいられた。
「おっはよ、玲ちゃんっ。今日もゆでたまごみたいなおでこかわいいねっ」
「お、おはよ……。そういう汐音だっていつも前髪流してるじゃない。……って、パッチン新しいのにしたのね」
先に教室にいた玲ちゃんがあたしのおでこを覗き込む。まぁ、半分強引に気付かせたようなものだけど。
ちょっと寄り道して帰るから先に帰ってて、と言われて寮で待つ事一時間。どこをほっつき歩いてるんだかと呆れた頃に帰ってきた茉莉花は、初デートの思い出に、とショッピングモールでヘアパッチンを買ってきてくれた。それは少し子供っぽいデザインだったけど、薔薇の形に彩られたラインストーンがキラキラと光っていてとてもかわいかった。
あたしはそれが嬉しくて嬉しくて、いつものように下着まで脱ぎ捨てて布団を被っても、おでこにはさっそくパッチンをして寝たのだった。隣のベッドで横になっていた茉莉花は半分呆れ顔で、半分照れくさそうに笑っていた。
「えっへへ、気付いちゃった? それと玲ちゃんのクマさんにお友達が出来たんだよ? ほらほら、うちのチワワかわいいでしょー?」
「う、うん。でも玲のクマの方がかわいいんだからね。それにしても、汐音ってぬいぐるみとかキーホルダーとか、バッグに付けるタイプだと思わなかったからちょっと意外……」
「あはっ、そう?」
右へ左へポニーテールを揺らしながら席につく。バッグにぶら下げたチワワを見る度にあいつの顔が浮かんでしまう。
首輪に取り付けられた小さなプレートには結局あいつの名前は書かなかった。学校に連れて行くならマリカと書くのは自爆行為だとツッコまれて冷静になったのだ。
その代わり、あいつの好きな紫色のペンで『M・S』と書き込んだ。茉莉花のイニシャルになぞってだけど、Sはあたしの名前も含まれてるからいよいよ恋人らしくて若干バカップルっぽい。
だけど、キザったらしくペアリングを嵌めるよりも、こんな些細な繋がりの方がよっぽどあたしたちらしい。こそこそ付き合っているあたしたちらしい。
「汐音さん、おはようございます」
「あ、鈴芽ちゃん。おはよー。今日もかわいいねっ」
「あ、ありがとうございます。何だか楽しそうですね。汐音さんもかわいらしいですよ? そのパッチン、新しいの買われたのですね。とてもお似合いです」
「えへへ、ありがと。……あとで色々話すね」
自慢出来る相手は鈴芽ちゃんと千歳だけ。こういう時、おおっぴらにしている恋人たちが羨ましいと思ってしまう。あたしたちは恋話一つまともに出来ないのだから。
「あら、最近毎日してたシュシュはされてないのですね。新しいパッチンにしたからですか? あれもよくお似合いでしたのに」
「あー……うん。あれは……」
さすが鈴芽ちゃん。あたしのルームメイトだけあって観察力が誰よりも鋭い。
「しおーん」
あたしが口篭もっていると、これ幸いとばかりにあたしを呼ぶ声がした。振り返れば教室の扉の前で玲ちゃんが手招きをしている。
「汐音、六組の子が呼んでるわよ?」
「え、あ、うん。ありがと」
六組、そう聞いてあたしと鈴芽ちゃんの目が合う。まさかね、まさか茉莉花があたしを堂々と呼び出す訳が……。
鈴芽ちゃんに『大丈夫』と一つ頷いてみせる。いくら隠れて付き合っているとはいえ、あいつを避け続けていたらそれこそ怪しい。たまには平然を装って話す姿も曝しとかないとね、そう言い聞かせて一つ咳払いをしながら席を立った。
「あの、汐音……。お、おはよう……」
扉の向こうにいたのはかわいいヘタレ茉莉花でもなく、ウザッたらしいナンパちゃら娘のマリッカでもなく……。
「な、奈也……。お、はよ……」
背筋に嫌な汗が落ちていく。ぞわりと鳥肌が立つ。思わず後ずさってしまう。唾を飲み込みながら精一杯の声で挨拶を返した。
だけど、あたしの目の前に立っていたのは土曜日のあの日とは違う、いつもの姿の奈也だった。赤縁メガネに二つ結びの黒髪。相変わらずの上目使いと髪いじり。全てあの日以前の奈也にしか見えない。
見えない、けど……。
「その……こ、こないだはごめん……。こんなとこで話す事じゃないけど、そ、その、さっき下駄箱で汐音の後ろ姿見掛けて……やっぱり、アタシ汐音の事が忘れられなくて、だ、だから謝りたくて……」
「こ、困る……。そんな事ここで言われても……今話す事じゃないでしょ?」
なんでだろう。また絶対にフラッシュバックしてしまうと覚悟していたのに。同じ学校に通っているのだから避けて通れない呪縛だと覚悟していたのに。話し出したら緊張も強張りも薄れていくようだった。
「そ、そうだよね。もうすぐチャイム鳴るしね。でもね、どうしても謝りたくて……」
「……うん。でも、もういいよ。悪いけど今は、その……話したくないから……。奈也も教室戻って? それじゃ……」
言い切った。もう傷付けたくない。だけどあたしも傷付きたくない。だから、今はこれしか言えないけど、今言える全ては伝えられたはず。
「待ってっ。こ、これ、お詫びに作ってきたの……。今は話せなくてもいいから、これだけ受け取って?」
「ごめん。そういうのもちょっと……」
思わせぶりな態度がいけなかったんだ。だからあたしは『あなたの気持ちには応えられない』それを察してもらわなければならない。心を込めて作ってくれた気持ちには、もう申し訳なさしか残っていないのだから。
「お、お願いっ、受け取ってっ」
背を向けようとしたあたしの腕を奈也が思い切り引っ張った。相変わらず手加減なしの勢いに思わずよろけてしまう。
ひ、人がおとなしくしてれば……っ!
「やめてよっ! 触んないでっ!」
思わず叫んで振り解いてしまった。がやがやとしていた廊下が一瞬静まる。思いの外荒げてしまったので慌てて口に手を当てるも、怯える奈也の姿を見れば辺りはあたしが一方的に悪いと勘違いしているに違いない。
視線が突き刺さる……。
「あーぁ、かわいい仔猫ちゃんたちにケンカは似合わないよ? それともぼくの取り合いでもめちゃってるのかな?」
人混みの中からひょうひょうと現れるジャージ姿の娘。バッグを肩にしょいながら営業用スマイルで近付いてくる。
「か、関係ないでしょ? それに、別にケンカしてた訳じゃ……」
学校での獅子倉茉莉花を目の前にすると、どうしても語気が強まってしまう。あたしも所詮、学校での相葉汐音でしかないのだから。
茉莉花はにこにことあたしたちを見比べ、それから周りにいた生徒たちに向かって言い放った。
「だってさ。ケンカじゃないみたいだから安心していいよ。……とはいえ、こちらの汐音ちゃんって女の子はぼくの事を引っ叩いた前科があるからね。クラスメイトとして奈也ちゃんを守るのがぼくの勤め、かな?」
それを聞いたギャラリーはヒソヒソと話しながら教室へ入っていったり、あるいは安堵のため息をつきながらすれ違っていった。
何か考えがあるのだろうけど、学校での獅子倉茉莉花の言動は何を仕出かすか皆目見当もつかない。ひとまず茉莉花の考えに任せるとして、ここは悪役を買って立ち去るとする。
「好きにしたら? とりあえず場を静めてくれた事だけは御礼を言っておくけど」
「いいや? 凶暴なポメラニアンちゃんにクラスメイトが噛みつかれたら大変だと思って出しゃばっちゃっただけだよ。でも、あまり仔猫ちゃんをいじめるのは関心しないな」
だ、誰がポメラニアンよっ。どいつが仔猫ちゃんよっ。その子があたしに何をしたか、あんただけが知ってるっていうのに……。
このっ、二十面相チワワめっ!
「行こうか、奈也ちゃん。教室戻ったら先週の課題で出たデザイン画、ちょっと見てもらっていい? 結構頑張ったから褒めて欲しいな」
「え、う、うん……。じゃ、じゃあ汐音、これだけでも受け取って……? 話はまた改めるから……」
先程突き出してきた紙袋をもう一度差し出してくる。一瞬ちらりと茉莉花を見上げると、笑顔でこくんと一つ小さく頷いた。
ほんとに、ほんとにこれが茉莉花の何かしらの計画の内なら、今あたしがこれを受け取ってもその先に打つ手を考えてあるという事なんだろうか。
活気を取り戻した廊下。こんなに人が溢れていても、あたしたちの三角関係を誰一人知らない。鈴芽ちゃんでさえ、千歳でさえ。どんなトラブルがあったのかなんて誰にも言えやしない。誰にも相談出来ない。
だから、あたしが自分で判断しなくちゃ。
「分かった。ありがとね、奈也」
「う、ううん。こちらこそ、貰ってくれてありがとう。話は……お昼休み、シュシュをあげたところで待ってるから……」
「……うん。分かった」
茉莉花は何も言わない。ただ黙って窓の外を見上げていた。雨雲に覆われた空を。泣き出しそうな灰色の空を。
握りしめた紙袋がガサッと音を立てた。六組の教室へと消えていく二人の背中は、まるであたしの知らない誰かみたいだった。
あたしのいない教室ではどんな事を話すのだろう。校内と校外で二つの顔を持つ二人の会話。一体二人の時はどんな顔でいるのだろう。あたしの知らない話をするのだろうか。それともあたしの話をするのだろうか。
それとも、お互いのもう一つの顔を覗かせるのだろうか。
ぽつぽつと雨が窓を叩いてきた。胸がざわつく。もやもやを抱えたあたしは一人、昼休みまでこの気持ちを引きずって退屈な授業に耳を傾けなければならないのだろうか。




